*異邦人 翻訳*(第二部 第二章) | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

ミスター・ビーンのお気楽ブログ

好きな音楽の話題を中心に、気の向くままに書いていきます。

アルベール・カミュ
$ミスター・ビーンのお気楽ブログ-一部 第1章①


1時間33分48秒から2時間03分58秒まで



「異邦人」(1942)

第2部

第2章


僕がどうしても話す気になれなかったことが幾つかある。拘置所に入り数日たつと、人生のこの部分について自分は話す気にはなれないだろうと分かった。

後に、こうした嫌悪感はもうどうでもよくなっていた。実際には最初の数日間、僕は本当の意味で入牢していたわけではない。つまり、漠然と何か新しい出来事が起こることを期待していた。全てが始まったのはマリーの最初にして唯一の訪問の後からだ。マリーの手紙を受け取った日(手紙には自分は妻ではないのでもう来ることを許してもらえないと書いてあった)、その日から僕は自分の独房が我が家であり、自分の生活はここに拘束されるのだと感じた。逮捕された日、僕は先ず大部屋に入れられ、そこには既に何人か囚人がいた。大部分がアラブ人だ。彼らは僕を見ると笑い、何をしでかしたのかと訊いてきた。アラブ人を一人殺したと言ってやると、奴らは黙ったままだ。少し経つと日が暮れた。アラブ人たちは寝具代わりの筵(むしろ)の使い方を僕に説明してくれた。端を丸めて、それを長枕にするのだ。一晩中顔の上を南京虫が走り回っていた。数日後、僕は独房に隔離され、板ベッドで寝る。用を足す木の盥(たらい)と鉄の洗面器があった。刑務所は町の一番高台にある。小さな窓からは海が見える。ある日鉄格子にしがみつき、顔を光の方に向けていると、看守が入って来て面会人がいると告げた。僕はマリーが来たと思った。そしてそれは正(まさ)しく彼女だった。


第二部 第2章①

面会室に行くのに長い廊下を通り、それから階段を昇って最後にもう一つ廊下を進む。そして広い窓から明かりが射し込んでいる大部屋に入った。そこは部屋を縦に仕切る二つの大きな鉄格子で三つに分けられている。二つの鉄格子の間には面会人と囚人を隔てる8~10メートルぐらいの空間がある。正面にマリーの姿が見えた。縞模様のワンピースを着て顔が日に焼けている。僕の側には囚人が10人ほど、殆どがアラブ人だ。マリーはムーア人の女性に囲まれ、二人の面会女性の間にいた。黒い服を着て口をへの字に結んだ小柄な婆さんと盛んに身振り手振りを使って大声で話している無帽の太っちょの女だ。二つの鉄格子の間が離れているので、面会人と囚人は大声で話さなければならなかった。部屋に入ると、大きなむき出しの壁に反響する話し声と空から窓ガラスに注がれ、部屋の中で乱反射している直射日光のせいで僕は眩暈(めまい)がした。僕がいる独房はもっと静かで暗いからだ。周りに慣れるのに数秒かかった。それでもそのうちに、溢れる光の中でくっきりと浮かび上がるそれぞれの顔がはっきりと見えてくる。僕は二つの鉄格子の間にある廊下の端に看守が一人座っているのに気付いた。大部分のアラブ人の囚人たちとその家族はしゃがんで互いに向き合っている。その連中は大声で話してはいない。周りは随分やかましかったが、ひどく小声で話しながらも何とか意志を伝えあっている。下から聞こえる籠(こも)ったような彼らの囁き声が、その頭上を飛び交うやり取りの言わば通奏低音になっている。マリーのいる方に進みながら、僕がすぐに気付いたのはそんなことだった。既に鉄格子に身体を押し付けて、マリーは僕に向かって精一杯微笑(ほほえ)んでいる。僕はマリーが凄く美しいと思ったがそれを口にすることはできなかった。

「どうなの?」とマリーが大声で言う。「まあ、見ての通りさ。」「元気なの?欲しいものはそろってる?」「うん、大丈夫だ。」

そこで言葉が途切れた。マリーは相変わらず微笑んでいる。太っちょの女が僕の隣の男に向かって叫んでいた。多分、男は彼女の夫なのだろう、背が高い金髪で正直そうな目をしている。既に始まっていた会話の続きを話しているのだ。

「ジャンヌは彼を引き取ろうとしなかったよ。」と女は声を限りに叫んでいた。「そうか、そうか。」と男が答える。「刑務所を出たらあんたがまた引き取ると言ったんだけど、引き取ろうとしなかったんだよ。」


マリーの方は、レモンが僕に宜しくと言っていると叫んだ。僕は「ありがとう。」と答える。しかし僕の声は、「彼は元気か?」と訊いている右隣の男の声でかき消されてしまった。男の妻は笑って、「すこぶる元気にやっているわ」と答えている。僕の左にいる男は華奢な手をした小柄な若者で、無言のままだ。若者は小柄な老婆と向かい合っていて、二人とも互いを熱心に見つめているのに僕は気づいた。でも、長々と二人を観察している時間は無い。マリーが希望を持たなきゃと叫んだからだ。「うん。」と僕は答える。同時に、マリーを眺めながら僕はワンピースから覗く彼女の肩を抱きしめたいと思っていた。その華奢な肩が欲しかったし、他に何を望めばよいかよく分からない。しかし、多分それがマリーの言いたかったことなのだ。マリーは相変わらず微笑んでいるのだから。僕に見えるのはもう彼女の歯の輝きと目の小皺だけだ。「刑務所を出たら、私たち結婚するのよ!」と再びマリーは叫んだ。「本当かい?」と僕は答えたが、話の接ぎ穂として言っただけだ。するとマリーは早口に、そして相変わらず大声で、「そうよ!無罪になるわ!また一緒に泳ぐのよ!」と言った。しかし隣の女も吠えるように叫び、文書課にバスケットを一つ預けておいたと言う。バスケットの中身をいちいち全て数え上げ、全部高いものだからちゃんと確認してよと言っている。僕の左にいる男とその母親は相変わらず互いに見つめ合っている。下の方ではアラブ人たちの囁き声が続いている。外の光は一層その勢いを増し、壁の大きな窓に当たっているように思えた。

僕は少し気持ちが悪くなり、部屋を出て行きたい気分だった。喧(やかま)しさが苦痛になってきたのだ。でも、まだマリーと一緒に居たいという気持ちもある。どれぐらい時間が過ぎたか分からない。マリーは自分の仕事の話をし、絶えず微笑んでいる。囁き声、叫び声、会話の声が入り乱れていた。離れ小島のように唯一沈黙していた場所。それは互いに見つめている小柄な隣の若者とあの老婆の所だ。少しずつアラブ人たちが部屋の外へ連れて行かれる。最初のアラブ人が出て行くやほぼ全員が口をつぐんだ。例の小柄な老婆が鉄格子に近づき、それと同時に看守が彼女の息子に合図をした。若者は「さよなら、母さん。」と言い、老婆は二本の鉄格子の間から手を差し伸べ息子に向かってゆっくり長々と小さな別れの合図を送るのだった。

老婆と入れ替わりに面会の男が一人入って来て、片手に帽子を持ち席に着く。囚人の男が一人部屋に入れられ、二人は活発に話し出す。しかし声は抑え気味だ。再び部屋が静まり返っていたからだ。僕の右隣の男にも迎えが来たが、妻の方はもう叫ぶ必要が無いことにまるで気が付かない素振りで「体に注意して、気を付けるのよ!」と相変わらずの大声で男に言った。それから僕の番が来た。マリーは僕にキスする仕草をする。部屋を出る前に振り返ってみると、マリーはじっと動かず、顔を鉄格子に押し付け、相変わらず強張(こわば)って引きつったような微笑みを浮かべていた。


第二部 第2章②(ii)

マリーから手紙をもらった直後のことだ。そのときからどうしても語る気になれない色々なことが始まった。いずれにしろ何事も大げさに語ってはいけないし、その点については僕は他の人間より容易(たやす)くできた。とは言っても、拘留された最初の頃一番辛かったのは、自分が自由だった頃の考えが抜けきれなかったことだ。例えば、浜辺に出て海に入りたい気持ちに捉えられる。足の裏を浸す最初の波の音を想像し、身体を水に浸し、水の中での解放感を想像する。すると突然狭苦しい牢獄の壁が迫って来るのを感じるのだ。でも、それが続いたのは数か月だった。その後は囚人らしい思いしか浮かんでこなくなる。中庭での毎日の散歩や弁護士の訪問を心待ちにし、残りの時間とも見事に折り合いをつける。その頃僕はよくこう思った。もし枯れ木の幹の中で暮らす羽目になり、頭上の美しい空を眺める他にすることがなくなっても、少しずつそれに慣れて行くだろうと。この監獄で僕の弁護士の奇妙なネクタイを心待ちにしたり、また娑婆に居た頃、土曜まで辛抱強くマリーの体を抱きしめるのを待っていたように、幹の中で鳥たちの訪問や雲との出会いを心待ちにしているだろう。ところで、よく考えれば、僕は枯れ木の中にいるわけじゃない。僕より不幸な人間もいるのだ。それにこれは母さんの考え方でもある。母さんはよく言っていた。結局人はどんなことにも慣れてしまうと。

それに、僕は普段の自分からそれ程かけ離れることは無かった。初めの数か月は辛かった。でも、正にやらなければならぬ努力のおかげでその数か月をやり過ごすことが出来たのだ。例えば、僕は女が欲しくてたまらなかった。当然の話だ。若いのだから。決してマリーのことだけを思っていたわけではない。そうではなくて、女というもの、過去に知り合ったあらゆる女たち、その女たちを愛したありとあらゆる場面で頭が一杯になり、独房は全ての女たちの顔で満ち溢れ、様々な欲望で溢れかえっていた。ある意味、心が不安定になったが、別の意味ではそれが時間潰しになった。最後には、食事の時間に料理係に付き添う看守長が僕に好意をもってくれた。最初に女の話をしたのはその看守長だ。他の囚人たちは真っ先に女のことで不平を言うと彼は言った。自分も同じだ、こういう扱いは不公平だと思うと僕は答えた。「しかしねえ」と彼は言った。「正に不公平な扱いをするために君を牢屋に入れるのだよ。」「なぜそうなるのです?」「だってそうだろう、自由が問題なのさ。君から自由を奪うのだよ。」僕はそれまで一度もそんなことを考えたことはなかった。僕は看守長の考えに賛意を示し、「その通りですね」と言った。「でなきゃ、罰することにはなりません。」「そうさ、物わかりがいいよ、君は。他の連中はそうはいかない。でも、奴らも結局は自分で慰めることになるのだがね。」そう言って、看守長は出て行った。

タバコの問題もある。入牢すると、ベルト、靴紐、ネクタイ、それにポケットの中身全部を取り上げられた。特にタバコだ。独房に移されると、僕はタバコを返してくれと要求した。しかし、それは禁じられているという返事だ。初めの何日かはひどく辛かった。多分、一番応えたのはそのことだ。僕はベッドの板から引っ剥がした木切れをしゃぶっていた。一日中絶え間のない吐き気に襲われる。だれの害にもならぬものをなぜ奪われるのかわけが分からない。後になって、それもまた罰の一環だということが分かった。でも、その頃はもう喫煙しないことに慣れてしまっていて、僕にとってそれはもう罰ではなくなっていた。


第二部 第2章③

その二つの悩みを除けば、僕は取り立てて不幸ということはなかった。繰り返すが、問題はいかに時間を潰すかということに絞られる。結局、僕は過去の記憶を辿(たど)る術を身につけてからもう退屈することは無くなった。ときどき自分の寝室を思い出してみる。そして想像の中で寝室の片隅から出発し、途中にある全てのものを頭の中で数え上げながら出発点に戻って来る。最初は、あっという間に終わってしまった。しかし回を重ねるごとに、少しずつ時間が延びる。というのも、僕は家具の一つ一つを思い出し、それぞれの家具に入っている一つ一つの物を思い出し、それぞれの物についての全ての細部、さらに、水垢、ひび、欠けた縁といった細部については、その色やざらざらとした感触を思い出していたのだ。同時に僕は、記憶の目録の順番を忘れないこと、完璧にかぞえあげることに努めていた。その結果、数週間後には、寝室にあるものを数え上げるだけで何時間も過ごせるようになった。こうして、考えれば考えるほど自分の記憶の中からそれまで無視していたもの、忘れていたものを引き出すことになったのだ。そこで僕は、たった一日しか娑婆で生活しなかった人間でも監獄の中では苦も無く百年は生きられるということが分かった。そんな人でも退屈しないだけの思い出が手に入るのだ。それはある意味、監獄にいることの利点だった。

睡眠の問題もある。最初僕は、夜は寝つきが悪く昼間は全く眠れなかった。そのうち少しずつ夜の寝つきが良くなり、昼間も眠れるようになった。最後の数か月は、一日に16~18時間眠っていたと言える。そこで残りは6時間ということになるが、僕は食事、用便、過去の思い出、それにチェコの話で時間を潰した。

と言うのも、ベッドの板と藁の敷布団の間に古新聞の切れ端が見つかったのだ。それは敷布団の布に貼りついていて、黄色く透けていた。切れ端にはある三面記事が事細かに書かれていた。出だしの部分は欠けているが、それはチェコの出来事に違いなかった。ある男が一財産築こうとチェコのある村を出る。25年後、金持ちになった男は妻と子供を連れて戻って来る。男の母親は彼の姉と共に生まれ故郷の村でホテルをやっていた。二人を驚かせてやろうと、男は妻と子供を別の建物に残し母親の所に行った。母親の方は、男が入って来たときそれが息子だとは分からない。男は悪戯心から、部屋を一つ借りてやろうと思いたち金を見せた。夜になると、母親と姉はハンマーで男を殴り殺して金を奪い、死体を川に放り込んだ。翌朝、そんなこととは露知らず、男の妻がやって来て旅人の素性を明かした。母親は首を吊り、姉は井戸に身を投げてしまった。僕はその話を何千回も読む羽目になった。有り得ない話のようにも思えるが、自然な話のようでもある。いずれにしろ、僕が思ったのは旅人の死は多少自業自得であり、決して悪ふざけをしてはならぬということだった。


第2部 第2章④

こうして、眠りと回想、例の三面記事の読書、光と闇の交代の中で時は過ぎて行った。刑務所では時間の観念が失われてしまうのを確か何かの本で読んだことはあった。でも、それは僕にはあまり役に立たなかった。日々がどれほど長くもなり、同時に短くもなり得るかということが分かっていなかったからだ。多分生きるには長いのだが、長すぎるせいで結局それぞれの日々が互いに重なってしまうのだ。刑務所では日々の名前が失われてしまう。僕には昨日あるいは明日という言葉だけが意味を持つことになった。

ある日看守が、僕が入牢して5か月経つと言ったとき、僕は彼の言葉は信じたがその意味が分からなかった。僕にとっては独房の中で絶えず同じ一日が展開し、僕は同じ作業を続けている。その日、看守が行ってしまうと鉄の飯盒に映る自分の顔を眺めた。微笑んでみたが、飯盒に映る顔は相変わらず真面目くさっているように思える。僕は目の前で飯盒を揺すった。また微笑んでみるが、映っている顔は厳しく悲しげな表情のままだ。日が暮れてきた。口にはしたくない時間帯。それは名状しがたい時間で、沈黙の中、牢獄のあらゆる階から夕方のざわめきが立ち昇って来る。僕は小窓に近づき、最後の明かりの中でもう一度飯盒に映る自分の顔をじっと眺めた。相変わらず真面目くさった顔。だが、別に驚くにはあたらない。というのもその時は、僕自身も真面目な顔をしていたのだから。が、同時に、そして数か月ぶりに僕には自分の声がはっきりと聞こえた。その声が長い日々の間僕の耳に響いていた声だと分かる。そして僕は、その日々の間自分はずっと独り言を言っていたことを理解した。すると、母さんの埋葬のときに看護婦が言っていた言葉を思い出した。そう、どうしようもないのだ。刑務所の日暮れ時がどんなものか、それはだれにも想像が出来ない。


第2部 第2章⑤

(ミスター・ビーン訳)

ペタしてね