*ペスト 翻訳 II (4)* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

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アルベール・カミュ


la peste 翻訳



「ペスト」(1947)



II  (4)

この日曜の説教が我が市民たちに影響を与えたかどうか、それは何とも言い難い。予審判事のオトン氏はリゥ医師に、自分はパヌルー神父の説は全くもって≪反論の余地が無い≫と思ったと明言した。しかし誰もがこれほどはっきりした意見を持っていたわけではない。ただ、その説教を聞いて、それまで漠然と抱いていた思い、自分たちは何らかの罪を犯し、その罰で思いもよらぬ拘禁状態に処されているのではないかという思いをより強くする者もいた。そして、これまで通りの生活を続け、幽閉生活に慣れて行く者がいる一方で、あの説教以来、逆に、この牢獄を抜け出すことだけしか頭にない者もいた。

市民たちは最初、外部との遮断を受け入れていた。それに、一時的で、彼らの習慣の一部だけをかき乱す事態であれば、どんな不都合なものでも受け入れていたであろう。しかし、煮えたぎるような夏が始まろうとしている空の下で、市民たちは、突然ある種の不法監禁を意識し、漠然とではあるが、この禁固刑が生涯続くのではないかと感じていた。そして、夜になって涼しさが戻り元気を取り戻すと、ときには捨て鉢な行為に走るのだった。

まず最初に、偶然であるにせよないにせよ、この日曜日を境に市内に広く深く恐怖感が漂い、我が市民たちは自らが置かれた状況を本当に意識し始めたのではないかと思える節があった。このように見てみると、市内の暮らしぶりは以前とは少し変わっていた。しかし、実の所、暮らしぶりが変化したのか、人々の心が変化したのか、それは疑問だ。

説教から数日後、リゥは周辺地区に向かいながら、グランを相手に日曜の出来事を論評していたのだが、闇の中で一人の男と出くわした。男は前に進もうとはせず二人の眼前で右に左に身体を揺すっていた。丁度その時、日に日に点灯時間が遅くなっていた市の街灯がだしぬけに灯った。リゥとグランの背後にある街灯が、突然、両目を閉じて声も立てずに笑っているその男を照らした。無言の哄笑を浮かべているせいで膨張した、白っぽい男の顔に、大粒の汗が流れていた。二人は男の傍を通り過ぎた。

「狂ってます。」とグランが言った。

リゥは、グランの片腕を掴んで引き寄せた後、この市職員が興奮で震えているのを感じた。

「間もなく市内にはもう狂人しかいなくなるよ。」とリゥは言った。

疲労も手伝い、リゥは喉の渇きを感じていた。

「何か飲もう。」


la peste II ⑰

二人が小さなカフェに入ると、灯りと言えば、カウンターの上に置かれたたった一つのランプだけで、客たちは澱んだ、赤みを帯びた空気の中で、ただわけも無くひそひそ声で話していた。カウンターにつくと、リゥ医師が驚いたことに、グランは酒を注文し、それを一気に飲み干した。そしてきっぱりと、自分は酒には強いのだと言う。それからグランは店を出たいと言った。外に出ると、リゥには夜がうめき声に満ち満ちているように思えるのだった。街灯の上の暗い夜空のどこかで、鈍いひゅうひゅうと言う音が聞こえ、リゥにはそれが、倦むことなく熱い空気をかき混ぜている目に見えぬ疫病のように思えた。

「幸いなことに、幸いなことにです。」とグランは言っていた。

リゥは、グランは何を言いたいのだろうと思った。

「幸いなことに」とグランは言った。「私には自分の仕事が有ります。」

「そうだな」とリゥは言った。「それは有利だ。」

そして、ひゅうひゅうと言う音には耳を傾けまいと心に決めて、グランに例の仕事は上手く行っているかと訊いてみた。

「そうですね、順調だと思います。」

「まだ長くかかるのかね?」

グランは興奮したらしく、アルコールのせいで声に熱がこもっていた。

「分かりません。でも、問題はそこじゃないんです、先生、そう、問題はそこじゃない。」

暗闇の中で、リゥはグランが両腕を動かしているのを察していた。グランは、不意に心に浮かんだことをこれから饒舌に物語ろうとしているらしかった。

「いいですか、先生、私の望みは、あの原稿が編集者の所に届いた日に、それを読み終えた彼が立ち上がり、同僚に向かって『諸君、脱帽し給え!』と言ってくれることなんです。」

グランのこの突然の宣言にリゥは驚いた。リゥには、グランが片手を頭に持っていき、脱帽し、それからその腕を水平に伸ばしているように思えた。そのとき、あの奇妙な音が前よりも強く、再び聞こえて来るような気がした。

「そうです」とグランは言っていた。「そのためには、完璧でなければだめなんです。」

文学界の慣習には疎(うと)かったが、それでも、リゥは事がそう簡単に運ぶ筈もないし、それに、例えば編集者が編集室で帽子を被っている筈もないという気がしていた。しかし、実際はどうなのかはさっぱり分からない。そこでリゥは黙っていることにした。先ほどの決意とは裏腹に、彼はペストの不思議なざわめきに耳を傾けていた。グランのアパルトマンの有る地区が近づいてきた。そこは少し高台になっていたので、そよ風が心地よく、同時に風は町のざわめきを全て運び去っていった。それでもグランは相変わらず話し続けていたが、リゥにはこの男の言っていることが全て分かったわけではない。ただ、問題の作品が既に随分ページを重ねていること、しかし、グランがそれを完成させるために払っている苦労がひどく辛いものであることだけは理解した。「言葉一つ決めるにも幾晩も、いや、丸々何週間もかかるんです…ときには接続詞一つ決めるにも。」こう言って、グランは立ち止まり、リゥのコートのボタンを一つ掴んだ。グランの歯の抜けた口から言葉が切れ切れに出てきた。

「いいですか、先生。とにかく、「しかし」にするか「そして」にするか選ぶのはかなり簡単です。「そして」にするか「それから」にするか選ぶのはもうずっと難しくなる。「それから」と「次に」となると、ますます難しくなるんです。でも勿論、一番難しいのは「そして」を書くべきか省くべきかということなんです。」

「なるほど」とリゥは言った。「分かるよ。」

そしてリゥはまた歩き出した。グランはうろたえた様子で、再び普段の調子に戻った。

「申し訳ありません」と彼は口ごもった。「今夜はどうかしてるんです!」

リゥは優しくグランの肩を叩き、自分は彼の助けになりたい、彼の話には大いに興味を惹かれると言った。グランは少しほっとしたのか、自宅の前に来ると、躊躇(ためら)った後、少し寄って行きませんかとリゥに言った。リゥはその申し出を受け入れた。


la peste II ⑱

ダイニングに入ると、グランはリゥを促(うなが)してテーブルの前に座らせた。テーブルの上にはごく細かい文字に削除の線を紙一面に引いてある紙片が溢れていた。

「ええ、これです」目で問うているリゥ医師にグランは答えた。「でも、何かお飲みになりませんか?ワインが少しあります。」

リゥは断り、散らばった紙片を眺めていた。

「ご覧にならないでください」とグランは言った。「それは、出だしの文章です。苦労してます、大いに苦労してるんです。」

グランも紙片を眺めていたが、どうやらそのうちの一枚に片手が惹きつけられるのに逆らいきれず、それを拾い上げ、裸電球の前で透かし見た。その紙はグランの手の中で震えている。リゥは市職員の額が汗で濡れていることに気付いた。

「座り給え」とリゥは言った。「それを私に読んでくれないか。」

グランはリゥを眺め、感謝するように微笑んだ。

「ええ」と彼は言った。「読んでみたいと思います。」

グランは、相変わらずその紙片を眺めながら少し間を置き、それから腰を下ろした。リゥは同時に、あの疫病がたてるひゅうひゅうと言う物音に応えているかのような市内のざわめきに耳を傾けていた。リゥは正にその時、足元に広がるその都市を、都市が形作る閉じられた世界を、闇の中で都市が押し殺している恐ろしい叫び声を異常なまでに鋭く意識していたのだった。グランの声がわずかに大きくなった。「ある晴れた五月の朝のこと、優雅な夫人が一人、素晴らしい栗毛の牝馬(ひんば)に乗って、ブローニュの森の花咲く小道を駆け抜けていた。」再び沈黙が訪れ、同時に、苦しみにあえぐ都市のざわめきが聞こえてきた。グランは紙片を置いて、それを眺め続けている。少しして、再び目を上げて、

「どう思いますか?」

リゥは是非続きを知りたくなると答えた。しかしグランは、熱っぽい調子で、それじゃ駄目なんですと言って、手のひらで散らばった紙片を叩いた。

「完璧じゃないんです。僕が思い描く場面を完璧に表現できて、僕の文章が、1,2,3、1,2,3という馬の速足そのものをそっくり体現できれば、あとはずっと簡単になる。そして特に、最初から臨場感たっぷりであれば、『脱帽し給え!』と言えるんです。」

しかしそのためには、まだまだやらねばならぬことがある。自分は、この文章を決してこのままで印刷に回すわけにはいかない。というのも、ときにはこれで十分と思うこともあるが、まだ完全には現実を再現していない、それに、紋切型に近い安易な調子がわずかに残っている、わずかとはいっても紋切型は紋切型だ、それが自分には分かっている。少なくとも、グランはそんな意味のことを言っていた。そのとき、窓の下を人が走る物音が聞こえた。リゥは立ち上がった。

「僕がこれをどう仕上げるかお分かりになりますよ」とグランは言っていた。そして窓の方を振り向いて、こう付け加えた。「このペスト騒ぎが収まった暁には。」

しかし、再び人が走る物音が聞こえて来た。リゥは既に階下に向かい、通りに出ると二人の男が彼の前を通り過ぎた。彼らは明らかに市門の方に向かっていた。実際、暑さとペストの挟み撃ちで逆上し、暴力に訴えるにまかせ、警戒線の監視の裏をかき、市外に逃走しようとする者が既にいたのだった。


la peste II ⑲

(ミスター・ビーン訳)

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