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朝熊岳七福神の研究   平井一雄
1、はじめに
平成22年7月3日大山歴史民俗研究会のミニ発表会が大山歴史民俗資料館で行われた。
前田英雄先生の「有峰の研究」がテーマである。
講演の最後に1枚のA4資料が配布され、その中に2枚の軸物の写真があった。
1枚は「奉請薬師瑠璃光如来」と書かれ、1枚は7尊の仏像と下方に「伊勢朝熊岳」の右横書の文字がある。
この伊勢朝熊岳の七尊仏は、私が平成10年『北陸石仏の会研究紀要第2号』の報告「片貝川黒谷橋詰の七福神石塔」の図像にそっくりである。           写真 長家掛軸①、②
2、前田英雄先生編集総括の『有峰の記憶』資料編より
  少し長いが引用する。
  昭和15年11月7日 北日本新聞
「湖底に沈む有峰に日本精神を索めて」
○神ながらの道の天地
  前略 深山の秘境に住む有峰では、もし病気になっても医師、医薬をもとめることができないので、口伝の手製になる草根木皮を服用し、一心に神佛を念じその加護にすがって全快を祈るのである。
  有峰は霊峰立山の連山薬師岳の山麓にあって朝夕その雄姿を仰いで信仰し、瑠璃光薬師如来を本尊とする薬師堂を村に建てて、病気になった場合は降 雪中といえども裸足で伊勢皇大神宮を祀る氏神へ全快を祈願し、併せて薬師如来にも快癒の願をたて近親縁者が御百度参りをするのが風習となっている。全快すれば翌年に伊勢様へ御礼詣りをなし、不幸にも死んでも伊勢様に見離された以上は如何なることをしても駄目なのだと信じ諦めて悔いるところがないのである。すなわち生死の前には一切の科學を否定し、ひたすら伊勢様を信仰してその信仰と信念を死の中にまでも深くほり下げているのである。これらのことを綜合して見ると、有峰人は全村一念の総力を伊勢大廟に帰一集結して何ら疑うこともなくて総てを捧げていた姿がわかる。この不知不識のあいだに培れてきた有峰人の姿こそ日本精神の精華といわなければならない。有縁の祭礼は旧暦の七月十六日と八月十六日に行い、全村こぞって氏神に参り薬師岳に登山参詣するのであるが、行くときは誰しも裸足であるが、帰るときは神や如来のお許しによるものだといって草鞄をはいて下山するなぞ神に仕え神を尊ぶ誠心がどこにでも溌剌として現われているのである。宮の御造営は五十年毎に、薬師堂の改築は二十五年毎に行い、大工は能登より招いていたとのことであった。後略
3、薬師瑠璃光如来と伊勢朝熊岳の掛軸
  前田先生の提供されたコピーは有峰出身の長家に所蔵されている軸物だという。古文書類は「長信吉所蔵文書目録」が作成され公開されているが軸物の調査はこれからだと言われる。写真で見る限り一緒の写っている物差から換算すると七福神の掛軸は表装を除いては縦55センチ、幅26センチ位と思われる。「奉請薬師瑠璃光如来」とこの「伊勢朝熊岳」の掛軸は、2の新聞記事の薬師堂に掛けられていたものではないだろうか。いずれにしても旧有峰村の人々の信仰生活を探る貴重な資料だと思われる。
4、片貝川黒谷橋詰の七福神石塔
長家「伊勢朝熊岳」の掛軸解読の一助となればと思い『北陸石仏の会研究紀要第2号』の報告「片貝川黒谷橋詰の七福神石塔」を再刻します。
 4-1、片貝川と黒谷橋
片貝川は立山連峰北部の水を集めて富山県東部を流れ、本邦屈指の急流で富山湾に注ぐ川です。
万葉の歌人大伴家持は、立山の勇姿に感動して短歌「片貝(可多加比)の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通い見む」を作った。写真①
歌碑のある魚津市黒谷(黒谷橋)の橋詰に石仏十一体の祀られている祠堂がある。 写真②
後部三体の石仏、左は「樫藤神」と刻む昭和二十九年銘の文字碑、中央は獅子頭に座す文殊菩薩、右は笠部に三十二弁の菊花紋、台座に十六・十八弁の菊花紋を配す一石七尊石である。七尊仏の主尊は求聞持法本尊の虚空蔵菩薩で稲荷・弁財天・寿老人・毘沙門天・大黒天・恵比寿を配す。この七尊仏は伊勢朝熊岳(金剛證寺)正徳三年開帳の七福神であり金剛證寺印施護符絵像にそっくりである。図⑤
七福神石塔の伝承がないか、この祠堂に同居している文殊菩薩・樫藤神・六地蔵を含めて近くの故老に聞き取りをした。六地蔵は黒谷の火葬場が廃された時移されたものであり「樫藤神」は樫と大藤が黒谷橋拡張で伐られ、その霊を封じた石神であるということであった。文殊菩薩と七福神は樫藤の根元に昔からあったという。文殊菩薩は山の神、七福神石塔は伊勢の万度さま(片貝川の水神)の一形態かと私は考えているが菊花紋は伊勢信仰のシンボルか、片貝山三ケ村木地師の信仰遺産ではないかと考えると更に興味が尽きない七福神石塔である。
4-2、七福神石塔
七福神石塔を考察する。
頭部の笠石には三十二弁の菊花紋を刻み、胴体部には七体の像容を刻む。下部台座には左十六弁、右十八弁の菊花紋を刻む。
便宜上、写真③-1のように七尊像に番号を付して像容を考察する。
4-2-1、主尊 ①虚空蔵菩薩
左手に蓮華を持ち、右手は与願印、冠を載せるが化仏はない。
『新纂 佛像圖鑑』には虚空蔵菩薩の像容が幾つか載せられているが、その一つに求聞持法の本尊として図1-1のような図像がある。その像容は「身は金色に作り、宝冠上に於いて五仏の像ありて結伽趺座す。菩薩左手に白蓮華を執りて微しく紅色に作り華台の上に於いて如意宝珠あり吠瑠璃の色にして黄光焔を発す。
右手復與諸願印を作す、五指垂下し掌を現じて外に向く、これ與願印の相なり」とありて覚禅抄に図を出す。
『虚空蔵信仰』佐野賢治編 中村雅俊「虚空蔵信仰の伝播」によると、「伊勢朝熊山金剛鐙寺の本尊虚空蔵菩薩も秘仏であって、朝熊山と伊勢  神宮との関係から伊勢神宮の遷宮の翌年に本尊開帳が行われるのが例となっており、これを式年御開帳と呼んでいる。従って二十年に一度のことであって、最近では、昭和四十九年にご開帳の法会が行われた。幸い、その昭和四十九年の式年御開帳の様子を川口素道氏が報告されているので、その記事から朝熊山の本尊について知ることができる」その像容について、「虚空蔵菩薩は五仏の宝冠を戴き結迦趺座せられ、左手に白蓮華をお持ちになり、右手は与諸願印といって掌を仰ぎ五指を舒べて下に向けています」と印されている。
天野信景の随筆集『塩尻』巻之四十九には「今年(正徳三年 一七一三)癸巳春三月十三日より百日の間 勢州(伊勢)朝熊岳虚空蔵大士開帳 云々 中略 もと真言求聞の霊場也……」とあり開帳目録には
   本尊虚空蔵大菩薩 明星尊天 雨宝童子
       中  略  勝峯山 金剛鐙禅寺
と印されている。
以上のように像容についての資料から七尊の内主尊①は虚空蔵菩薩と推定する。
4-2-2、七 福 神
胴体部下部四体の内中央二体の仏像は一見して恵比寿④、⑥大黒天と見ることができる。七福神は通常、弁財天・毘沙門天・恵比寿・大黒天・寿老人(福禄寿)・布袋(吉祥天)を龍頭の舟に乗せた絵像知られている。( )内は入れ替わることがある。
『福神』「七福神の成立」喜田貞吉編より
「……更に翌正徳三年伊勢朝熊嶽虚空蔵大士開帳の際に展覧した宝物目録によると、七福神として、虚空蔵菩薩・稲荷大明神・弁財天・寿老人・毘沙門天・大黒天・恵比寿の名が見えている。これは自家本尊の虚空蔵を福神の仲間に加えて、新たに案出したものであろうが、従来重視した福禄寿・寿老人を一つにし、毛色の変わった布袋和尚を除いて稲荷大明神を加えたもので、選択むしろ当を得たものかも知れぬが、これが世間に流布したものとも思われぬ」
このように福禄寿・布袋を除いて虚空蔵・稲荷を加えた七福神を例示している。
黒谷の一石七尊像は①虚空蔵菩薩・④恵比寿・⑤大黒天を含むのでこの朝熊山七福神を参考にして解明して見たい。
① 虚空蔵菩薩 
② 弁 財 天        ・

八臂の天部が龍に乗っていると見る。
龍に乗る像容は仏像圖典では「妙見菩薩」があるが持物から見ると「弁財天」と思われる。即ち左手に宝杵・剣・鍵を持ち(矢が見えない)、右手に三鈷矛・輪宝宝珠を持つ(弓が見えない)八臂像である。また弁財天は水神として頭上に宇賀神としての蛇身(龍神)載せており、龍に乗っていても不思議ではない。七福神を乗せる龍頭の舟を表していると見てもよいのではないか。
           笠間良彦著『弁財天信仰と俗信』より
③毘沙門天
岩座に立ち右手に宝棒(矛)、左手に宝塔を持ち、鳥の形のついた宝冠をつける「兜践毘沙門天」と見る。七福神のIつとなって七難即滅七福即生の利益があるといわれ善行を重ねた人に財福を与えるという。多聞天ともいわれる。
④ 恵 比 寿
釣竿を持ち、鯛を小脇に抱える西宮恵比寿の偉容と見る。
日本創世神話では、足が立たない蛭子(ひるこ=えびす)が海に流され摂津国(大阪)西宮に流れ着き、漁師の守護神になったという。海から漂流の神「福=富」が来るという海の幸の大漁を連想し、鯛を抱える像容となったという。
⑤ 大 黒 天
大黒天は、摩詞迦羅(まかから)と音写し、迦羅は黒と訳され、大黒天の名が出たという。
インドにおける大黒天はシバ神又はその后のドルウガーの化身とされ、破壊戦闘を司る神とされている。また大黒天は万物生育の神ビシュヌの化身ともいわれ、仏教においても財福神としての性格を引き継いでいる。
「大黒天神法」には烏帽子を戴き、大きな袋を背負った一般的な偉容が説かれてかれている。日本では大黒と大国主神が同一視されるようになった。
⑥ 寿 老 人
道教の信仰の中で、北極星のように南極にもこれに対応する星が存在すると考えられていた。この南極星の化身が寿老人で不老不死の仙術を記した巻物を持ち、その象徴である鹿を連れている像容が多い。福禄寿と同体ともいわれているが福禄寿は鶴を配している。いずれも人間の願望である幸福、出世、長寿の象徴を擬人化している。
   (図3 高橋 徹・千田 稔著「日本史を彩る道教の謎」より)
⑦ 稲荷大明神
白狐にまたがる女神像で、向かって右の手に如意宝珠を待ち、左に剣を持つ。(だきにてん)といわれる夜叉は仏教の稲荷信仰の本尊として祀られている。(図2-2 笠間良彦著 「弁財天信仰と俗信」より)
以上のように解明した七尊像図2-2稲荷神 を七福神として図示した。
この図4を柳沢栄司氏に提供したところ、後日「日本の美術№218仏教版画特集に図5の朝熊岳御影があるということをご教示いただいた。
5、伊勢朝熊山金剛證寺と雨宝童子 図5より黒谷七尊像石塔は朝熊岳金金剛證寺の七福神御影の写しであることが判明した。 ○金剛證寺
朝熊山(あさまやま)五五三メートル山頂近くに金剛證寺がある。朝熊山は紀伊山地の東端に属し金剛證寺は伊勢神宮の鬼門(東北)に建てられたといわれる。
欽明朝(539-571)のころ、暁台上人がここで虚空蔵求聞持法を厳修して霊験な力を得たことから、その後、多くの修行憎の行場となった山である。
金剛證寺は真言寺院として平安、鎌倉期に栄えたが応永年中(十五世紀初め)仏地禅師が中興開山となって臨済宗になった寺である。この寺に天長二(825)年、空海が人山して密法を修行したとき、天照大神十六歳のお姿を感得し、一刀三礼して彫刻したという雨宝童子がある。
 ○雨宝童子
 金剛證寺 護符虚空蔵菩薩の左下に立つ雨宝童子は片貝川、早月川の洪水を防ぐ水神様(万堂様=万度様=マンドウさん)の御神体として川筋に祀られている。上島尻、吉野の万度様の語源は伊勢御師の「一万度御祓」から発しているという。
  参考『とやま民俗№19』水神様の万堂さん 広田寿三郎
  『とやま民俗№20』水神「マンドウさん」の語源と性格 佐伯安一
  また富山県内の神明社の御神体は雨宝童子のお姿のものが多いという。雨宝童子が神明杜の御神体となっているのは、朝熊山の御師(おんし)がかかわっているといわれている。尾田武雄氏よりご教示
  参考
  「天乃岩から出現した仏 雨宝童子のことなど」長島勝正
   富山新聞昭和54.11.29記事
『砺波市史資料編4』8神明と雨宝童子
  ○ 伊勢講
  伊勢神宮は本来皇祖神として皇室の信仰を受け、その庇護を受けていたが室町以降、伊勢神領は各地の豪族の領地に吸収され維持が困難になってきたため、神宮の神官のうち権祢宣層が祈祷師として各地の豪族を回り、寄進の取次ぎをした。この祈祷師が御師(おんし)になり、寄信者は檀家になった。伊勢からこの御師が各地に下向し、檀家を増やして信仰を広めた。江戸時代に入ると伊勢信仰は全国的に広まり、伊勢講は各地に分布し、御師は各講を回って大麻(たいま)を配り、信仰の普及につとめた。この頃の庶民は、単独で伊勢神宮に行くのには費用の負担が大きいので、伊勢講で講金という形で金を積み立て、これを路銀にあて交代で伊勢参宮を行う代参講の形になっていった。
  代表者は天照皇太神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の両大神宮に詣で、講員の数だけ神社で大麻を受けて、これを全員に配布した。
  参考 日本石仏事典 昭和五〇年発行

6、富山県内の伊勢信仰関連石造物
  写真④ 魚津市天神山 雨宝童子
神社の御神体は見ることが難しいが、石造物は露天で見ること     
      ができる。
写真⑤ 魚津市天神山伊勢神石 
    魚津市天神山入り口の路傍にある。
写真⑥ 山内家 天照皇太神宮
    旧大沢野町下タ地区芦生の山内家屋敷跡に建立されている。
  写真⑦ 富山市松川べり 舟橋旧跡の常夜燈 
       両宮皇太神宮 金毘羅大権現 寛政十一歳巳初春
7、おわりに
  有峰の七福神掛軸の解読により、有峰と伊勢のつながりが明確になり、さらに周辺の飛騨・越中・伊勢の信仰のひろがりが明らかになればと願い稿を終えます。

    2010.11.19 平井一雄

 富山県常願寺川の大転石に宿る神仏と光導・義賢行者名号塔       平井一雄

はじめに

常願寺川は富山県・岐阜両県境の北ノ俣岳(標高二六六一m)から流れる真川と立山カルデラを源とする湯川をあわせ、富山県の中央部を北流しながら富山湾に注いでいる、流路延長約五六キロメートル、流域面積約四〇〇キロ平方メートル、平均河床勾配二十分の一~百分の一の我が国でも屈指の急流荒廃河川です。

1、安政五年の大災害 飛越地震の概要

安政五年(一八五八)四月九日午前二時頃、跡津川断層の活動によって、推定マグニチュード七、三~七、六の大地震が発生しました。この地震は飛騨(岐阜県)と越中(富山県)に大きな被害が発生したため「飛越地震」と呼ばれています。

地震により立山カルデラの南稜線にそびえる山々の崩壊した土砂が力ルデラ内の湯川と真川をせき止め、いくつものせき止め湖を形成しました。後にこのせき止め湖が二度にわたり決壊し、大土石流となって常願寺川一帯の村々を飲み尽くし大きな被害を与えました。

一度目の土石流は、常願寺川右岸の地域に被害を与え、二度目の土石流は常願寺川左岸を襲い、農作業中の人びとなど多数が犠牲になり、多くの家屋がのみ込まれました。二度目の洪水被害は一度目に比べ被害は甚大であったといわれています。地元の人びとの間では、飛越地震とその後二度にわたって発生した大洪水のことを「安政の大災害」・「大鳶崩れ オオトンビクズレ」と呼び、現在まで語り継がれています。

2、大転石  

常願寺川周辺に点在する巨石は安政の大災害時、二度の土石流で上流から流されてきたもので「大転石」と呼ばれています。転石は大きなものだけでも四〇個以上あり、土石流の凄まじさを物語っています。この大転石に神仏を祀るものを紹介します。添付資料1-1、1-2

2、富山市流杉の水天磨崖像 

冨山市流杉老人ホームの近くに水天を刻んだ大岩がある。

流杉(ながれすぎ)の村名は常願寺川の流れがこの近くでいちばん「ながれすぎ」たところということで名づけられたという。村名は洪水のかかわりがある。この大石は、高さ二・三メートル、幅三メートル、奥行き二・三メートルあり大鳶崩れの洪水で流れてきたものという。北を向いた前面に、高さ一・○三メートル、幅七十五センチ・深さ十センチの光背型の窪みをつくり、その中に像高七十七センチの水天立像が刻みこまれている。像の右側の岩面に「明治二年巳八月中旬建立」、左側の岩面に「水除水神社村方安全」と読み取れる。

安政の大洪水の時、この大岩が洪水の流路を変え、大分救われたものがあったと言う。あばれ川の常願寺川とともに 生きて来た流杉村民はこの大岩に水天を彫り水難除けと 村方安全を祈り続けてきたのであろう。

添付資料2-1、2-2

3、西大森の大転石と水神碑 

西大森の大転石は当時のこう水のすさまじさを物語るものの一つである。高さ四間(約七・ニメートル)、周り十八間(三十二・四メートル)あるといわれるこの大石は、かつては真川・湯川の合流点にあった。それが一回目のこう水で横江地先まで耘がり下り、さらに二回目のこう水で現在地まで移勧した。この石によって水勢は変わって西に走り、西大森より下流右岸の被害を少なくしたといわれる。村民は、この石の恵みに感謝し、水神碑を建て、護岸の神として祭るようになった。

水神碑の背面碑文

此石昔時在常願寺川之上流真湯ニ

川合流之処安政五年二月十日河川 

漲溢流到立山村横江同年四月二十

六日再遭洪水之氾濫又流着干大森

村西大森河岸其状宛如孤瓢之流来

云石高四間周約十八間此石従干茲

止而水勢漸次西走尓来西大森之地

少水害村民之享幸福實為多大石今

顕出于地上不過五之一村民徳之建

碑永為護岸之神

大正四年四月

添付資料1 3-1、3-2、3-3、3-3

 

4、富山市西番 正源寺の「心」字石碑 

曹洞宗正源寺は天正十二年(一五八四)馬瀬口村次郎右衛門の創建と伝えられるお寺で、常願寺川水難除祈願寺とされています。寺の入り口には、大鳶崩れの際に流出した大岩に「心」と刻まれた三メートルほどの大きな石碑が建っています。裏面に由来が刻銘されている。翻刻してみる。

「この石は安政五年大鳶山崩れの際流て来たもので明治四十一年水の守りの祈念の為町内の老若男女が力を合わせ三K程雪中を引いて来て当山の観音さまに奉納した」

昭和五十一年五月建之 二十世元光 謹書

添付資料2 4-1、4-2、4-3、4-4

 

5、富山市西番(ニシノバン)共同墓地の大転石と供養塔

富山市西番(ニシノバン)共同墓地に大転石と「供養塔」がある。洪水で流されてきた遺骸がこの地に淀んだため、西番住民が供養したと伝わっている。

案内板より

「安政五年(一八五八)旧暦二月二十五日、新暦四月九日、石垣や堀、大樹が倒れる大地震が発生し、領内は大被害をこうむった。この時、立山の大鳶、小鳶(常願寺川の水源)が崩壊し、川筋が塞がれ、鍬崎山の中腹を洗うまでの一大ダムができた。その後、旧暦三月十日、新暦四月二十二日になって小震があり、山麗にできたダムの水が鉄砲水となって流れ出たため、常願寺川があふれ、その被害は西は富山城下、北は水橋にまで及び、家屋の流失や溺死者を多数だすなど大災害をこうむった。この時の大洪水によって、西番まで流された大岩は常願寺川の河川敷内外に数個あり、この岩はその内の最大のものである。

高さが四・五メートル、長さ六・〇メートル、周囲二〇・〇メートルで比重が二・六、重さが約一八六・五トンの飛騨岩で、当時の洪水のすごさをものがたる貴重遺物である。なお岩上には、供養塔が設置されている。」

供養塔の解読

①供養塔正面

この供養塔の正面は光明真言を配した月輪の中に金剛界大日如来座像を浮き彫りで刻みその下、中央に供養塔、右に光明真言六百万遍、左に弥陀寶号六百万遍と刻んである。

②右側面 

右側面は梵字(アビラウンケンウン)を刻む。

胎蔵界大日真言(アビラウンケン)に金剛界大日(ウン)を加え金胎両界の真言としたものか、あるいはアで始まり、ウンで終わる意味か。または南無阿弥陀仏六字の名号にあわせたものか、あるいは、それら全てを表しているのかもしれない。また弥陀寶号とは普通言わず、浄土宗系では弥陀の名号と言っている。「南無遍照金剛」を真言宗系では寶号と言っているので願主「乙古眞」

が真言系の僧侶であるのかもしれない。 

③左側面   

左側面の「南無阿弥陀仏」は無智光導のいわゆる団子念仏碑(円形六字名号、宝珠名号)の書体である。光導の花押、署名がない。

④塔後面(銘文) 

為横死諸聖霊等無上佛果也

万延元申年  願主乙古眞恵

七月■建立焉 施主某申敬白

「無上佛果也」とは大洪水で犠牲になった人々に対して六百万遍の光明真言と弥陀宝号を唱え供養し、無上の佛果が出ること祈願する意味だろうか。浄土系と真言系の名号が併記されているのは、夫々犠牲者の宗派を意識して書かれたものだろう。横死とは志半ばにして命を断ち切られること」という。

石塔の法量は岩上に登れなかったので台座の高さ35センチから写真で換算して高さ88センチ・幅26センチと仮記録して置く。

・無智光導行者のこと

日置謙編『加能郷土辞彙』にある無智光導の記述を紹介する。「コウドウ 光導 又光道に作る。享和三年江沼郡野田の農家に生まれ、十八九歳にして大聖寺浄土宗松縁寺の徒弟となり、動橋川上流荒谷の巌窟に入りて修行し、後那谷村三光院に住し、念仏の行者として伝えられた。晩年自坊に小屋を構えて老廃の牛馬を養い、明治十四年二月二十一日七十九歳を以って没した。愚鈍安心念仏鈔一巻・道歌集一巻がある。」

光導の花押署名がなかった時代の書体なのか、願主 乙古眞恵の書なのか、 京都百万遍知恩寺五十七世瑞譽巨東上人墓碑にも宝珠名号の刻銘がある。

目黒祐天寺には宝珠名号の軸があり、利剣名号の軸と共に百万遍念仏の本尊とされている。宝珠名号は鎌倉大仏高徳院の供養塔、板橋浄蓮寺天保飢饉供養塔にもある。

・宝珠名号の出典と機能について

参考文献『仏教論叢第41号』平成9年9月

・現世利益の一側面 利剣名号と宝珠名号 巌谷勝正

名号の変体について詳述しているものに、文雄『利剣名号折伏鈔』がある。「名号を書くに種々変体あり、利剣、宝珠、蓮華、名体不離等なり、利剣名号とは、字画皆剣頭に象れり、善導大師利剣即是の偈讃を作り、亦剣形の名号を書玉へり 中略

利剣名号とは、字画皆剣頭に象れり、善導大師利剣即是の偈讃を作り、亦剣形の名号を書玉へり今時華洛の圓福寺、當麻の奥院などに光明大師(善導大師)の染筆の利剣名号ありと云える是なり。弘法大師は、導師に依りて書き玉へるなり、其真跡百万遍知恩寺に現在せり。今此寶印に模写することは、諸魔の障礙を攘ひ疫神等の災厄を除かん為なり

宝珠名号とは、字々皆団形にして宝珠の形なり、念仏三昧経云、念仏三昧は一切諸仏の財宝なり、 一切諸仏の舎利なりと、徹選択下に云、念仏三味を以て如意宝珠に喩ふ、乃至一切衆生をして罪を滅して往生せしむ、豈に珠の力用にあらずやと、論註に云、譬へば浄摩尼珠を濁水に置けば水清浄なるが如し、もし人無量生死の罪濁ありといへども、彼の阿弥陀如来の至極無生清浄宝珠の名号を聞て、これを濁水に投ずれば、念々の中に罪滅して往生することを得と。文雄によれば、宝珠名号も万徳のうちの一徳を表すものであり、その意図するところは二世の所求を満足させることにある。その力は滅罪往生という宝珠の機能にある。『論註』の宝珠名号の警えは、下下品の人が十念に乗じて往生するのは、無生の生ではなく実の生であるという誤った考えを持つのではないかという問いを破すところに 譬えとして出てくるが、阿弥陀如来の名号の徳を宝珠に譬えているのである。その内容は文雄の

引用する通りであるが、『論註』では、さらに阿弥陀如来の無上の宝珠を無量の荘厳功徳成就の幡でくるんで往生する者の心の水に投げ入れば、邪見を転じて智となすことができるという比喩が続き、宝珠によって、凡夫の心が如来の功徳により薫習される効果のあることを明かしている。

添付資料4 宝珠名号

北陸石仏の会副会長滝本やすし氏等の調査、編集された「光導名号塔一覧表」を添付する。添付資料2 5-1、5-2、添付資料4,5, 添付資料7「光導名号塔一覧」

参考文献

1989年10月発行『北陸石仏の会研究紀要第3号』

「無智光導行者の団子念仏碑を訪ねて 平井一雄

2008年 6月発行『北陸石仏の会研究紀要第9号』

「無智光導行者名号塔の源流を訪ねて」平井一雄

2002年6月発行『日本の石仏№102』 

「北陸の円形字名号―無智光導の団子念仏碑―

 

6、・西大森徳成寺の義賢碑

西大森徳成寺境内に六字の名号を刻んだ石碑がある。高さ一メートル二〇センチほどの自然石に「南無阿弥陀仏」の線刻があり、その外に蓮華文の線刻もみられる。安政五年の洪水で芦畊寺から流れてきたものだといわれる。'

『立山町史2』より

徳成寺境内南側の六字名号塔は

「南■■■陀佛 義賢 花押」で■■■は摩耗で読めない。

義賢と花押(横未開敷蓮華)で岩峅寺、芦峅寺等に残る義賢行者の名号塔とわかる。

線刻の石仏『伝承誌 おらが大森』昭和62年2月

「西大森徳成寺場内に南無阿弥佗仏と石に線刻のしてある石仏がある。

此の石仏も安政五年大供水の時、常願寺川原に押し流されてきたもので村人が見付け徳成寺住職と相談して境内に建立せし石仏でどこに在ったのか不明である。」(古川知明氏のご教示による)

7、義賢の研究論文 抄

・『北陸石仏の会々報第13号平成八年』

義賢上人の六字名号碑 久世嘉太郎

・・・京田(良志)先生や滋賀県の松村雄介先生のご研究によれば、義賢は天保十一年頃(1840)近世後期に活躍した木食(念仏行者)で経歴は不明の部分が多い。「明治往生伝」によれば唯念は文政四年(1821)に富士山で修行している義賢を訪ね、師事したとされている。「唯念行者と唯念寺」芹沢伸二の書には、義賢が富士山で入定を意図していたことを示す文章とか、死の前年とみられる天保九年(1839)に富士山頂で行をした記録があるからである。義賢の筆になる名号軸や名号碑は富士山麗にも多い。北陸では、滋賀、岐阜、石川、富山の各県域にも散在する。特に富山県立山芦峅寺布橋の名号碑を見るに、立山に修業の場を求めたものと思われる。以下略

・『北陸石仏の会研究紀要第3号』平成11年10月

「義賢行者の足跡」 富山県 伊藤曙覧 抄

徳本と義賢

実は義賢は徳本の跡を慕って、北陸路へ来たのではないかと一般に言われる。富山・石川両県の石碑類調査では、徳本と義賢の足跡は重複する。しかし、それによって、直ちに義賢は徳本の足跡を辿ったと結論することはできない。

徳本の『応請攝化日鑑』によれば義賢の記載が全く見出せない。また長野県の道調査報告書も精しく見たが、徳本は見えるが義賢の名は全く見出せない。

更に徳本の弟子名一覧にも義賢名はなく、その上、徳本行者没して七年、十三回忌法要出席者にも義賢名はない。かく見る時義賢は徳本行者の弟子と見ることはできない。加賀藩史料の如く徳本以来の念仏聖として記したことが義賢像をゆがめた一つだったのかもしれない。一方、改名して義賢と称したとする推論もあるが、そうしたことは根拠のない無理なことで再検討すべきであろう。中略

義賢は、富士山麗での修業から、七月戸隠山、更には八月越中立山で修業をし、富山から四方、高岡、小矢部、加賀へ巡錫がつづく。芝田悟『加賀、能登における念仏行者の足跡』『歴史の道調査報告書第五集』所収(1998年3月石川県教育委員会刊)

加賀地方では徳本名号塔八基、義賢名号塔九基が確認される。加賀地方の場合も徳本と義賢はよく類似した足跡を示すが、これは両者が浄土宗の寺院を中心に行脚しているからで、このことは越中の場合でも同じ傾向をしめしている。富山県下は「義賢名号塔一覧表」を添付する。

添付資料8「義賢名号塔一覧富山県」滝本やすし編集 

 

8、おわりに

西大森徳成寺の義賢碑は元々、芦峅寺地域の亡者供養、疫病退散祈願のため建立されていたのだろう。安政五年鳶山くずれの洪水により転石となったが西大森にとどまり徳成寺境内に再建され大森地域住民の防災除難祈願の神仏とされている。

西番共同墓地大転石上の供養塔は光明真言・大日如来真言・金剛界大日如来宝珠六字名号などにより無上の仏果を祈願している。

さらに「水神」「水天」「心」などの神仏を転石に祀られた先人の防災、除難、慰霊の願いと知恵を忘れないようにしたいと思っている。

平井家のお宝と自分史の試み    平井一雄

はじめに

今回紹介する平井家のお宝は何でも鑑定団に出してもいいものか悩むものである。

祖母サヨ、母キミエの遺品の内、かなりボロボロになった布袋(信玄袋)にあった紙屑を

広げて見ると写真のような衣料切符であった。写真①

私と父母、祖父母の分や戦時報国債券のようなものが詰まっていた。特に私の名前が書か

れたものを見ると昭和18年、昭和19年のものであり、其の時の住居、富山市千石町の記述もあり、私の生年、昭和17年直後の発行である。写真②

自分史の記述に参考になると思い参考資料を漁ってみた。

ちなみに千石町は昭和20年8月2日未明に米軍の空襲を受け一面焼野原になっている。

私が今、これを持っているのは空襲の直前に祖母サヨの実家、旧大久保町の中大久保、野崎政次郎家へ疎開することになり、祖母、母が肌身離さず持って来たためだろうと思っている。

 

1、衣料切符  写真③-1、③-2

○繊維製品配給消費統制規則(インターネット資料による)

日本政府は配給消費の統制の一環として昭和17年1月20日、繊維製品配給消費統制規則を制定公布し2月1日から実施した。

これにより衣料品の総合切符制が実施され衣料品はこの切符がないと購入することができなくなったのであった。

衣料切符は甲種(茶色、総得点数80点)と乙種(水色、総得点数100点)との2種類とされた。乙種は市制施行の183都市と都市と区別するのが不適当な六大都市に隣接する町村の在住者に配布され。甲種はその他の地域の在住者に配布された。切符は有効期限は1年間で、買い溜め等需給の混乱防止のため、甲種が30点、乙種は40点が半年後でなければ使用できないことになっていた。

この切符はその点数内で、衣料品の購入が認められ、衣料品の点数は154品目に分類されていた。しかし戦争が長引き、繊維製品の不足はさらに深刻化し昭和19年には甲種、乙種の区別が撤廃され、一人あたり30歳以上40点、30歳未満50点となり、さらにタオル、靴下、手拭、足袋、縫糸は制限小切符を必要とするようになった。食糧品の配給制は昭和16年から「米の割り当て通帳制」として始められていたが、翌17年2月からは衣料品も総合点数に勘定する「切符制」に切り替えられた。配給といっても無料で配られるのではなく、代金を支払って買い求めなければいけなかった。配給制度は需給バランスを保つために導入された制度だったが、19年頃からは供給物資の極端な不足が目立ち、有名無実となった。

2、戦時貯蓄債券・戦時報国債券  写真④

1で紹介した衣料切符のほかに多くの債券類が入っている。

父庄次郎は昭和17,18年頃、仕立て屋(洋服屋)をして生計を支えていた。

昭和18年徴用令改正により軽易な事務、商業など17職種に男子の就業が制限・禁止され不急部門の従業者が軍需会社に強制徴用されることになった。(白紙徴用)

父も奥田製作所という軍需工場に徴用されていたらしく、何年の8月か不明だが給料袋が残っている。

支給総額212円40銭から控除総額46円53銭を引き、手取り165円87銭となっている。(今の価値では15万円前後か)控除の項目に「報国貯金」24円となっており、さらに「弾丸」2円を引かれている。(「弾丸」とは通称「弾丸切手」で 正確には「戦時郵便貯金切手」といい額面2円、昭和17年6月に第1回が発行)以上二つの控除は強制貯蓄であり控除の半分以上を占めている。

平井家のお宝袋にはこれらの債券類・弾丸切符とそれらの証券保管証が多数残っていた。

戦後の超インフレで償還時期には約1,000の1の価値、今の5円とか2円にしかならず換金の期限満15年が過ぎてしまったものだろう。

特別据置貯金証書なるものもあり昭和24年満了になっている。

横幅十四.五センチ、縦十センチのものである。昭和十八年八月発行額面十円が一枚、昭和十九年二月発行額面十四円が一枚残っている。昭和十九年のものは据置期間五箇年、据置期間満了期日は昭和二十四年二月十六日となっていてその間無利子となっている。戦後の超インフレで殆ど無価値となり払い戻しを受けなかったのだろ

○戦時貯蓄債券・戦時報国債券とは?  インタ-ネット資料による

昭和六年九月一八日、満州事変が始まったが、事変は拡大しついに日中戦争に発展した。

昭和12年に日中戦争がはじまると、多額の戦費が予想され、戦費の一部に充てるための国債(軍事公債)が発行されました。

そのため、昭和十二年九月十日、臨時軍事費特別会計法、臨時軍事費支弁のための公債 発行にかんする法律の公布があり、臨時軍事費調達のために各種公債が終戦まで大量に発行された。特に戦費調達のための法律「臨時資金調整法」が施行されると、「貯蓄債券」や「報国債券」という名前の国債が発行されました。国民は貯金を奨励された上に、さらに国債の購入も求められることとなりました。昭和16年12月に太平洋戦争が始まると、より少額の「戦時貯蓄債券」や「戦時報国債券」が発行されました。昭和17年軍事公債の売上げは、7億7600万円に上りました。

○戦時貯蓄債権  写真⑦

この券は無利子、割引販売、年2回の抽選により当選すると割増金が付き 償還されたがそれ以外は20年後の償還となっつている。

債権金額は30円(20円で販売)、15円(10円で販売)、7円50銭(5円で発売)の3種類があった。割増金は15円券、1等2,000円、2等100円、3等10円、7円50銭券、1等1,000円、2等50円、3等5円となっている。

○戦時報国債権

この券は無利子で年2回の抽選による当選者の割増償還は戦時貯蓄債権と同じであるが割引売り出しはなくその代わり割増金の額がはるかに高額となっている。また非当選者の償還は10年後となっている。債権金額は10円と5円があった。

割増金は10円券が1等10,000円、2等1,000円、3等10円、5円券が1等5,000円、2等500円、3等5円

○戦時郵便貯金切手     写真⑤

 横幅十三センチ、縦六センチ小型のものが九枚ある。戦時郵便貯金切手と表に書かれていて額面二円である。

第二十六回昭和十九年九月発行二枚、第二十七回昭和十九年十一月発行二枚、第二十八回昭和二十年一月発行二枚、第二十九回昭和二十年三月発行三枚が残っている。これが通称「弾丸切手」といわれるものらしい。

二等一〇〇円、三等五円、四等二円の四種類で当選確率は十一枚につき一枚、(後に八枚につき一枚に変更となる)とされたことから国民から好評を得て、「よく当たる」「買った貯金が(武器としての)弾丸の資金になる」ことから「弾丸切手」の愛称が付けられた。売り出し期間は原則として毎月一日から十五日まで抽選日は二十日でその十一日後から割増金の払い戻しを行なった。 なお元金は無利子で、五年間は引き出しできない条件とされていた。切手の売り上げ金は大蔵省預金部に預け入れられ、主に国債の消化資金に充てられている。郵便切手と名称が似ている郵便切手とは性格・内容が大きく異なり、債券であるため通常の切手としての使用はできなかった。

「弾丸切手」は昭和十七年から発行されているが、平井家にあるものは昭和十九年からである。父庄次郎が奥田製作所に徴用されて給料から「弾丸」の項目で天引きされているのがこれだとすると、徴用されたのが昭和十九年からだろうか。それとも大東亜戦争特別据置貯金証書の一枚が昭和十八年八月なので抽選後のはずれ券五枚以上をこの据置貯金証書に替えたのだとすると昭和十八年からの徴用とも考えられる。

 ○大東亜戦争特別据置貯金証書

 横幅十四.五センチ、縦十センチのものである。昭和十八年八月発行額面十円が一枚、昭和十九年二月発行額面十四円が一枚残っている。昭和十九年のものは据置期間五箇年、据置期間満了期日は昭和二十四年二月十六日となっていてその間無利子となっている。戦後の超インフレで殆ど無価値となり払い戻しを受けなかったのだろう。

3、庄治郎の給料袋   図1-1、1-2  写真⑦

お宝の袋には庄次郎の給料袋が入っていた。

もちろん中身はなかったが内訳から色々のことがわかってきた。

表示は8月分とあるが何年の8月か不明である。支給額や控除額の区別から資料をあさった。その前に庄次郎は小学校卒業後、総曲輪の仕立屋に奉公し独立して稼業の洋服仕立商をはじめていた。国民徴用令が昭和14年7月に実施され「白紙徴用」されることになり洋服仕立商は強制的に軍需工場に徴用されることになる。

①控除額の考察

控除額の内訳「弾丸」という項目は前に記した「弾丸切手=割増金付戦時郵便貯金切手」だとすると昭和16年6月より発行されているので、この給料袋は、その年月以降のものだろう。次に控除額の内訳「[報国貯金」も前に記した「戦時貯蓄債権」であり昭和17年6月発行のものからあるのでこの年以降に「奥田製作所」に徴用されたのであろう。

つぎに控除額「労働者年金」がある。

今日の厚生年金は昭和16年の労働者年金保険がはじまりである。被保険者は常時10人以上の労働者を使用する工場・鉱山・交通運輸事業等の事業所に使用される男子筋肉労働者のみで強制加入である。

保険事故には老齢・障害・死亡・脱退とあり、老齢年金は資格期間20年、支給開始は55歳、年金額は平均標準報酬月額の3月分であった。昭和19年「厚生年金保険」と改称しているので、この給料袋は昭和16年から19年の間の物であり庄次郎はこの期間徴用されていたのだろうと推定している。

また「健康保険料」の項目がある。

健康保険法は大正11年公布、15年施行され昭和2年から保険給付を開始した。

健康保険法によると、保険事故は業務上業務外を問わず被保険者の疾病・負傷・死亡・分娩とし、被保険者は工場法、鉱業法適用の常雇労務者を強制加入とした。

昭和9年法改正によって被保険者の範囲を拡張し家族給付も開始した。

太平洋戦争期には医療の機会が減り、また投薬すべき薬もなく保険給付ができなくなった。そのため特別会計の積立金がたまり過ぎ国債保有に運用したという。

②、支給額の考察

次に支給額の項目を見る。

日給制であったのだろう。日給3円30銭で39.45日働いている。時間外や休日出勤もあったのだろうが詳細は不明である。

月30日働いてまだ9日と半日は時間外だったとするとかなり過酷な労働状況だったのではなかったか。そろそろ徴兵令状(赤紙)がくるだろうと思っていた頃終戦になったらしい。軍需工場の労働者は徴兵延期もあったという。

「家族手当」の項目がある。

家族手当は日中戦争の開始前後から実施され始めた。政府は現金給与と並んで生活必需品の現物給与もすすめた。政府の奨励にもかかわらず家族手当はあまり実施されなかったがその後インフレの激化、および重要事業所労務管理令の適用を受ける重要事業所、徴用工場は家族手当の支給を強制する方針がとられたので次第に普及していった。某会社では扶養家族1名につき月額5円の家族手当を支給している。

庄次郎の給料明細には10円と53円26銭の2段になっているのは妻と子に5円づつ、他の家族に53円45銭だろうか。よくわからない。

「皆勤手当」は日給額の3日分とすると9円90銭になる。

「通勤手当」は、千石町から岩瀬の奥田製作所までどうして通勤したのだろうか。岩瀬港線か自転車か,4円50銭の支給が記載されている。

「衣服手当」は作業服の補充か5円の支給がある。

庄次郎個人の写真は作業服(ナッパ服)をきて職場の休憩時間に撮ったものらしいものが1枚残っている。ちなみに、この頃の白米の値段は、10キロで6円(昭和20年東京)である。

参考文献

・太平洋戦時下の労働者状態

・事典昭和戦前期の日本

・値段史年表