Beyond―愚直に、ひたむきに生きるー

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独立研究者として子ども・若者参画について論文を執筆しています。ちなみに発達障がい当事者でもありますo(≧∀≦)o。よろしくお願いします。

 5月26日(日)に日本シティズンシップ教育学会の第13回特別講座にオンラインで参加した。今回は、名嶋義直(琉球大学)による「主権者教育から民主的シティズンシップ教育へ―異論、対話、複数性」という報告があった。端的に言えば、それは、主権者教育の限界を指摘し、シティズンシップ教育の優位性を主張するものであり、この2つの概念の異同を考えさせるものであった。名嶋氏は、特別講座のなかで自身のことを語っていたように、元々は、シティズンシップ教育の研究者ではない。しかし、批判的談話研究(Critical Discourse Studies)、民主的シティズンシップ教育(EDucation forDemocratic Citizenship)、日本語教育に力を入れており、今回もその延長線上で主張が展開されていた。

 具体的には、まず、第一に、主権者教育とシティズンシップ教育の異同についてまず、話があった。このなかでは、まず、主権者教育は、選挙の意義を強調し、投票行動に結びつけるという意味で対国家的要素が強いのに対して、シティズンシップ教育は、対コミュニティ的な要素が強いという話があった。すなわち、政治参加の意義を強調し、選挙の意義を強調し、子どもが18歳になったときに実際に投票に行くよう促すような教育が主権者教育だと考えられる。ところが、名嶋によれば、国家=国民=主権者という単純な関係はもはや成立しない。「国民(=主権者)」という概念で均一的にひとくくりにできないのである。このため、名嶋は、主権者教育=「投票者養成教育」では、真の主権者を養成できないと批判的に見て、コミュニティと複数性をキーワードにしたシティズンシップ教育の必要性を主張する。

 そこで、第二に、では、わたしたちは、どのようなシティズンシップ教育実践が重要と考えるのかという問題について話が出た。ここでは、先ほど、述べたコミュニティと複数性に基づいたシティズンシップ教育の実践とはいかなるものかについて議論が展開された。ここで名嶋は、まず、シティズンシップ教育の目的を多様性に寛大な社会の実現であると主張。地球環境問題など、国家を超えた課題に対し、グローバルな視点から解決策を考えるグローバル社会(超国家社会)の形成においてシティズンシップ教育が意義を有すると述べた。

 第三に、こうしたシティズンシップ教育は、法の支配や基本的人権の尊重、民主主義といった普遍的概念について既存の教育(特別活動や道徳、社会科)実践を踏まえる一方で、社会の変化にあわせて「市民に求められる資質」(市民性)も変化しているとした。ここで、重要なのは、単に一人ひとりの人間の価値観や考え方の多様性を尊重するだけでなく、一人の人間のなかにも複数の価値観や考え方が同居しているという名嶋の指摘である。つまり、わたしたちはいくつものコミュニティに帰属し、多様なアイデンティティを内在させているというのである。

 

 以上のような名嶋の整理論点の整理は、教育基本法の言うところの政治教育と主権者教育、シティズンシップ教育について精緻な議論によってその共通点と差異を明らかにした点において有効性を有する。ただし、シティズンシップ教育がでは、どのような人間を育成するかについては議論が錯綜している点は否めない。主権者教育が子どもたちが主権者になった際、選挙に行くためのプロパガンダで終わることを懸念する一方で、シティズンシップ教育がNPO活動やボランティアに参加する人材の育成を想定しているのだとすれば、それは過度な単純化ではないかという批判もあるだろう。その意味では、学校での子ども自治(児童会活動・生徒会活動)や地域における町内会、自治会といった自治活動の活性化と連動させていくことも大切であると考える。

 このとき、先に述べた多様性・複数性を尊重することの重要性と困難さについて考慮することも大切なように思われる。なぜなら、少数の人の意見を聴くこと(対話)こそ、民主主義の要であり、少数でも市民の声として取り扱うことが多様性や複数性を保障するうえでの基盤となると私自身、考えるからである。

 ここで役割を発揮するのが学校教育である。名嶋は、「学校は複数性、異論、対話を『自分ごと』として経験できる場」であるとするが、筆者もこうした名嶋の考えに同意する。AIがどんなに発達しても、複数性、異論、対話の重要性を子どもたちに体感させること、そこに学校の存在意義が見いだせるのではないかと考える。