いくら自分が「絶対音感+固定ドの人々に振り回された(という要素もあって)結果、五線譜が全然読めないまま50歳まできてしまった」からと言って、「相対音感+移動ドだけが常識の全て」と排他的な態度だけを振り回すのは、まるで「自分がされて嫌だったことを相手にし返す」みたいで良くないかも…

 

実際は

>絶対音感+固定ドの人々に振り回された

の他に、私自身が頑迷で小学生の頃に階名唱(いわゆる移動ド)を学び損ねた結果「楽譜は固定ドしかない」と思い込んで、それ以上自分の認識を改めようとはしなかった、というのも大きかった、と最近思うようになった。

 

それは、私にとってほとんど「桁数の多い割り算は面倒臭いしすぐ間違えるから嫌い」と同じようなものだったんだけれど、割り算の方は毎日のようにしつこくしつこく問題をやらされて、いつしか慣れてしまったので苦手意識は消えた。

私が「計算ドリルと同じように階名唱ドリルもやればいいのに」と言うのは、それが元。

 

私は割ときつめのADHDで、ある意味「天然のわがまま」なので、環境の中で「苦手なこと」をちょっとでも「やらなくてもいい」ということになると、途端に「じゃあもう知ーらないっと」になってしまう。

環境として「階名唱は常識」というのがもっと周りにあって欲しかった、と痛感する所以。

 

そう、多分、階名唱へのとっつきのところで、私はそれを「苦手」と感じてしまったのだろう。本当は、ほんのちょっと我慢して根気強く取り組めば、これほど私にとってぴったりなものはなかったのに、勝手に決めつけて逃げ回るようになってしまった。

 

強いて「教育のせい」にするとしたら、初めて触れる階名唱の授業がもっと上手な導入で自然に身に付くものだったら良かったのに、とは思う。

私は一旦「好き」になれば、上で言ったように「根気強く」なんてことは全く気にせずに、ハマってのめり込んでしまうのだ。

 

※本当は「階名唱」といえば移動ドのことしか意味していない。「固定ド」と呼ばれるものは本来は「音名唱」であって、階名唱とは根本的に意味が異なる。

 

「楽譜は苦手、読めない」と(かつての私のように)言い張る「大人」が1人でも認識を改めて、一度身につければ楽譜に対する苦手意識が一気に吹っ飛んでしまう階名唱を学んでくれたらいいのに、と心から願っているけれど、一昨年〜昨年までほど、今は情熱を感じなくなってきている。

人によっては「そもそも音楽はドレミなんかで聞こえてはいない」と言うし、「馬を井戸端に連れてきても馬に水を飲ませることはできない」という諺を痛感してしまうようになってきた… 心からの願いは、だんだん淡い「祈り」に変わりつつある。

 

できるものなら、そういう人々に対しても上手な導入によっていつの間にか興味をそそられて、ふと気づくと取り組み始めていた、みたいな影響力を持てるようになりたい、とも思ったけれど、それには私などは到底覚束ないほどの高度な専門性に裏打ちされた取り組みが不可欠なのだろう、と思う。

 

誰か、助けて!