久々に本読んだけど、これがなかなかおもしろかった。

イギリスはリバプールにあるカトリック教会の神父の話。

ちなみにフィクション(映画のノベライズ)なので、

も一つ緊迫感が伝わってこなかった。ま、致し方ない。


教区には様々な問題がある。

まずは主人公グレッグが司祭を務める教会には、

マシュー神父というもう一人の司祭がいるのだが、

彼はある女性と同棲している(カトリックの神父は独身主義)。


一番深刻に描かれているのは、教区のある女の子が

実の父親によって性的虐待を受けているという問題だ。


キリスト教では近親相姦は大きな罪なのだが、

この父親は、その行為をとがめられてもなんら臆することなく

グレッグ神父の目の前で娘の体を触ったりするイカレた野郎で、

グレッグに知られた後も娘に卑劣な行為を続けるのである。


なぜグレッグにその犯罪的行為を止められないのかというと、

司祭には告解を他人に漏らしてはならないという守秘義務があるからだ。

でもこの理屈は明らかにおかしい。

このケースでは犠牲者はまだ判断力が十分にない子供である。

であれば、無条件で保護すべきだろう。

なのにその少女に口外しないでと言われているという理由だけで、

この父親の卑劣な行為を見逃し続けた神父はいかがなものだろうか。

目の前の痴漢行為を見て見ぬふりしている大人と変わらんじゃないか。


そしてこの小説最大の問題は、

実はその主人公グレッグ自身が実は同性愛者であるという問題である。

しかも現在進行形で彼はボーイフレンド相手に性行為に及んでいる。

しかもしかも、相手の男性は結構思いやりのあるいい人間なのに、

二人の行為が発覚した後、彼のことを自分を誘惑した悪魔だと言う。


最後の最後に少々感動的なシーンがあるが、

僕は最後まで主人公のグレッグに感情移入はできなかった。

それは自分が同性愛者じゃないという理由からではないと思う。

他人の罪を責めるが、自分の罪を認めようとしないグレッグの態度に

不快感を感じてしまうからだ(若さというのはそういうものかもしれないが)。


これから彼は自分の弱みを知った上で人間として成長していくのだろう。

エンディングではその兆候がうかがえる。


それにしても聖職者自体本当に必要なのかっていう疑問が最後まで残った。

独身主義なんて必要なのか?性はけがらわしいものなのか?

そういう価値観自体がもはや無意味だと思う。

この小説の中で比較的まともなマシュー神父が言う。

「独身主義により教会の財産を配偶者に分配することなく教会が独占できる」。

「独身であれば、神父を世界中どこへでも遠慮なく赴任させることができる」。

僕にはこの理屈はよく理解できる。

きっと独身主義も性への歪んだ価値観の植え付けも、

誰かが得をするための一種の洗脳に近いものなんじゃないだろうか。


そう考えると現代において純粋に宗教の意義なるものを見出すのは難しい。

人はみな自分がこの世界で得をすることを第一に考えている。

政治家も、会社の経営者も、学校の先生も、宗教の指導者も例外ではない。

わざとらしい理想を掲げながら弱者から搾取する連中に利用されてはいけない。


それがこの本から得られる教訓だ。