Get it out. | Happy Paceをさがして。。

Happy Paceをさがして。。

Life is a Marathon worth Running.
Life isn't a Race, find Joy in the Journey.

「      。」

一つだけ。

僕は何らかの活動しているでもなく

当事者のオフ会、また集まる機会でも

自分の思いを吐く場所だと思っていた。

が。

取材が文章になり、人の目に触れる事で

誇張され、まるでそれが全てかの様に伝わる事が

この発信の怖さだとは分かっていた。

分かっていたつもりだった。

しかし。

あまりにいい人、いい言葉のような伝わり方をしていて

それを言われ続けて

積もり積もれば

そのイメージで生きなきゃいけない様な感覚に陥り

常に違和感と共に生きる様になった。

自分はそんないい人間じゃないのに。

普通に、仕事して、アフターは走って、

そう言う人は日本、世界に何万といる。

顔が変な市民ランナーが自分以外にいないからなのか

もの珍しいのか。

"走ってるってすごいですね"という話を何べんも。

市民ランナーは走ってない方々からそう言われる事は多々あると思うが

それを加えて言われ続けると、

違和感の上塗りで、

当事者の集まりの場に行く事が躊躇われる気分に襲われる。

走ってない人間を探す方が今時大変なのに。

走る事は武器でもない、飛び道具でもない。

飾られるものではない。

嫌と言う訳でもないが、

オフ会も、集まりも、何か特別な事を喋る必要があるのだろうかと

当事者の集まりなのに、心がクローズする事に気が付いた。

もう手遅れなのだと、今気が付いた。

自分はそんないい人間ではないのに。

「顔にもマケズ」はとてもいい本で、

実在の人間版"夢をかなえる ゾウ"だと思う。

しかしあまりにもきれいでよどみない文章によって

この思いに決定打を打たれたのは間違いない。

発信されたメディアによる自分像。

そこに気付いているけどどうしようもない違和感の積み重ね。

独り歩きする別の自分。

この積み重ねた思いは既に崩れており

心中、とっ散らかっているのである。

症状のある当事者と会う事が、一つの拠り所でもあると同時に

拠り所で違和感も覚える事にもなった。

この思いをどう昇華するのか。

症状或る故に思い重ねた辛みを走りにぶつけたのと同じように、

僕は、やはり、自分の違和感を、混乱した思いを乗せて

走るしかないのだ。

記録を目指していた頃、取材も受けていなかった頃は

純粋に走る事に打ち込んでいた。

今は取材だけでなく、他の場面でも当事者として・・・云々に

触れるようになった事で逆に当事者意識が高まらざるを得なくなった。

やはり、走るしかないのだ。

切り捨てなきゃいけないのは、この余計な当事者意識だ。

普通に仕事して、走って、の繰り返しに。

没個性、平凡、何とも見られない、思われない。

この普通さに憧れる。

当事者としての発信、という硬すぎる概念を

捨ててしまおう。

それがベスト。

そして、走るしかないのだ。

出来上がったパブリックイメージは放っておこう。

自分は自分で走り続けよう。