エールとは、『声援、励まし』
(  ̄ー ̄)ノ
一生懸命になってる、頑張ってる人に
エールを送るとあるが
アタクシの考えですが
相手にとっては負担に成りかねない
エールがあると思ってます
「頑張ってる」から
応援するかもしれないけど
「頑張ってる」からこそ静観という
『見守る』スタイルも
そんなエールがあってもいいと思ってます。
頑張るは「頑なに張る」と読み解ける
(個人意見)
相手にとってその負担とは
エールに応えようと気を張り続け
心身ともに力が入ってしまい
頑固になり、固執したり
自分を追い詰めるかのように
「それしかない」と視野が狭まってるかもしれない
もし、そうだったとしたら
『私(俺)、頑張るね』と言われると
アタクシは「頑張って欲しくないなぁ…」と
思ってしまってます。
なかには、臨機応変に
『頑張る』ことが出来る人も居ると思う
それは
「そこそこに、程々に」が常にあるのなら
「ここぞとばかり」(一世一代)なものであるならば
おぉー、と応援出来る。
では、何故『見守る』エールにと
思えてるのかは、
アタクシ自身が
「頑張り」過ぎた事に後悔をしてるからこそで
何故かエールを送れない所があるのです。
もし、今『頑張る』(頑な)とあるのなら
力を抜けれるのなら
いい加減(良い加減)が出来るなら
そうして欲しい
過度的に何か、多く過ぎてしまうと
必ず反発的な事が訪れる
身体の不調も心の不調も
やり過ぎると負債がやってくる事がある
なので
『頑張る』人へのエールは
アタクシ、慎重になってしまうのです。
もし、頑張った結果が
予期せぬ出来事に発展してしまい
辛さや苦しみが押し寄せて来ても
その事情を選んだのは自分だったんだと
『許容』(納得、自分を許す事)が出来るなら
その人にとって
エールは重苦しいモノにならないだろう
ただ、万人には少なからず
許容する事が難しい人も居ると思う
できれば、その苦しんだ分
どうか自分を慰め、褒めて欲しい
『良くやった。自分、偉い』と。
時に、アタクシは思わされる事がある
失敗や後悔、苦しみや悲しみ
心の脆さや弱さも怖さも
それら多くを経験している人は
人に優しく、心、広く、思いやりもあって
更に
妬みもなく、人の悪口も言わない
見返りをも、求めない
そういう人こそ尊敬されるし
他人から見てそれが本当の『強さ』なんだと。
切磋琢磨し経験を磨きあげる事は
アタクシにとって修行であると思う。
(常々煩悩駄々もれ中だもんな)
(;・ω・)………。
前向きな発言と言われる時があって
(自分としてはメンヘラ多々ですが)
100歩譲ってあるとするのなら
ポジティブ発言になれるのは
ネガティブを経験してるからと思っている
良いことも悪いことも経験してるからこそ
思考をコントロール出来るのであって
(自分都合とも言う)
成し得たからこその業だと思う。
(経験という財産なんだと思う)
人は皆、劣等感があって当たり前で
その先の考え方の違いによって
ポジティブとネガティブに
分かれる
劣等感は自分と比べておきる感覚で
「何で私は出来ないの?」
「皆(あの人は)出来るのに、何故私は駄目なの?」
と、なるのが劣等感で。
(持論になるけど↓ずっとか…)
そこでマイナス寄りに
①「どーせ、私は皆(あの人)と違うんだ」
「私は出来ない、分からない」
「やれない、私には無理」という
思考に繋がるとネガティブに陥りやすい
①の「どーせ…」という思考の時に
「何故駄目だったのか、調べよう」とか
「出来なかった原因、要因を見付けよう」とか
「出来る人の真似、業を盗む」とか
そういう思考で立ち向かう努力があると
自ずとポジティブ思考へ繋がるもので
ポジティブな人と言われてる人たちは
それなりな『努力』をしていて
そして目に見える『結果』として
繋がっているんだと思う。
だから
ポジティブもネガティブも
自分で作れるもので
自分で自分を操作してるんだと思う
極端な例えになるが
芸能人やモデルには劣等感って起きないよね?
もう、生きる(居る、場所)世界が違うし
その人たちと比べる世界には
自分はそこにいないって分かっているから
劣等感なんて微塵も起きないよね
「いいなぁ~」という感想のみで終了。
けれど、身近な人たちに対しての
劣等感がおきてしまう時というのは
「いいなぁ~」で終わらず
今の自分と比べて
先に書いたようにマイナス思考になり
行動せず、苦悩の趣味に走ってしまう
妬む事で、自分の正当性を
確証させてるのですよね。
(自分の経験上)
「マイナス思考のマインドコントロール」
これなんです、植え付けているのは
結果、自分自身なんですよ。
それは
自分に少しでも『期待』しているから
劣等感は起きるんだと思う
ならね、その自分の『期待』を
育てればいいんじゃないのかな?
という結論、というか
そういう持論がある、アタクシは。
(期待も他人にはしない、自分だけ)
この持論にたどり着くまで
アタクシにも紆余曲折あって
過去(最近までかな)
『全力でやる』とか『絶対に』とか
散々、アタクシは己に言い聞かせて
大小、様々な壁に向かい
乗り越える難しさもあったのに
なりふり構わず進んでたけど
(猪突猛進ばりに…ね)
長くは続かない…疲れ果てる…となり
そんな
『頑張る』という努力ばかりしてきた。
自分の『期待』を無視して
他人の『期待』ばかり背負ってしまってた
他人の『期待』に応えるほど
器は大きくないことにも気が付かず
劣等感の渦に捲き込まれ (←自分で)
他人に『期待』し (←押しつけ)
自分の『期待』には努力もせず (←逃げ続け)
許容することさえしなくなり
自分を見失って自暴自棄に陥り
ヘタレた自分しか残らず
放心状態から立ち直るのに
時間が かかったのは確かです。
まだまだ『修行中』だけど
言葉に載せる事が出来るようになったのは
『駄目な自分』を許容、知る事が出来たからだと
今は思っています。
『期待』は自分にするものであって
『期待』を他人にするということは
違うんだと、身をもって学んだ事でした。
多少、環境下にも影響してると思うのは
それは
尊敬でもあり偉大なる
『母様』のお陰であると言いきれる
『人間、死ぬまで勉強』と
アタクシは母様に良く言われてました。
母様はどんなにアタクシが失敗、失態しようが
絶対に責めなかった
(叱る事はあったけど)
追い詰める言葉は、けして言わない
頑張れとも言わない
常に
『人生の学び』と、いつも言われてきた。
母様が経験したことない事柄が勃発しても
見捨てることなく見守って
『学び』だと言ってくれてた。
生きる、生きてる価値が分からなかった時も
母様は愛情ある優しさで 見守ってくれていた。
アタクシは母様に感謝しかない
母様のような強き優しさを
アタクシはこらからも
努力して得られたいと思う
そして
その努力を育てながら、己の中にある
『期待』に応えようと思う
過去には戻れないけど
過去の学びは
『人生の糧』になる
けして、無駄な経験などないのだから

『頑張る』という大切な人たちへ
『見守る』というエールを
送ります
※思いを言葉に残したい一心で
書き留めた内容です。
にゃんこの体のように
柔軟にこなして行きたい、生きたい。
ここまで読んでいただきありがとうございました