※修正・加筆を加えてきます。

初稿(2021年7月24日)

第2稿(2021年7月26日)  

 

 

徳川慶喜(徳川幕府 第15代征夷大将軍)

 

 

天保8年(1837)年10月28日

      から

大正2年(1913)年11月22日

 

享年 77歳(満76歳)

 

将軍職在任期間 約10ヵ月

 

勲一等、旭日大綬章を叙勲

 

 

幼少期

 

 

徳川御三家の一つ、※(1)水戸藩に生まれる。出生は、江戸の水戸小石川藩邸。

 

幕法で大名の子弟は、江戸屋敷で育てなければならない(ある種の人質)。だが、水戸藩主である父が幕府にとくに乞い、例外として国もと(水戸)で育てられる。江戸の華美さを嫌ったとされる。

 

 

「母の手許で育てたのでは軟弱になりかねない。男の子は男で」ということで、傅人(めのと)(乳母に変わって養育する男性)に井上甚三郎が選ばれた。それが家法というものであった。父・自身、乳母に育てられるのを嫌がり、屈強な藩士ふたりを傅人を選んでいる。

 

幼少期の逸話

 

霜がおりかけようとする季節に慶喜が誕生。しかし、産湯に冷水を使わせた。母が「そうようなことで育たぬような子ならば、私の子ではない」という理由であったためである。

 

また、寝相が悪かった。そこで、父が枕の両脇に剃刀(かみそり)を立てさせ、寝返ると頭や顔が切れるというしつけをした。また傅人(の井上が「右下の片寝をするべき」と主張した。寝込みを襲撃された場合、利き手の右腕を残して闘えるという理由である。慶喜は終生この習慣を忘れなかった。

 

 

家族

 

 

父は、徳川(なり)(あき)(9代藩主)

 

母は、吉子(よしこ)女王(じょうおう)(有栖川宮から降嫁。幼名を(とみの)美宮(みや)

 

幼名を「松平七郎(しちろう)麻呂(まろ)」(一部資料では、松平七郎麿)

 

武芸に秀で、神君家康公の再来として「次の将軍」と目されていた。

 

松平と称したのは、※(2)御三家※(3)御三卿の当主(藩主)と世子(せいし)世継(あとつぎ))以外は「松平」姓を名乗ることとなっていたため。

 

名前の変遷

 

松平七郎麻呂→ 松平昭致(あきむね)→ 一橋慶喜 → 徳川慶喜

 

 

兄弟は異母兄弟を含め37人

 

兄は、鶴千代(後の第10代藩主・(よし)(あつ))。それ以降、二郎麻呂、三郎麻呂と続き、七郎麻呂が慶喜。十郎麻呂以降は、「余」がつき余一麻呂、余二麻呂と続く。20人目以降は、廿麻呂(はたちまろ)廿一麻呂。。。と名をつけた。

 

 

長女・賢姫(伊達宗城と婚約。後に死去)

二女・色許姫(夭折)

三女・祝姫(水戸藩家臣・山野辺義の夫人)

長男・鶴千代(第10代水戸家藩主・徳川慶篤)

二男・二郎麻呂(夭折)

四女・恕姫(夭折)

三男・姫(夭折)

五女・唯姫(夭折)

三男・三郎麻呂(夭折)

四男・四郎麻呂(夭折)

六女・松姫(盛岡藩・南部利剛の夫人)

七女・傭姫(夭折)

五男・池田慶徳(因幡鳥取藩)

六男・六郎麻呂(夭折)

七男・七郎麻呂(徳川慶喜)

八男・松平直候(武蔵川越藩主)

九男・池田茂政(備前岡山藩主)

八女・一葉姫(夭折)

九女・八千姫(陸奥仙台藩・伊達慶邦の夫人)

十男・松平武聡(石見浜田藩主)

 

十女・静姫

十一男・慶連川縄(慶連川藩主)

十二男・余二麻呂

十三男・余三麻呂

十四男・徳川昭訓

十五男・余五麻呂

十一女・茂姫(有栖川宮仁親王妃)

十六男・松平忠和(島原藩主)

十七男・土屋挙道

十二女・愛姫(高岡藩・井上正順の夫人)

十三女・久姫

十八男・徳川昭武(清水家当主、水戸藩主)

十九男・松平慶徳(会津藩主)

二十男・廿麻呂

二十一男・廿一麻呂

二十二男・松平頼之(水戸藩支藩・守山藩主)

十五女・正姫(鹿野藩・池田徳澄の夫人)

 

 

1847年(弘化4年)第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の意向で、御三卿の一つ「一橋家」を相続。

 

この時、11歳。家慶より※偏諱(へんき)を受け、家慶の「慶」の一字をもらい受け、「一橋慶喜」と名乗った。

 

朝廷からは、従三位・左近衛権中将兼刑部卿を叙任。呼び名で「刑部(ぎょうぶ)(きょう)」「一橋卿」と呼ばれるようになった。

 

 

※(3)偏諱(へんき)とは、貴人から臣下への恩恵の付与として与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて非常に多く見られた。慶喜の場合、松平昭致(あきむね)と名乗った際も、父・斉昭の「昭」の一字をもらい受けた。

 

 

実は、父・斉昭は慶喜を藩主・義篤に不測の事態が起きた場合に備え、はじめは一橋家への養子を断っている。後に将軍・家慶の意向(台虜)を老中・阿部伊勢守正弘から伝えられ、説得。これを承諾した。また、尾張藩、紀州藩からも同様の話があったが断っている。

 

参考文献

 

山岡荘八  歴史文庫 「徳川慶喜」(講談社)

司馬遼太郎 文春文庫「最後の将軍」(文藝春秋)

 

※(1)(2)(3)は別稿