きりぎりす通信
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またひとつの道が

急に翻訳の仕事をすることになった。

といっても翻訳家の下訳なんだけれど。

経験やコネが重要なこの世界でいきなりお金がもらえる仕事にありつくのはそう簡単ではない・・・

といわれているし、そう思っていたし、実際そうなんだろう。

なのにネットの上で見つけた募集にトライアル一本出したら採用の返事がきて、

それでも募集の段階で「定期的に仕事があるかは保証できません」

ということだったんでそう期待もせずにいたら、まもなくほんとうに下訳の依頼がきたのだ。

かなりうれしいことだけどあまり苦労もせずにことが運んでしまったので

なんだか不思議な感じがしている。

たくまずして成るというのはあるものだ。

今思って今ではないけれど。

心に思ったことでそれが本当に自分にとって必要なものならば

道は開けるものなのだとまた感じさせられた。

こころから感謝したい。



河のように

今日自分はとどまりがちだと思った。

とどまるまでいかなくてもよどみがちとはいえる。

よどみの水は濁る。

自分がよどんでいるあいだにも時間は流れ人も流れて往く。

……落花流水

考えは運命の流れに及ばないという気がしている。

流れに身をまかせる勇気を持ちたい。

遠くから

語るべき言葉がない

これまでここで語ってきた多くの言葉はいったい誰へのいいわけのつもりだ

心のままに吐き出したつもりの言葉たちも今見れば蝉の抜け殻のように虚しくて滑稽だ。

ここに書くことでいくらか消化できる何かや、得られる小さな励ましのために書くのならそれはどうなのだ

そんなものにさえ頼らずにもっと自分は追い込まれるべきではないのか。

文字になった途端にどこか芝居じみているように思えてここのところブログから遠のいていた。


ただあるままに人に何かを手渡したい

胸にあるものをそのまま波長で伝えたい


学生の頃、新馬にのっていて振り落とされた拍子に右あごを蹴られ救急車にのったことがある

頭への衝撃のショックからか意識ははっきりしているのに体が動かなかった。

救急車を呼びにクラブハウスに走る監督の後ろ姿、倒れている自分に駆け寄るみんな、放場した馬をつかまえに走る先輩、目を固く閉じて倒れていたのにまるでそれらを空の上から見ているように感じていた。

いわゆる幽体離脱のような感覚だ。

そのとき後輩の一人が自分の手を強く握ってくれて私は急に自分の身体に感覚が戻るのを感じた。

これまで感じたことのない安心感が身体にひろがると同時に、自分の身体が今まで固く硬直して呼吸をつめていたことを知った。


つらいとき私はあの時のように誰かに強く手を握って欲しいと思う。

それは頭で理解するものではなくて身体で感じる何かだ。

泣くなとか、悲しむなとか、元気出せとか

本当につらい人にむかっては言葉さえかけられないときがある。


いま泣きたい思いでいる人に何をいっていいのか本当にわからない。

悲しみは否応がないものだけれどそれを少しでも和らげるために

何かいい方法はないかと思うこの気持ちだけでも伝えられたらと思う。

想いが大きければ大きいほど悲しみも深いのはどうしようもないけれど

できるだけ早くつらい時期を過ぎることができますようにと祈っています。



走!

書くべきことがないような気持ちで、ずいぶん長いこと書いていなかった。


やっと心が決まった。

というよりも本当はもう最初から決まっていた心にGOサインを出す勇気がなかったのだ。

しばらく放っておいたら散漫だった気分のようなものが集まってきてずっしりと腹に溜まった感じだ。

楽になった。もうあとは歩き出せる。

体の深いところで興るものがあるように感じるのは、私にとっておもしろいことの始まりの徴に思われる。


ススメ ススメ キリギリススメ

どうしよう

どうしようどうしよう


自分にとってどうなのか、相手にとってどうなのか

ずうずうしいのか、へりくだりすぎなのか

歓迎されるのか、されないのか

そうするべきなのか、そうでないのか

考えてもわからない。


しょうがないからしばらく眺めていようか

まだまだ思考錯誤するだよ

朝淹れたコーヒーがすごくおいしかった。

何も考えずに淹れたのに。

こういうのを明日またねらってもダメなんだなあ、

あの味をもう一度とか思ったらもうだめなんだなあ、

偶然のようにして生まれ出るハーモニーを再現しようとして作為が入るともう何かが違ってくる。

よくボーカルのレッスンで「今の声だよ!」なんて言われて「えっどの声?」と思ったらもう当分はそんな声出なかったもんだ。

でも求めないと見つからない。

 

奇跡的偶然をたびたび生み出せる人が芸術家?

シロウトには奇跡に思えることがいつでもできるのが職人さん?

 

ともかくまだおいらはそのどちらでもない、悔しい事に…

歌舞伎座の休日

一日歌舞伎座ですごす。明日からは会話一本なので現場でガンガン覚えたいと思います。

勘三郎さんの襲名披露公演を昼夜の狂言とも観ようと昨日から心に決めていたので張りきって出かけた。

しかし張りきってるわりには11時開演なのに10時半過ぎに歌舞伎座に着く。

そして例によってチケットは用意していない。

当日券売り場には長蛇の列。

もう夜の公演は補助席まで売り切れとのこと。

ああしまった!玉三郎さんの鷺娘はぜひ見ておきたかったのに…

それでもとりあえず昼公演の2等補助席は買うことができた。

 

三津五郎さんの芋掘長者が秀逸だった。

勘三郎さんのようにスター性やはなやかな愛嬌ではないけれど、観客をどっと沸かせるような派手なおかしみではないけれど、人間の弱さや、それゆえの哀しさをしみじみと感じさせてくれる。

車引きの若者3人は華やかで海老蔵さんはさすがにスターの輝き。

貫太郎さんの芝居には非常に好感を持った。

正面から直球ストレート真っ正直な芝居は人柄を感じさせる。これからどんどんいい役者さんになっていく人だと思う。

勘三郎さんの髪結新三はちょっとテンポが悪かったというか役者同志がかみあっていないところがあって正直なところ今ひとつものたりなかったけれど、全体には大満足で終演となる。

 

さてそのあと私は歌舞伎座正面左手の幕見券売り場へと急いだ。

 

歌舞伎座には幕見というすばらしいシステムがあって、大向こうで立ち見の可能性大だけれど一幕いくらで格安で見られるのだ。

補助席まで売り切れの今、4時40分開演の夜公演を見るには4時から売り出す幕見のチケットしか可能性はないのだ。

しかし朝に昼公演のチケットを買った時点でもう夜の公演の幕見のために並んでいる人がいたからもう無理かも、と思いつつダメもとでいってみると席はないけどたぶん大丈夫とのこと。

三幕とも合計3,300円で手にいれることができた。

9時まで全幕立ち見はちょっとつらかったけど、そうしてでも観るだけの価値があった。

 

『鷺娘』見ることができてよかった。。

玉三郎さんは重力のコントロールや重心の移動がもう思いのままで、彼の歩きは他の女形さんとは技術の差というだけではなく質が違うように感じる。

写真集かなにかの対談で「動きの基本は円です」というようなことをいっておられた記憶があるが、彼の動きを見ているとまさにそうだなーと思う。

こういう言い方は変かもしれないがコンテンポラリーの舞台を見ているようだった。

肉体から発信される精神性というか思相のようなものを感じて、観客もものすごく集中させられてそれがまた快感だった。

その後の『研辰の討たれ』2幕とは一転してお客も開放されて引っ張られて楽しんだ。

ああ、勘三郎さんて人はすごいな、そしてものすごく幸せな人だ。

 

というわけで今日は少しも復習なしの一日。

会話はしゃべって覚えるのが早いからね。

 

おいらも歌いたくなった!

いつもより早く11:30に集合してネイティブチベタンの歌と演奏を聞く。

豊かな歌だった!

少しの喉の緊張もなくらくらくと、そしてなにより気もちよさそうに歌っているのでこちらまで楽しくなる。

ちょっと厳しい感じの目の奥に温かさとユーモアをたたえていて、体型や話し方も中国の父さんに雰囲気が似ていたのでますます親しみを覚えた。

中国の父さんも歌が上手で声がすばらしい。

男女を問わず一目で好きになれる人が時々あるけれど彼もそんなひとだった。

 

初対面でも一目見ただけで感じるものがあるように、歌や踊りやそのほかの表現にも絶対その人が出てしまう、それは技術だけではないものだ。

もちろん表現者はその術を磨かねばならないけれど、その先にあるのは超絶技巧ではなくありのままの自分で美しいことなのだと思う。

 

などという小理屈は今考えたものでそのときはただ楽しんだ。

ゲストハウスでの共同生活なので部屋で歌など歌いようもない。

このところ声を出していないのでそこのところは欲求不満だ。

歩いているとき、銭湯に入っているとき、歌いたくてたまらなくなる、そして小さい声で歌ってしまう。

これはカラオケじゃ満たされないのだ。

ああ、歌えない部屋には住んではいけない。

それはそうとして、サービス精神旺盛な彼は何曲も歌ってくれたのであっという間に2時間が過ぎ、ジンガロのDVD鑑賞は時間切れとなる。

まあDVDは買おうと思っているのでそれよりライヴが楽しめた事に感謝!

授業は少し遅れて開始するもコンコルドの如きスピードで進み文法は今日で終了、後は会話中心の授業になるらしい。

数人の経験者はやっぱり余裕があるが、私と同じくまったくの初心者で参加の数人は???が飛び交っている感じである。

どうせ今回だけでベラベラになれるとは思っちゃいないので平気さ。

独学のための足がかりになればいいのだ。

とりあえず種をまいたというところだな。

 

放課後(ひさびさにこの言葉を使った!新鮮だ!)行きに見つけた刀削面の店で夕食。

油ギッシュで麻~辣~な中国の味を期待していたが、わりにさっぱりな白湯スープだった。

面はちょっと柔らかめで全体にジャパナイズされた印象。

『人込みの中にそを聞きに行った』ようなおいらにとってはちょっと肩透かしだったっけれど、十分おいしかったといえましょう。

店員全員中国人だったので満足!(何でだ!)

 

明日は講義はお休み、そこで観劇に行く予定。

捨てたもんじゃない

今回の東京滞在でもうひとつの目的であったジンガロの観劇。

しかしこっちに来た時点でもうとっくのむかしにチケット完売していたのだ。

 今回の出し物は奇しくも『ルンタ』(風の馬)ということでチベット僧の声明も取り入れたりしてチベット色満載のはずなのだ。

 そして学生時代授業にも出ずに馬術に明け暮れていたおいらとしては、なんとしても観たいパフォーマンスだった。

馬術を高度なパフォーマンスとして見せる団体は、たしかオーストリアにスペイン乗馬学校というのがあって (なぜオーストリアでスペイン?スペイン式ということか?)クラシックな高等馬術はテレビやビデオでしか観たことがないけれどすばらしいものだった。まさに人馬一体!馬と人が一体となって舞っているようなのだ。

 今回のジンガロは去年突然その存在を知って、一体どんな馬術を見せてくれるのかまた表現芸術としてどんなものなのか、ものすごく興味があった。

 それなのに!

 怠け者おいらはやっぱりチケットを早めに注文したりはしなかったのだ。

この大馬鹿ものめっ!

 おまけにジンガロの公演は17時から、チベット語講座は17時半まで、そして講座が休みの日にはジンガロも休みということに、こっちにきてから気付いたのだ。

 このあほたれがっ!

 まあチケットがあっても講座を休まなきゃならなかったし、結局今回は縁がなかったのだろうと思っていたら、なんと!チベット語の先生の友達でジンガロに出ているチベットの人が明日講座にきてくれて歌と楽器の演奏を少し聞かせてくれるということなのだ。

おまけに先生の持っているジンガロのDVDを明日講座前にみんなで見ることにもなったのだ。

 ゲゲンラ、トゥジェチェ!

 いい気分になって大戸屋の定食で大量のカロリーを補給。

帰宅後銭湯に行き(ゲストハウスはシャワーしかない)長湯して、今これを書いている。

ああ、復習もしなくちゃな。

散策なのに思索するとはこれ如何に

今日はいつもとは会場を変えて、武蔵小山のお寺で講義。

なんと玄関を入ると水琴窟がこしらえてあって、その調べは神秘的でずっと耳を傾けていたいようなものだった。

さすがに戯曲学院のトイレのなんちゃって水琴窟とはちょっと違う。

でもちょっとの違いだ。

教室にお借りした部屋は美しいペルシャシルク絨毯が何枚も敷かれていて大きな壷もあってやっぱり坊主丸儲けか……と、こういう下卑た見方をすぐにしてしまう自分もちょっと反省。


帰りは武蔵小山の商店街を散策。

例によってここで買わなくてもいいような物をついつい買ってしまう

靴下とかノートとか・・・

ノートといえば私は新しいノートを買うのが好きだ。

そして新しいノートに書き始めるときが好きだ。

これまでの自分を捨てることなく破ることなくとりあえずおいといて、新しい自分を始める。

そんな感覚か?

あーいかにも自分らしいとあらためて思う。

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