*ペスト 翻訳 IV (6)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



IV  (6)

こうして、都市には他にもいくつか隔離キャンプがあったのだが、語り手には躊躇いもあり、それに直接情報を集めたわけでもないので、それらについてもう語ることは出来ない。ただ言えることは、これらのキャンプの存在、そこから漂ってくる男たちの臭い、黄昏時にスピーカーから大音量で聞こえる声、謎めいた塀、世間から見捨てられたこのような場所への恐れ、それらが相まって我が市民たちの心に重くのしかかり、住民全体の心を一層混乱させ、不安を煽っていたのだった。行政相手の事件や摩擦も数を増した。

それでも11月の末には、朝方はひどく寒くなった。何度か激しい雨が降り、大量の水で舗道を洗い、空をきれいにし、てかてかと光った街路の上空には雲一つ無かった。毎朝、弱々しい太陽が、都市の上にキラキラと凍りついた光を投げかけた。夕暮れが近づくと、逆に、空気は再び暖かさを取り戻すのだ。そんな時刻を選んで、タルーはリゥ医師に少しばかり打ち明け話をしたのだった。

ある日の10時頃、身も心もくたくたにする長い1日を過ごした後、タルーは夜の往診に出かけるリゥと一緒に、例の喘息持ちの老人の家に行った。その古びた一画にある家々の上で、空は柔らかな光を放っていた。微かな風が、音も無く十字路を吹き抜けていた。そんな静かな通りからやって来た二人は、老人の絶え間ないお喋りに遭遇する羽目になった。老人は市民の中には現状を快く思っていない人々がいる、うまい汁を吸っているのはいつも同じ連中だ、いずれこのままでは収まらず、多分、そこまで言って老人は揉み手をした、多分これからひと騒動持ち上がるだろうと二人に告げた。リゥ医師が診察している間も、老人は絶えず市内で起きている出来事にあれこれコメントを加えていた。

病室では、上で人が歩いている物音が聞こえていた。患者の年老いた妻は、タルーが興味深げな様子をしているのに気付くと、隣の上さん連中が屋上のテラスにいるのだと二人に説明した。ついでに二人は、屋上からの眺めは良く、屋上テラスはしばしば片側が繋がっているので、この界隈の上さんたちはわざわざ家から出なくてもお互いに行き来できることを知った。

「そうなんだ」と老人は言った。「上に行ってみなせえ。屋上は空気がうまいよ。」


la peste IV ㊱

テラスに人影は無く、椅子が3脚備え付けてあった。一方は、見渡す限り目に入るのはテラスだけで、その先には石ころだらけの黒い塊があり、それが最初の丘だった。反対側は、街並みと目には見えぬ港の先に水平線が見えるのだが、そこでは空と海が定かならぬ揺らめきの中で混じり合っていた。二人がそこは断崖だと知っている場所の向こうで、光源は見えないが、一筋の微かな光が規則的に点滅していた。航行可能な水路を示す灯台が、方向転換して別の港に向かう船舶のために、春からずっと回り続けていたのだ。風に掃き清められ、明るさを増した空では、星が清らかに輝き、灯台の遠い微かな光が刻一刻灰色の筋を加えていた。海風が、香辛料と石の臭いを運び、物音ひとつ聞こえなかった。

「気持ちがいいな」とリゥは腰を下ろしながら言った。「ペストのやつ、まるでここには一度も上がって来なかったように見える。」

タルーはリゥに背を向け、海を眺めていた。

「そうだな」と少し間を置いてタルーは言った。「ここは気持ちがいい。」

彼はリゥ医師の隣に来て腰を下ろし、注意深く彼を見詰めた。灯台の淡い光が空に3度現れた。通りの奥から食器のぶつかる音が聞こえる。家の中でドアが一つパタンと閉まる音がした。

「リゥ」とごく自然な口調でタルーが言った。「君は一度も僕の素性を詮索しなかったね? 僕に友情を感じてくれているのか?」

「そうだ」とリゥ医師は答えた。「君には友情を感じている。しかしこれまで、我々には時間がなかったからな。」

「なるほど、それで安心したよ。この時間を友情の時間にしてみないか?」

答える代りに、リゥはタルーに微笑んだ。

「それじゃ、僕のことを話すが…」

数本先の通りでは、車が一台、長い時間をかけて濡れた舗道を滑りぬけていくように見えた。車が遠ざかると、その後に混乱した叫び声が遠くから聞こえ、再び静寂が破られた。それから再び二人に静寂が訪れ、上空ではその静けさを際立たせるように空と星々が輝いていた。タルーは立ち上がるとテラスの手すりに腰掛け、リゥと向かい合った。リゥの方は相変わらず椅子に深く身を沈めている。タルーの姿はがっしりとした輪郭だけが見え、それが空を背景にくっきりと浮き上がっていた。タルーの話は長かったが、再現してみると概ね以下のようになる。

「簡単に言えば、リゥ、僕はこの都市とこの疫病を知るはるか前に、もうペストに苦しんでいたのだ。つまり、まあ、僕は人並みだというわけだ。しかし、それが分からない連中、あるいは、現状に満足している連中がいるし、それを分かっていて、そこから抜け出したいと思っている連中もいる。僕はいつもそこから抜け出したいと思っていたのだ。」


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「若い頃、僕は自分が潔白な人間だと思って生きていた。つまり、何も考えずに生きていたわけだ。僕は思い悩むタイプじゃない。順調に人生のスタートを切ったのさ。僕は何をやっても成功していた。頭は切れたし、ご婦人たちとも懇(ねんご)ろになれた。不安に見舞われても、不安は生まれると同時に消えていった。でもある日、僕はものを深く考え始めたのだ。今では…」

「言っておくが、僕は君のように貧しい境遇ではなかった。父は次席検事で、まあそれなりの地位に就いていたわけだ。しかし、元々好人物だったので、検事風を吹かせるようなことはなかった。母は素朴で控えめな女性だった。今も変わらず僕はずっと母を愛しているが、その話はやめておこう。父は愛情をこめて僕のことに気を配っていたし、それどころか、僕のことを理解しようとしてくれていたと思う。父は外で何度か浮気をしていた。今の僕にはそれがはっきり分かるが、それで腹が立つこともない。その点については、父は然るべき態度で、つまり誰一人傷つけぬように振る舞っていたのだ。手短に言えば、父はあまり特別な人間ではなかった。父が亡くなった今、僕に分かるのは、彼は聖人君子のような生涯を送ることはなかったが、悪い人間でもなかったということだ。父は中道を歩んでいた、それだけのことなのだ。父は、こちらがそれなりの愛情を感じ、ずっと付き合っていけるような愛情を感じる人物というわけだ。」

「しかし、そんな父にも、一つ特別なところがあった。あの偉大なシェークス版列車時刻表が愛読書だったのだ。だが、いつも旅行をしていたわけじゃない。せいぜいヴァカンスの時に、所有していた小さな地所のあるブルターニュに出かけるぐらいだ。しかし父は、パリ-ベルリン間の列車の出発時刻と到着時刻、リヨンからワルシャワに行くのに必要な時刻表の組み合わせ、こちらがどの首都を選んでも、その首都間の正確なキロ数をきちんと言うことが出来た。君は、ブリアンソン(注:フランス南東部、オート=ザルプ県にある町)からシャモニー(注:アルプス山脈の最高峰モン・ブラン北麓にある町。登山、ウィンタースポーツの基地)までの行き方を言えるかい?駅長だって途方に暮れるだろう。しかし、父はまごつくことはなかった。ほとんど毎晩、そういう知識を増やそうと訓練していたし、むしろそれを誇りにしていたのだ。それが僕にもひどく楽しくて、よく父に質問したのだが、後で父の答えをシェークスの時刻表で確かめ、父が間違ってはいなかったことを確認して大喜びしたものだ。こんなささやかな訓練を続けたおかげで、父と僕の絆は親密なものになった。何故なら、僕は父が喜ぶような熱心な聴き手になったからだし、僕の方は、父が鉄道のことなら誰にも負けないということは、他の優越性に劣らず価値があると思っていたからだ。」


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「でも、話が脱線しているな、この誠実な人物に重きを置きすぎている。何故なら、結局のところ、父は僕の決意に間接的な影響しか与えていないのだからね。彼はせいぜい僕に一つの機会を与えてくれただけなのだ。と言うのも、僕が17になった時、僕は裁判所で父の論告を聴きに来るようにと父から言われたのだ。当時、重罪院で、ある重要な訴訟事件が裁かれていて、きっと父は息子に自分の晴れ姿を見せてやれると思っていたのだ。それに父は、若い想像力を掻き立てるにはうってつけのこうした儀式の力を借りて、父と同じキャリアに僕を誘い込もうとしていたのだと思う。僕は裁判の傍聴に同意した。何故なら父が喜ぶし、それに、家庭の父親役以外の役割を演じている父の姿をぜひこの目で見、この耳で聞いてみたいと思っていたからだ。僕はそれ以上のことは何も考えていなかった。それまではずっと、法廷で行われていることは、7月14日の閲兵式や学校での賞品授与式同様ごく当たり前でやむを得ないものに思えていたのだ。裁判について僕が抱いていたのはひどく抽象的な観念であり、僕を不快にするものではなかった。」

「しかし、その日の裁判の中で僕が憶えているのは犯人の姿だけ、それだけなのだ。罪名などどうでもいいが、とにかく彼は有罪だったと思う。しかし、歳は30がらみの、赤くて薄い体毛に被われたこの小柄な男は、全てを認めようと決意を固め、自分が犯した罪と、自分に課される刑罰を心から恐れているように見えたので、裁判が始まって数分経つと、僕にはもう彼の姿しか目に入らなくなった。彼は、眩しすぎる光に怯えるミミズクのような様子をしていた。ネクタイの結び目は、カラーの襟もとにぴったりと合っていない。片手の、多分右手の爪を噛んでいる… くどくどとは言うまい、君もわかったろう、要するに、彼は生きていたのだ。」

「しかし、僕はそのとき突然そのことに気付いたのだ。それまで僕は、被疑者という便利な範疇を通してしか彼のことを考えてはいなかった。そのとき父のことを忘れていたとは言えないが、何かが僕の腹を締め付け、それが他の注意を全て奪い去り、僕は被疑者にだけ注意を向けることになった。僕は殆ど何も聴いていなかった。僕は人々がこの生きている男を殺したがっていることを感じ、まるで波が僕を頑ななまでにこの男の側に運んでいくような、そんな激しい衝動を感じていた。実際、僕が我に返ったのは父が被告人に対する論告を始めたときだった。」

「赤い法服に身を包み人が変わってしまった父、いつものような好人物でもなく、愛情深くもない父、その父の口は夥しい数の文章で満ち溢れ、それが絶え間なく蛇のように口から出てくるのだ。そして僕は、父が社会の名のもとにこの男の死を要求していること、それどころか、斬首を要求していることが分かった。なるほど父はただ、『この男の首は落ちなければなりません』と言っていただけだ。しかし、結局、大して違いはない。と言うのも、それは同じことになるからだ。父は男の首を手に入れることになるのだから。ただ、直接手を下すのが父ではないというだけだ。そして、この訴訟事件を結末に至るまでひたすら見届けた僕は、この不幸な男に対して父が抱いていたよりは遥かに猛烈な親近感を抱いていたのだった。それでも父は、慣習に従い、最後の瞬間と上品に呼ばれているもの、実は、最も下劣な殺人と呼ぶべきものに立ち会わねばならなかった。」


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「その日を境に、僕はシェークス版列車時刻表を眺めると、おぞましい嫌悪の念しか感じられなくなった。その日を境に、僕は嫌悪しながらも裁判、死刑判決、処刑に興味を持ち、父がきっと何度かその殺人現場に立ち会ったこと、そして処刑に立ち会ったのは、正に父がひどく早起きした日々であったことを確認し眩暈に襲われた。そう、父は処刑に立ち会う前日には目覚まし時計のゼンマイを巻いていたのだ。僕はそのことを母に話す勇気はなかったが、母の様子を子細に観察し、父と母の間にはもう何の繋がりもないこと、母は世捨て人のような暮らしを送っていることを理解した。そのおかげで、当時の僕の言い方を借りれば、僕は母を許すことが出来た。後に、僕は、許すも許さないもない、母には何の罪もないことが分かったのだ。何故なら、母は生まれてから父と結婚するまでは常に貧しい暮らしを送っており、その貧しさ故に忍従が身に沁みついてしまっていたからだ。」

「多分君は、すぐにも父の家を飛び出したと僕が言うのを期待しているだろうね。いや、僕は数か月、ほぼ1年余り父の家に留まっていたのだ。しかしその間、僕の心は病んでいた。ある晩、父は目覚ましを持ってくるようにと言った。翌日、早起きをしなければならなかったからだ。僕はその晩は眠らなかった。翌日、父が家に帰ると僕はもう家を出ていた。ただ、言っておくが、父は僕の行方を捜させ、僕は父に会いに行き、何の説明もせず、落ち着き払ってこう言ったのだ。もし父が無理矢理僕を連れ戻すようなら、自殺すると。結局、父は折れた。父はどちらかと言えばおとなしい性質(たち)だったからね。父は、勝手気ままに暮らすことの愚かしさについて僕に説教し(彼は僕の行動をそのように解釈していたのだが、僕はあえてその誤解を解こうとはしなかった)、山ほどの忠告を僕に与え、そして湧き出る涙(これは心からのものだ)をこらえていた。その後、と言ってもかなり経ってからだが、僕は定期的に母に会いに家に帰り、そのとき父とも出会った。父には、このような関係で十分だったのだと僕は思う。僕の方は父に対して何の敵意も抱いてはいなかった。ただ、少し心に悲しみがあるだけだ。父が死ぬと、僕は母を引き取った。もしその後、今度は母が亡くなっていなければ、母はまだ僕の所にいるだろう。」

「この出だしの部分をくどくど話したわけだが、実際、それが全ての始まりだったからだ。この先は話を急ごう。何不自由ない暮らしを捨て、僕は18の歳で貧困を味わった。生活費を稼ぐため、ありとあらゆる仕事をやったさ。それがあまり上手く行かなかったわけではない。しかし、僕が興味を持っていたのは死刑のことだった。あの赤毛のミミズクと決着をつけたいと思っていたのだ。そこで、いわゆる政治活動というのをやった。要するに、僕はペスト患者にはなりたくなかったのだ。僕が生きている社会は、死刑制度に基づく社会であり、死刑と闘うことで殺人行為と闘うことになると信じていたのだ。僕はそう信じたし、同じことを僕に語る人たちもいた。それに、結局、それは大筋では正しかったのだ。そこで僕は、同じ信念を持つ僕が愛する人々、今もなお愛している人々の仲間になった。僕は長い間その仲間と共にいて、ヨーロッパで僕がその闘いに参加しなかった国は一つもない。話を進めよう。」


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「無論僕は、我々もときには死刑を口にすることは知っていた。しかし、こうした死は、人がもう殺されない世の中をもたらすのに必要だと言われてきたのだ。それはある意味真理だったが、結局、こうした真理の中で生きていくことは多分僕には出来ないのだ。確かに僕は迷っていた。でも、僕はあのミミズクのことが頭から離れなかった。そんな状態がそのまま続いていたかもしれない。あの日、この目で処刑の現場(ハンガリーでのことだ)を見るまではね。そのとき、子供だった僕を捉えたのと同じ眩暈が、大人である僕の目を曇らせたのだ。」

「君は、銃殺の現場を一度も見たことはないだろう?そりゃそうだ。普通、招待されて見学するものだし、見学者は前もって選ばれている。だから君は、せいぜい版画や本を見るしかなかったわけだ。目隠しと、処刑用の柱と、遠くには兵隊が何人かいるってところだな。君は、射撃班は遠くにいるどころか、死刑囚の1メートル50センチの所にいることを知っているか?死刑囚が2歩前に進めば、胸が射撃班の銃とぶつかってしまうのを知っているか?知っているかい?そんな至近距離から射撃兵たちは死刑囚の心臓のあたりに狙いを定め、大きな弾丸を込めた銃で一斉射撃をし、死刑囚の胸に拳が入るくらいの穴を開けてしまうのだ。いや、知りやしないよな、何故ならこういう細かいことは黙して語られないからね。ペスト患者の命よりは人々の眠りの方が神聖だってわけだ。善良な人々の眠りを妨げてはならないのさ。そんなことを敢えて口にするのは悪趣味、くどくど言わないのが趣味の良さ、そんなことは誰でも知っている。でも、僕はあの時以来よく眠れないのだ。口の中に嫌な味が残っていて、こだわりが消えない。つまり絶えずあの処刑のことを考えているのだ。」


「その時僕は、あの長い年月の間、ペスト、つまり人に死をもたらす状況と正に全力で闘っていると信じていたあの長い年月の間、少なくとも自分もまたペスト患者、つまり人に死をもたらす存在であり続けたことを理解したのだ。僕は、自分が何千もの人々の死に間接的に同意していたこと、それどころか、必然的に人の死をもたらしていた行為や原理を良しとすることで、人を死に追いやっていたことを知ったのだ。他の連中は、そのことで苦しんでいるようには思えなかった。少なくとも、決して自分からそんなことを口に出したりはしなかった。僕は胸が締め付けられる思いだった。彼らと一緒にいても、僕は孤独だったのだ。自分が感じている良心の咎めを偶々口に出したりすると、彼らは今何が危険にさらされているのかじっくり考えてみろと言い、しばしば感動的な理由をいくつか挙げ、僕がどうしても呑み込めないことを無理にでも呑み込ませようとした。でも僕はその度にこう答えていた。大物のペスト患者、つまり赤い法服を着ている連中もその点では極めて立派な言い分があるし、それにもし小物のペスト患者たちが引き合いに出すのっぴきならぬ理由とか必要性とかいうものを認めたら、大物たちの言い分を拒否することなど出来ないと。すると彼らは、そのご立派な考えに従って赤い法服の連中の言い分を認めることは、連中に刑を下す独占権を引き渡すことになると指摘していた。しかしその時僕は、もし一度でも譲歩すれば歯止めが利かなくなると考えていた。そして歴史は僕が正しいことを裏付けてくれたように思える。今の時代は、最も多くの殺人を行う者の時代なのだ。彼らは皆、熱に浮かされたように人を殺している。彼らには他にやりようがないのだ。」

「いずれにしろ、僕に関心があるのは理屈じゃなかった。関心があるのはあの赤毛のミミズクのことであり、ペストに侵された汚らわしい口から、鎖につながれた一人の男が死を告げられた出来事、しかも幾夜もの間、自分が殺されるのを眠れぬまま待ち受ける苦悩に満ちた夜を過ごした挙句、死を迎えるように全て段取りされたあの忌まわしい出来事のことだったのだ。僕に関心があるのは、あの銃殺に処された男の胸にぽっかり空いた穴のことだったのだ。それで僕はこう考えていた。差し当たり、少なくとも自分だけは、ただの一度でも、いいかい、ただの一度でもこういう胸の悪くなるような虐殺を決して正しいとは認めまいとね。そう、僕は物事がもっとはっきりと見えてくるまでは、こんな風に頑固に片意地を張る道を選んだのだ。」


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「それ以来、僕は変わっていない。僕は長い間恥じているのだ。死ぬほど恥じているのだ。間接的にせよ、善意からにせよ、自分もまた人殺しであったことを。ただ、時が経つにつれて、僕はあることに気が付いた。他の連中よりも優れている人々でさえ、今日では人を殺すか、あるいは、人が殺されるのを看過せざるを得なくなっているのだ。何故なら、それは彼らが生きていく論理の中に組み込まれていて、我々がこの世の中で何か行動を起こせば必ず人の死を招く危険を冒すことになるからだ。そう、僕は絶えず恥じていた。我々は皆、ペストの最中にいることが分かったのだ。そして僕は心の平安を失った。全ての人を理解しようと努め、誰に対しても不倶戴天の敵にならぬように努め、僕は今でもまだ心の平安を求めている。僕に分かっているのはただこれだけだ。つまり、自分がもうペスト患者にならぬために為すべきことを行うこと、そうすることでのみ我々は心の平安を、それが叶わぬまでも、安らかな死を期待できるということだ。それが人の荷を軽くし、それで人は救われぬまでも、少なくとも最小限の悪を行うだけで済み、時には僅かばかりの善を行うことすら出来るのだ。それ故僕は、直接的であれ、間接的であれ、理由の良し悪しに関わらず、人を死に追いやる全てのこと、殺人を正当化する全てのことを拒否することに決めたのさ。」

「だから、今度のペストの件でも、君たちの側に立ちペストと闘わねばならぬということ以外、僕には何も学ぶものはない。僕は確かな知識に基づいて知っている(そうさ、リゥ、君もよく分かっているように、僕は人生の全てを知っているのだ)。僕は人がそれぞれ自分の中にペストを抱えていることを知っているのだ。誰一人として、そう、この世の誰一人としてペストの感染を免れる者はいないのだからね。そして、うっかり気を抜いて、相手の顔に息を吹きかけペストを移してしまう羽目に陥らぬよう、絶えず気を配っていなければならないことも分かっている。黴菌は自然が生み出すものだ。しかし、その他のこと、つまり、健康、無傷であること、純粋であることと言ってもいいが、それは意志の為せる業、決して弛(たゆ)むことのない意志が生み出すものなのだ。誠実な人間、つまり、殆ど誰にも病気を移さぬ人とは、出来る限り気を抜かない人のことだ。そして、決して気を抜かぬためには、意志と緊張が不可欠だ!そうなのだ、リゥ、ペスト患者であることは確かに疲れる。しかし、ペスト患者になるまいとすることは、それよりはるかに疲れることだ。だから誰もが皆、疲れた顔をしているのさ。今日では誰もが皆、多少なりともペストに罹っているのだからね。しかし、だからこそ、ペストに罹るまいとしている連中は疲労の極限を味わうことになる。そして、その疲労から彼らを解放してくれるのは最早死のみということになるのさ。」


「この先、僕は自分がこの世の中ではもう何の価値もないこと、殺すことを放棄した時から、自分は追放という最終判決を受けたことを知っている。これから歴史を作っていくのは僕ではなく他の連中だ。どうやら自分にはその連中を裁くことは出来そうにないことも分かっている。それなりの殺人者になるには、僕にはある素質が欠けているのだ。だからと言って、自分は人より優れているということにはならないがね。しかし今、僕はありのままの自分で良いと思っている。僕はへりくだることを学んだのだ。ただこれだけは言っておく。この世には様々な災禍と犠牲者がいる。そして、災禍の味方になることは出来る限り拒否しなければならないのだ。こんなことは多分君には少々単純に思えるかもしれない。それが単純かどうか僕には分からないが、それが真実であることは分かっている。僕はこれまでたくさんの理論を耳にしてきたし、それらの理論に僕も危うく振り向きそうになったのだが、十分な数の他の連中が振り向き、人を殺すことに同意した。そこで僕は、人間の不幸は全て、人間が明確な言葉で話していないことに由来していると分かったのさ。だから僕は、道を踏み外さぬために、明確に語り、明確に行動する決心をしたのだ。それ故僕はこう言っておく。あるのは災禍と犠牲者であり、他には何もないと。仮に、そう語っている僕自身が災禍となるにしても、同意の上でそうなるのではない。僕は悪意のない殺人者になろうとしているわけだ。分かるだろう、それは大した野心ではないのさ。」

「無論、第三のカテゴリーが存在しなければならないだろうな。つまり、本物の医者の存在というカテゴリーだ。しかし、実際には、本物の医者にはそうめったにはお目にかかれないし、見つけるのは困難に違いない。だから僕は如何なる場合にも犠牲者の側に立ち、損害を一定限度内に食い止めることに決めたのだ。犠牲者の中にいれば、少なくとも、第三のカテゴリー、つまり心の平安に到達する方法を探すことが出来るからね。」


la peste IV  ㊹

話を締めくくりながら、タルーは片脚をぶらぶらさせ、足で静かにテラスを蹴っていた。しばしの沈黙の後、リゥ医師は少し上体を上げ、心の平安に至るのに取るべき道についてタルーには何か考えがあるのかと尋ねた。

「あるさ、人を思いやる心だ。」

救急車の二つの鐘が、遠くで鳴り響いた。つい先ほどまでばらばらだった叫び声は、都市の外れ、石ころだらけの丘の近くに集まっていた。同時に、何か爆発するような音が聞こえる。それから再び沈黙が訪れた。リゥは灯台が2回点滅するのを数えた。風が前より強くなったように思える。同時に、海から吹き寄せる風が塩の香りを運んできた。今や、断崖に打ち寄せる微かな波の息吹がはっきりと聞こえてくるのだった。

「要するに」とタルーは単刀直入に言った。「僕に興味があるのは、聖人になる方法を知ることなのだ。」

「しかし、君は神を信じてはいないだろう。」

「だからこそだ。人は神を介さずに聖人になれるだろうか?それが、今現在僕が知っている唯一の具体的な問題なのだ。」

突然、さっき叫び声が聞こえた辺りから大きな閃光が迸った。そして風の流れに逆らって、謎めいたどよめきが二人のいる所まで聞こえてきた。閃光はすぐに暗くなり、遠く、テラスの端に赤みを帯びた薄明りだけが残っていた。風が途切れると、人々の叫び声、次に銃声、そして群衆の抗議の叫びが聞こえてきた。タルーは立ち上がって耳を傾けていたが、もう何も聞こえてこなかった。

「また市門の所で争いが起きたな。」

「もう終わったよ。」とリゥが答えた。

タルーは、決して終わってはいない、この先まだ犠牲者が出るだろう、何しろそれが世の常なのだからと呟いた。

「多分ね」とリゥ医師は答えた。「しかし君、僕はね、聖人よりは敗者の方により連帯感を感じるのだ。ヒロイズムとか聖徳とかいうものに自分は興味が無いのだと思う。僕に興味があるのは、人間らしくあることだ。」

「そうだな、僕らは同じものを求めている。しかし、僕は君ほど野心的ではないのさ。」

リゥはタルーが冗談を言っていると思い、彼の顔を見詰めた。しかし空から降り注ぐ薄明りの中で見えるのは、タルーの悲しげで、真剣な表情だった。再び風が起こり、リゥには肌に吹きつける風が生暖かく感じられた。タルーは気を取り直してこう言った。

「友情のために、これから僕らは何をすべきか分かるかい?」

「君に任せるよ。」とリゥが言った。

「海水浴をするのさ。未来の聖人にとっても、それは相応しい楽しみだ。」

リゥは微笑んでいた。

「二人とも通行許可証があるから、防波堤の上に行けるよ。全くのところ、ペストの中でしか暮らさないなんて馬鹿馬鹿し過ぎる。無論、犠牲者のために闘わねばならないが、だからと言って好きなことを止めたりしたら、闘うことに何の意味があるんだい?」

「その通り」とリゥは言った。「さあ、泳ぎに行こう」。


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その少し後、リゥの車は港の鉄柵の近くに止まっていた。もう月が出ていた。乳色の空が辺り一面に青白い影を投げかけている。背後には、都市が階段状に広がり、そこから吹き寄せる熱く病んだ風が二人を海の方へ押しやっているのだった。彼らが書類を衛兵に見せると、衛兵はかなり時間をかけて点検した。リゥとタルーは先に進み、樽で被われた土手を横切り、ワインと魚の臭いの中を防波堤に向かった。防波堤に着く直前、ヨードと海藻の臭いがその先に海があることを告げた。それから、海の音が聞こえてきた。

海は防波堤の大きなブロック群の足元で、静かに口笛のような音をたてていた。そして二人がブロックをよじ登るにつれて、海はビロードのように厚く、獣のようにしなやかでなめらかな姿を現した。リゥとタルーは、外海に向いた岩の上に腰を下ろした。海水はゆっくりと盛り上がり、そしてまたゆっくりと引いていく。海のこの静かな息遣いに合わせて、油を流したような艶やかな海面が現れては消えていった。眼前には、果てしない闇が広がっている。指の下にあばた面のようにごつごつした岩肌を感じ、リゥの心は不思議な幸福感に溢れていた。タルーの方を振り返ると、何事も、殺人のことすら忘れてはいないこの友の静かで厳粛な顔に、自分と同じ幸福感が表れているのが見て取れるのだった。

二人は服を脱いだ。リゥが先に飛び込む。最初は冷たかった海水が、再び海面に顔を出した時には生温かく思えた。二掻き三掻きした後、リゥは、その晩の海は温かいことが分かったが、それは数か月の長きにわたり蓄えられた熱を、秋の海が陸地から奪い取っているせいなのだ。リゥは規則正しいペースで泳いでいた。両足が海面を叩き、背後に泡を残し、水は腕をすり抜けて両脚に絡みついてきた。鈍い水音が聞こえ、タルーも飛び込んだことが分かった。リゥは仰向けになり、じっとしたまま月と星々に満ちた空に顔を向けていた。彼は長々と息を吸い込んだ。それから海面を叩く音が、夜の静寂と孤独の中で奇妙に澄んだその水音が次第にはっきりと聞こえてきた。タルーが近づいてきたのだ。やがて彼の息遣いが聞こえてきた。リゥは身体を反転させ、友のペースに合わせ、同じリズムで泳いだ。タルーはリゥよりも力強く前進していったので、リゥはスピードを上げなければならなかった。数分の間、リゥとタルーは、二人きりで世間から離れ、終に都市からもペストからも解放されて、同じリズム、同じ力で前に進んだ。リゥが先に前進を止め、二人はゆっくりと引き返して行った。ただ、一瞬氷のように冷たい流れに入り込んだときは別だ。そのときは二人とも、海が繰り出した不意打ちに鞭打たれたように、無言のまま動きを速めたのだった。

再び服を着ると、二人は一言も交わさず家路についた。しかし、二人とも気持ちは同じ、その夜の出来事は彼らにとって心にしみる思い出となっていたのだ。二人が遠くから、辺りを見張るペストの姿を見かけたとき、リゥは、タルーもまた自分同様、ペストがついさっきまで彼らの存在を忘れていたこと、それはそれで素晴らしいことであったが、今は闘いを再開しなければならぬと考えていることが分かるのだった。


la peste IV ㊻

(ミスター・ビーン訳)

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