*サン=テグジュペリ年表 ⑨* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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≪サン=テグジュペリ年表⑨≫

1931年
1月、アントワーヌはパリに戻り、3月にコンスエロ・スンシンと結婚します。
コンスエロは、グアテマラ出身の作家でアルゼンチンに帰化して領事も務めた夫、ゴメス・カリーリョを 1927 年に亡くしたばかりの未亡人でした。

サン=テグジュペリ

3月31日、航空郵便社(l'Aeropostale)が清算手続きに入ります。社長は辞任しディディエ・ドラ(Didier Daurat)は開発部長の地位を辞し、アントワーヌはドラとの連帯感から南米に戻ることを諦めます。

5月から12月まで、アントワーヌはカサブランカ=ポール・エチエンヌ間を結ぶ夜間便のパイロットを勤めます。

12月、アンドレ・ジッド(André Gide)の序文を添えた小説「夜間飛行(Vol de Nuit)がフランスで最も権威ある文学賞の一つであるフェミナ賞(le prix Fémina)を獲得し、ベストセラーになります。
当時、アントワーヌは経済的な問題を抱えていたのですが、この小説の成功で一息つくことができました。しかし、完全に解決されたわけではありません。




1932年
水上飛行機操縦免許を取得し、マルセイユ=アルジェ間の航路を開拓します。

1933年
全ての航空会社がエール・フランス(Air France)に統合されます。ドラとその仲間たちに反感を持つエンジニアたちは、アントワーヌのエール・フランス入社を妨害します。そこで彼はラテコエール航空機製造会社のテスト・パイロットになります。

1934年
4月、アントワーヌはようやくエール・フランス入社がかない、調査旅行と講演業務を任されます。給料も上がり、ようやく経済的な問題を解決することが可能になります。
7月、マルセイユ=サイゴン間を往復します。

1935年
12月、彼はパリ=サイゴン間の最短飛行記録更新に挑戦します。12月29日23時に離陸しますが、その4時間後、リビア砂漠に不時着。1月1日18時にようやく発見されます。


$ミスター・ビーンのお気楽ブログ-リビア砂漠に不時着


≪サン=テグジュペリの言葉≫

« Moi je respecte d'abord ce qui dure plus que les hommes. »

≪僕は先ず、人間を超えて残るものを尊敬する。≫

« Ce qui donne un sens à la vie donne un sens à la mort. »

≪生に意味を与えるものは、死に意味を与える。≫

(ミスター・ビーン訳)

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