生物にとっての死の意味
死は人間にとって、そして全ての生物にとって避けがたいものであるように見える。それは誰も疑わない。
アメーバのような単細胞動物は分裂によって増殖するので、今生きている個体は永遠に近い年月を生き延びてきたように見える。しかし分裂した片割れの個体の大部分は環境に適応できずに死に絶えたと考えられる。人間だって母親から細胞を受け継いでいるので、細胞レベルだけで考えるなら不死であるともいえる。
「増殖」という機能が生物に備わっているとすれば、同時に「死」は大部分の生物にとって不可避だということになる。そうでなければ地球上、或いは全宇宙、その生物で一杯になってしまうだろう。
正確に言うと、アメーバのように非常に小さな確率で永遠に近く生きられる者もいるかもしれない。また十分増殖した後、増殖を中断すれば死を免れるかもしれない。
前者であっても99.999%以上の確率で死は免れない。後者の場合、実際に果樹などはあまり栄養が良いなどの好環境だと実をつけないことがある。即ち増殖を止める。しかし幹は太り続け、結果として幹の芯が空洞化し、大風で倒れてしまうことがある。すなわち栄養が良くても樹木にも寿命がある。幹の成長も止めてしまえば良さそうだが、そうすると虫に食われたり、折れたりした小枝を修復できない。厳しい環境からの攻撃による欠損を、細胞分裂で埋めようとする限り、増殖は必要であり、そうである限り、死もまた避けがたい。
「増殖」というのは生物が選んだ安易な環境適応の手法である、ともいえる。「下手な鉄砲も数撃てば当たる」という諺があるが、まさに増殖して数を増やしておけば、子孫のいずれかは厳しい環境に適合して生き延びられるものが出てくるかもしれない、という考えである。
生物は例外なくこの手法(数撃てば方式)を採用してきた。人間は生物であるから死は本能レベルか遺伝子レベルにプログラム化されており、従って死を免れることは不可能である、と通常考えられている。
知能の獲得
しかし問題解決の方法として「数撃てば方式」は必ずしもベストな方法ではない。
工学の常識では、正確に銃の弾道を計算すれば、少ない弾で当てることは可能である。
また、「死」には「忘却」というものがともなわれている。年寄りの死によって、昔は意味があった考え方、そして現在は障害にしかなって居ない考え方がご破算にされる。それは人類という種の維持にとって良いことである。しかし同時に良い考え方もご破算にされ、その結果として人類は戦争などの愚かな歴史を繰り返してしまう。
人間がそして生物が、種の保存のために死を選んだというのは、正しい選択だったのだろうか?
人間は他の生物と違って、「知能」という道具を身に着けることができた。これは「数撃てば方式」に変更を齎さないだろうか?
知能による不死の方向
知能によって人間は、命中精度の良い銃なども開発し、人間が素手では到底敵わない猛獣なども倒すことができるようになった。その結果絶滅が危惧される動物も出てきた。それは人間の傲慢のせいであると非難されることであるが、環境に適応する手法として「数撃てば方式」だけに頼ってきた動物が、「知能」という第二の適応手法を手にした人類に負けたのだ、とも言える。
人間はこれから人工臓器の技術なども手にし、またテルメアという死の遺伝子レベルのプログラムに手を加え、死を免れるかもしれない。実際21世紀の日本では平均寿命がどんどん延びて、100歳以上の年寄りが溢れるようになりつつある。
これは困ったことのように言う人もいるが、元来「知能」というのは長く生きれば生きるほど高度になるはずのものである。もし人が死から免れれば、人の知恵は更に向上し好循環が生まれるであろう(それには歳をとっても硬直化した考えを持たないことが必要であり、それは年寄りが意識を変えれば可能である)。
いずれにしても人間は不死の方向に歩み始めたことは確かである。
知識の樹と生命の樹
ところで人間が知識を得た、ということは大変なことであった。旧約聖書にあるように、人間は昔楽園エデンの園で、何不自由無く暢気に暮らしていた、という。しかし蛇にそそのかされて知識の樹の知恵の実を食べてしまう。それによって自分達のみじめな姿を認識できる状態になる。そんな人類に神は怒り、エデンの園から人間を追い出してしまう。神の怒りの更なる理由は、「人間が更に、生命の樹)の実を(知識の樹の実だけでなく)食べたら大変だ」、ということのようだ。生命の樹の実を食べると人は永遠に生きてしまう、というのだ。
不死の時代
少なくても論理的には人類は「不死」を思念してもよいステージに入りつつある。しかしそれに気づいている人は未だ殆ど居ない(120歳までは生きられるのだ、という人はいるが)。
「不死」が可能になったら、人々の考え方はどう変わらなくてはいけないか、あるいは変わらざるを得ないか?
例えば「自分は死ぬが若い人に後を託す」、という考えは古いものである。不死であるのだから若い人に託さずとも自分でやればよい。それが嫌なら、若い人にも嫌なことを託さない方がよい。 まず自分が楽しく人生を送り続けてみせなければ、若者に期待するなどと言ってはならない。
不死は拒否し、時が来たら安楽に死にたい、という人も多いだろう。このような考え方は根強いものだろうが、そのような考えも不死の時代にはあまえの考えであり、許されないのである。
不死の時代にはこの世を天国にできる
生きるのに飽きた人は死んだ後、天国あるいは極楽(もしあったとして)ではどうするのだろうか? 毎日蓮の花を眺めているだけで退屈しないのだろうか(蓮の葉の合間から、蓮池の底の地獄が見えたら、そちらの方が面白そうで退屈しない、と思うのだろうか)? しかし人は、この世が地獄だからこそ死にたいのではないか。
この世が天国と同じであったら、別に死ぬこともない。
そして不死の時代にはこの世を天国と同じにすることは不可能ではない。
衣食住は贅沢ではないにしろ誰でもが満足できるほど、世の中を豊かにすることは可能だろう。あくせく働かなくても良い社会的仕組みは作れる。
大抵の病気は直せるだろう。
思索に耽ったり、草花を観賞しながら1日1日をのんびりと過ごせるだろう。
残された問題は孤独を免れる方法である。
孤独回避の方法
天国では人々は孤独であってはいけない。しかしこれは自己矛盾するようなむずかしさを含んだ問題である。孤独でない、というのは1人以上の他人と繋がっている、ということである。しかしその人自身の存在が他人に精神的苦痛を与えているかもしれない。他人は無神経なその人に会うのを嫌がっているかもしれない。つまり他人が絡んだ途端に、天国を客観的に語ることがむずかしくなる。「他人はあなたをどう思っているのか」とか「他人に嫌われないようにするにはどうすればいいのか」とか、「あこがれのあの人に付き合ってもらうにはどうすればいいのか」など世俗的な問題がゾロゾロ出てきて、天国も結構人間関係が大変なんだなあ、ということになってしまう。
魅力的である、とか、偉い人である、とかの個人的な価値観を認める社会は決して天国的にはなりえない。
「孤独」を容認するか、他人を巻き込まない形での「孤独回避」の方法を採用するか、が天国に居られる条件であろう。すなわち前者についていうと、天国では全ての欲求や願望が満たされるわけではない。捨てなければいけないものもある。何を残し、何を捨てるか、それこそが知能から来る知恵であろう。希少なものを人と争って入手する喜びは捨てなくてはならない。豪華なものを人に見せびらかす喜びは捨てなくてはならない。
孤独を知恵によって良い方向で解決する方法。読書によって過去の人と交わること、これは他人に迷惑をかけることは無い。茶の湯のような哲人的な集まりもよい。しかし作法の上手下手、茶道具の良し悪しを自慢するようになった途端、意味を失う。誰かがリーダー的役割を負うようになった集まりもすでに危険を含んでいる。
蓮の花を眺めていたら、他人が隣に来て「きれいですね」と言う。共に美しさを愛でて、そして別れる。そういう付き合いが理想的かもしれない。その人より自分のほうが蓮について詳しい、などというのは天国的思考ではなく、言わば地獄的思考である。
人の目を気にしすぎてはいけない。しかし人に不快感を与えるようではいけない。その程度はむずかしい。人里離れて住むほど、煩わしさは無くなる。しかし孤独は深まる。
なるべく個人の動向に影響されない、真理の探求などに喜びを見出せること。たまに訪れる淡い交わりを大切にすること。
他人に不快感を与えないようにするのは、己の欲せざることを他人に為すな、ということが基本であり、知恵によってある程度可能であろう。
人をけなすことも、そして人を褒める事さへ、人には不快なことがあり得る。
己が信じる価値観を声高に言うことも同様である。
天国化を阻む勢力
余談であるがTVなどマスメディアが報道する内容は、まさに地獄的な価値観に基づくものばかりである。「世界的な大会で優勝した人や、世界的な賞を得た人を賞賛する報道」や「人に出来ないことをやる人間を賞賛する番組」などいずれも、評価されなくても孤独を愛でる人間を平静な気持ちにはさせておかないものである。
この世には人類が天国に入られては困る勢力が存在すると考えたほうがよい。常に満足せず、自分に自信が持てず不安な状態に大衆を置いておいたほうが、働いて結果として彼らの階級に奉仕させる方がよい、と考える者達がいるのではないか。そう思いたくなるほどこの世は天国から遠いところに置かれている。
肉体的死と霊魂の不滅
天国をこの世で実現する方法は、まるで人生の修業の戒律書のようである。、人が永遠の命を得て、この世に天国が実現するとしたら、そのときそこの住人が守るべき最低限の戒律があり、それを守る者は幸福であり、守らないものは地獄に居るかのように不幸である。
死が避けられない、としても以上書いてきたことは、この世を天国のように過ごす知恵でもある。あの世でも天国に居られるだろうから、永遠に幸せが続く。
またあの世に天国が無い、としたら、せめてこの世で天国を味わえたことは幸せだったと考えなくてはいけないだろう。
肉体的な死によって全てが終わる、あの世も無い、という考えは人間が環境適応する上で、最悪の思想である。集団で生活し、集団で戦う蜜蜂は個体の死を重視していない。恐らく、本能的に個体の肉体的死より上位に置くものがある、という価値観をもっているのであろう。いくら知恵を身につけて、個人の肉体的死をもってすべて終わりとするような考えでは、人類は環境に対し、蜜蜂に劣る適応能力しか持ち得ない。
知恵の実を口にしたものは生命の樹の実も口にしなければならない。それは霊魂の不滅という考えである。
エピローグ
エデンの園と天国
人間は最初エデンの園という天国のような所に居たのに、また同じような天国に入ることを目指すのか?
違いは知識の樹と生命の樹の実を食べたら追い出される園と食べた者こそが居られる天国の違いである。人間にとって後者を取るしか選択の余地は無いのである。
死は人間にとって、そして全ての生物にとって避けがたいものであるように見える。それは誰も疑わない。
アメーバのような単細胞動物は分裂によって増殖するので、今生きている個体は永遠に近い年月を生き延びてきたように見える。しかし分裂した片割れの個体の大部分は環境に適応できずに死に絶えたと考えられる。人間だって母親から細胞を受け継いでいるので、細胞レベルだけで考えるなら不死であるともいえる。
「増殖」という機能が生物に備わっているとすれば、同時に「死」は大部分の生物にとって不可避だということになる。そうでなければ地球上、或いは全宇宙、その生物で一杯になってしまうだろう。
正確に言うと、アメーバのように非常に小さな確率で永遠に近く生きられる者もいるかもしれない。また十分増殖した後、増殖を中断すれば死を免れるかもしれない。
前者であっても99.999%以上の確率で死は免れない。後者の場合、実際に果樹などはあまり栄養が良いなどの好環境だと実をつけないことがある。即ち増殖を止める。しかし幹は太り続け、結果として幹の芯が空洞化し、大風で倒れてしまうことがある。すなわち栄養が良くても樹木にも寿命がある。幹の成長も止めてしまえば良さそうだが、そうすると虫に食われたり、折れたりした小枝を修復できない。厳しい環境からの攻撃による欠損を、細胞分裂で埋めようとする限り、増殖は必要であり、そうである限り、死もまた避けがたい。
「増殖」というのは生物が選んだ安易な環境適応の手法である、ともいえる。「下手な鉄砲も数撃てば当たる」という諺があるが、まさに増殖して数を増やしておけば、子孫のいずれかは厳しい環境に適合して生き延びられるものが出てくるかもしれない、という考えである。
生物は例外なくこの手法(数撃てば方式)を採用してきた。人間は生物であるから死は本能レベルか遺伝子レベルにプログラム化されており、従って死を免れることは不可能である、と通常考えられている。
知能の獲得
しかし問題解決の方法として「数撃てば方式」は必ずしもベストな方法ではない。
工学の常識では、正確に銃の弾道を計算すれば、少ない弾で当てることは可能である。
また、「死」には「忘却」というものがともなわれている。年寄りの死によって、昔は意味があった考え方、そして現在は障害にしかなって居ない考え方がご破算にされる。それは人類という種の維持にとって良いことである。しかし同時に良い考え方もご破算にされ、その結果として人類は戦争などの愚かな歴史を繰り返してしまう。
人間がそして生物が、種の保存のために死を選んだというのは、正しい選択だったのだろうか?
人間は他の生物と違って、「知能」という道具を身に着けることができた。これは「数撃てば方式」に変更を齎さないだろうか?
知能による不死の方向
知能によって人間は、命中精度の良い銃なども開発し、人間が素手では到底敵わない猛獣なども倒すことができるようになった。その結果絶滅が危惧される動物も出てきた。それは人間の傲慢のせいであると非難されることであるが、環境に適応する手法として「数撃てば方式」だけに頼ってきた動物が、「知能」という第二の適応手法を手にした人類に負けたのだ、とも言える。
人間はこれから人工臓器の技術なども手にし、またテルメアという死の遺伝子レベルのプログラムに手を加え、死を免れるかもしれない。実際21世紀の日本では平均寿命がどんどん延びて、100歳以上の年寄りが溢れるようになりつつある。
これは困ったことのように言う人もいるが、元来「知能」というのは長く生きれば生きるほど高度になるはずのものである。もし人が死から免れれば、人の知恵は更に向上し好循環が生まれるであろう(それには歳をとっても硬直化した考えを持たないことが必要であり、それは年寄りが意識を変えれば可能である)。
いずれにしても人間は不死の方向に歩み始めたことは確かである。
知識の樹と生命の樹
ところで人間が知識を得た、ということは大変なことであった。旧約聖書にあるように、人間は昔楽園エデンの園で、何不自由無く暢気に暮らしていた、という。しかし蛇にそそのかされて知識の樹の知恵の実を食べてしまう。それによって自分達のみじめな姿を認識できる状態になる。そんな人類に神は怒り、エデンの園から人間を追い出してしまう。神の怒りの更なる理由は、「人間が更に、生命の樹)の実を(知識の樹の実だけでなく)食べたら大変だ」、ということのようだ。生命の樹の実を食べると人は永遠に生きてしまう、というのだ。
不死の時代
少なくても論理的には人類は「不死」を思念してもよいステージに入りつつある。しかしそれに気づいている人は未だ殆ど居ない(120歳までは生きられるのだ、という人はいるが)。
「不死」が可能になったら、人々の考え方はどう変わらなくてはいけないか、あるいは変わらざるを得ないか?
例えば「自分は死ぬが若い人に後を託す」、という考えは古いものである。不死であるのだから若い人に託さずとも自分でやればよい。それが嫌なら、若い人にも嫌なことを託さない方がよい。 まず自分が楽しく人生を送り続けてみせなければ、若者に期待するなどと言ってはならない。
不死は拒否し、時が来たら安楽に死にたい、という人も多いだろう。このような考え方は根強いものだろうが、そのような考えも不死の時代にはあまえの考えであり、許されないのである。
不死の時代にはこの世を天国にできる
生きるのに飽きた人は死んだ後、天国あるいは極楽(もしあったとして)ではどうするのだろうか? 毎日蓮の花を眺めているだけで退屈しないのだろうか(蓮の葉の合間から、蓮池の底の地獄が見えたら、そちらの方が面白そうで退屈しない、と思うのだろうか)? しかし人は、この世が地獄だからこそ死にたいのではないか。
この世が天国と同じであったら、別に死ぬこともない。
そして不死の時代にはこの世を天国と同じにすることは不可能ではない。
衣食住は贅沢ではないにしろ誰でもが満足できるほど、世の中を豊かにすることは可能だろう。あくせく働かなくても良い社会的仕組みは作れる。
大抵の病気は直せるだろう。
思索に耽ったり、草花を観賞しながら1日1日をのんびりと過ごせるだろう。
残された問題は孤独を免れる方法である。
孤独回避の方法
天国では人々は孤独であってはいけない。しかしこれは自己矛盾するようなむずかしさを含んだ問題である。孤独でない、というのは1人以上の他人と繋がっている、ということである。しかしその人自身の存在が他人に精神的苦痛を与えているかもしれない。他人は無神経なその人に会うのを嫌がっているかもしれない。つまり他人が絡んだ途端に、天国を客観的に語ることがむずかしくなる。「他人はあなたをどう思っているのか」とか「他人に嫌われないようにするにはどうすればいいのか」とか、「あこがれのあの人に付き合ってもらうにはどうすればいいのか」など世俗的な問題がゾロゾロ出てきて、天国も結構人間関係が大変なんだなあ、ということになってしまう。
魅力的である、とか、偉い人である、とかの個人的な価値観を認める社会は決して天国的にはなりえない。
「孤独」を容認するか、他人を巻き込まない形での「孤独回避」の方法を採用するか、が天国に居られる条件であろう。すなわち前者についていうと、天国では全ての欲求や願望が満たされるわけではない。捨てなければいけないものもある。何を残し、何を捨てるか、それこそが知能から来る知恵であろう。希少なものを人と争って入手する喜びは捨てなくてはならない。豪華なものを人に見せびらかす喜びは捨てなくてはならない。
孤独を知恵によって良い方向で解決する方法。読書によって過去の人と交わること、これは他人に迷惑をかけることは無い。茶の湯のような哲人的な集まりもよい。しかし作法の上手下手、茶道具の良し悪しを自慢するようになった途端、意味を失う。誰かがリーダー的役割を負うようになった集まりもすでに危険を含んでいる。
蓮の花を眺めていたら、他人が隣に来て「きれいですね」と言う。共に美しさを愛でて、そして別れる。そういう付き合いが理想的かもしれない。その人より自分のほうが蓮について詳しい、などというのは天国的思考ではなく、言わば地獄的思考である。
人の目を気にしすぎてはいけない。しかし人に不快感を与えるようではいけない。その程度はむずかしい。人里離れて住むほど、煩わしさは無くなる。しかし孤独は深まる。
なるべく個人の動向に影響されない、真理の探求などに喜びを見出せること。たまに訪れる淡い交わりを大切にすること。
他人に不快感を与えないようにするのは、己の欲せざることを他人に為すな、ということが基本であり、知恵によってある程度可能であろう。
人をけなすことも、そして人を褒める事さへ、人には不快なことがあり得る。
己が信じる価値観を声高に言うことも同様である。
天国化を阻む勢力
余談であるがTVなどマスメディアが報道する内容は、まさに地獄的な価値観に基づくものばかりである。「世界的な大会で優勝した人や、世界的な賞を得た人を賞賛する報道」や「人に出来ないことをやる人間を賞賛する番組」などいずれも、評価されなくても孤独を愛でる人間を平静な気持ちにはさせておかないものである。
この世には人類が天国に入られては困る勢力が存在すると考えたほうがよい。常に満足せず、自分に自信が持てず不安な状態に大衆を置いておいたほうが、働いて結果として彼らの階級に奉仕させる方がよい、と考える者達がいるのではないか。そう思いたくなるほどこの世は天国から遠いところに置かれている。
肉体的死と霊魂の不滅
天国をこの世で実現する方法は、まるで人生の修業の戒律書のようである。、人が永遠の命を得て、この世に天国が実現するとしたら、そのときそこの住人が守るべき最低限の戒律があり、それを守る者は幸福であり、守らないものは地獄に居るかのように不幸である。
死が避けられない、としても以上書いてきたことは、この世を天国のように過ごす知恵でもある。あの世でも天国に居られるだろうから、永遠に幸せが続く。
またあの世に天国が無い、としたら、せめてこの世で天国を味わえたことは幸せだったと考えなくてはいけないだろう。
肉体的な死によって全てが終わる、あの世も無い、という考えは人間が環境適応する上で、最悪の思想である。集団で生活し、集団で戦う蜜蜂は個体の死を重視していない。恐らく、本能的に個体の肉体的死より上位に置くものがある、という価値観をもっているのであろう。いくら知恵を身につけて、個人の肉体的死をもってすべて終わりとするような考えでは、人類は環境に対し、蜜蜂に劣る適応能力しか持ち得ない。
知恵の実を口にしたものは生命の樹の実も口にしなければならない。それは霊魂の不滅という考えである。
エピローグ
エデンの園と天国
人間は最初エデンの園という天国のような所に居たのに、また同じような天国に入ることを目指すのか?
違いは知識の樹と生命の樹の実を食べたら追い出される園と食べた者こそが居られる天国の違いである。人間にとって後者を取るしか選択の余地は無いのである。