前回のPart1はこちらより
http://ameblo.jp/j-psa/theme-10002821170.html
■ 日本での母の日のはじまりは…?
5月の第2日曜日は、「母の日」。
なぜ、この日が母の日になったのか?その理由は意外と知られていないようだ。
母の日の誕生は、1912年(大正初期)頃にさかのぼる。
アメリカのある田舎町に住むアンナという少女の母親が亡くなったとき、
アンナは母親の追悼式が行われる教会をカーネーションの花で飾った。
亡くなった母親は、一生を町の子供たちに尽くした優しい人だったので、
町中がこの母親を心に留める意味をこめ、母の日を定めたのだという。
この心あたたまる行事は、たちまちアメリカ全土に伝わり、数年のうちに世界中に広がった。
日本での母の日は、昭和のはじめ頃よりキリスト教団体を中心に、ささやかに行われていた。
これを全国規模の、今日ある「母の日」のような全国行事にしたのが、他ならぬ森永であったのだ。
昭和11(1936)年、森永は各団体に協力を呼びかけ、「母の日中央委員会」を設立した。
翌年には「母をたたえる歌」を募集し、「第1回 森永・母の日大会」を豊島園で盛大に開催。
ポスターの貼ってある菓子店で招待券を配り、20万人ものおかあさんを無料で招待した。
この招待券には、電車の乗車券と豊島園の入場券の引換券のほか、
森永のお菓子の引換券や、牛乳・コーラス・コーヒーなどの接待券が当たる福引券がついていた。
当日、園内では“母をたたえる式”が行われ、新緑の園内で子どもたちと
飛行機遊具に乗ったりボートを漕いだりと、楽しく過ごすおかあさんたちでにぎわった。
この後、森永・母の日大会は全国の主要都市を舞台に毎年開催されるようになっていった。
戦争による中断があったものの、昭和22年には再開している。
一部森永ホームページより抜粋
http://www.morinaga.co.jp/index.html
■ 菓子王 森永 太一郎物語 パート2
前回の続きの前に、『なぜ森永さんは菓子作りをめざしたのでしょうか?』から始めます。
前回は阿部首相の奥様のお父さんが森永の社長だった点から、
営業の神様と言われた松崎社長に焦点をあわせましたが今回は森永社長を中心に記載します。
1888年(明治21年)森永氏はイギリスの客船アラビック号でサンフランシスコに上陸しました。
この時荷物に持っていたものは『九谷焼』でした。
実は、森永氏は横浜の陶器商「道谷商店」の店員でこの店が倒産間際だったためそれを救うために
当時欧米人に人気のあった九谷焼をアメリカで売り込もうという目論みで渡米したのでした。
でっ!欧米人に人気のある「九谷焼」は飛ぶ鳥を落とす勢いで売れたかというと、残念なことに
日本にわざわざ来日する欧米人には人気があっても、アメリカ本土では知名度もなくまったく売れませんでした。
その間に横浜の道谷商店からは倒産寸前で送金を急がせる速達電報が届けられていました。
やむなく、二束三文で販売し、なけなしのお金を横浜に送金したそうです。
その後、森永氏は当時の激しい人種差別に合いながらもアメリカにとどまり様々な仕事をしました。
この差別社会の極限状態の中で、親切で優しい老夫婦に出会いました。この老夫婦がクリスチャンでした。
その後、森永氏はキリスト教の洗礼を受け、一時は伝道師も経験しています。・・・
公園で休息中に子どもからもらったたった一粒のキャラメルのおいしさが森永氏の人生を変えました。
それからの森永氏は一途に洋菓子職人の道を歩み始めたのです。当時の森永氏の勤務時間は
出社が早朝3時、退社が深夜11時という20時間労働だったそうです。
と云うことは、1週間で20×7で140時間です。
ところが、森永氏の持ち前のやる気が、合理的な経営を目指すレストランオーナーの目に止まり、
人種差別の激しいアメリカでは考えられないことですが、アメリカ人のシェフの代わりに森永氏にチーフシェフを託したそうです。
その後いくたの困難にあい、過労がたまり当時としては死亡もあり得る肋膜炎にかかってしまいました。・・・
その結果、森永氏が遭遇した奇跡とは?何と!
その驚愕の事実とは・・・続く



