注意とは意を注ぐ ということだろう。対象は自分または他人である。
他人に注意するということは、他人に意を注ぐということであり、わたしはそれを他人にある事柄を気づかせることだと解釈している。

しかし、他人に自覚させる方法はたくさんあり、人によって異なる。
キレる人30怒鳴るひと30ほっとく人30その他10くらいの割合だろうか。

私は切れたり、怒鳴る人の考えを理解することがあまりできない。
誰しもいかりというものは湧き上がってくるものであるが、それを多少は抑えながらもその勢いを活かしているのが彼らの行動の機序なのだろう。
その怒りを体をもって受け止めた人はどうなるだろうか、ほとんどの人はマイナスの感情を抱くだろう。恐怖、怒りへの怒り、悲しみ。よほどの賢者でないと怒りのエッセンスすなわち、相手の怒りが本当に伝えたい事(意)を汲み取り、自らの糧にすることは難しい。ほとんどは負の感情に心を操られ、恨みやキレにつながる。 考えてみれば、両者に徳はない。 

私が尊敬する者のほとんどが上記の現象の実現を嫌い、代わりの策をとる。それは相手に自然と気づかせることである。大体は笑いの中に伝えたいことを含ませる。私はこれを身につけようとしているのだが、なかなか難儀である。ここで、例を示せと言われても無理だ。そのような技量はない。明石家さんまを見ればこの意が皆に理解できると思っている。彼が作る笑いの中にも時折、注意のため、意がこめられている。 眠
残念、この策にも欠点がある。それは、気づかせることを完全に相手に任せるので、相手の視野の広さによって意の吸収度が変わってくるのだ。視野が広い人は問題ないのだが...



怒りの扱い方は難しい。しかし、自分は不完全であることを自覚すればいいのではないだろうか。
私の考えとして、自分は完全に近いと思っている人ほどキレる。逆として、不完全と信じる人はキレない、というかキレることができない。相手が完全に悪いということは完全にない。
(完全という言葉を冗談抜きでまじめに使って良い時は、完全に完全はない と述べる時だ by 私)自分に非はあるだろう。時間軸は一方向に進むのだから、ある事件の前の要素はその前の要素によって起こり、その要素はさらに前の要素にからまっている。つまり、相手が悪いことをした前の要素には少なくとも、何らかの自分の言動がからまっておる。
総じて、キレる人の大方は自分が完全に正しいと思い、相手と自分の時間的な絡みを度外視し、相手の行動を独立な非として俎上にあげ、怒りの勢いをそのまま相手にぶつけている。ちゃんちゃらおかしい。

私は多少の自己中心さもあるが、森羅万象の不完全を自覚し、ユーモアの注意を使いこなすことができる者になりたい。