昨日は凄かった…
カッーーー☀️と晴れたと思いきや
ざぁーーー☂️ピカッ⚡ゴロゴロ…
と、突然天候が変わり
雷の音で
私のお尻が1cmは浮いたという
ビビりな私(ー_ー;)
ナナさんが生きてたら
ほふく前進して逃げ惑い
押入れ城か布団に避難してただろうな…と
ナナさんが居た時は
雷の音に怖がってるナナさんをなだめ
「大丈夫、大丈夫」と
見守っていたのよね
なのに、昨日はかなり怖かった…
「守る」という勇気が勝手に出てたんだなー
あの頃の私は
ビビりを発動してなかったんだと
昨日、改めて気が付きました
ナナさんの存在、全てが
空気のような感覚の当たり前
水の流れのような行動、思い
それら
予測や心構えや下準備やら
頭で考えなかった
そんなの無かったなー
考えて行動するより
本能で動いてた、行動していたんだと思う
ナナさんが居なくなってからの
生活スタイル
最近、ようやっと?なのか
自分中心の行動が
悩まずに動けるようになってきた
(落ち込むのもない)
『忘れてる』『逃げてる』とかじゃなく
自然体で生活が出来てるようになったと思える
亡くしてからの数ヶ月は
自分の在り方が定まらず
無理して行動したり 無理して考えたり
無気力なのにも関わらず
「何かしないと」という
意味のわからない決め事をし
贖罪のような気持ちにもなり
自分を痛めつけてたと思う
自分の身体と心の悲鳴に逃げてたから
気が付かないフリしてたから
拗らせたのよね
拗らせてる時ほど
『頑張らなきゃ』って思えば思うほど
『頑張れなくなる』
私の持論だけど
頑張るのは「納得」してるから
出来ること
自然に「受け入れてる」から
出来ること
現在進行形な事柄に
『頑張れる』んだと思ってます
やれてない、出来ない所で『頑張る』のは
無理なんですよね
無理矢理、自分を鼓舞しても
出来ない、出来てない所を頑張るって
ただ、ただ、自分を苦しめてるだけ
地雷踏みまくりなのよね
はるか昔、自分に対してなら
『頑張る』って言葉を使ってました
他人には成るべく言わないようにしてた
私が居ます
『頑張る』のは自分自身だから
他人に言われてやれるとは
私は思ってなかったからなのです
他人に言われる前に頑張れるはずだと
そう思ってたから。
応援し、見守って貰ってる方が
信じてくれてると感じられる方が
その方が
私には居心地が良かったと思ってます
なのに…
分かっていたのに
自分で自分を苦しめたんだと
振り返られてます
『頑張って』と言われて
出来る人も居ると思いますが
私は、私だけは
背負う気持ちが強くなって
自分のありのままを出せなくなる
自分を大事に出来なくなる
そう、母に言われてたのを思い出せる
「いつか、出来るようになる」って言葉を
期待ではなく、信用してるって気持ちを
言葉でハッキリと言われなくても
母の気持ちが伝わってたあの頃を
思い出してます
~いつか出来るようになる~
魔法の言葉だと思ってます
今まで自然体で生きてた、生きて来れた
本能で行動してた
その本能という機能が
備わってるのだからこそ
考えなくても生きていける
(時々、場面場面にね)
私の心の『ON、OFF』
自然体でやれてたんだから
これからも私は出来るはず
(自分を信じる!)