〜久保裕美〜

 

 エレベーターの下行きボタンを押すついでに、10年目だから、と去年の結婚記念日に何となく買った北欧デザインの安物腕時計を見る。
 時計の針は15時07分を指しているが、いつも2、3分進むから15時05分と考えればいい。
 京都駅まで走って5分。19分発の地下鉄に乗れば、30分頃に北大路着か。先ほど電話で伝えた約束の時間は、15時45分。

「ふう。今日は間に合いそうやな。」

 歳のせいなのか、最近の俺は誰に聞かせるでもない独り言を呟く事が多い。

「来月で38歳か…。」

 エレベーターの扉にぼやっと映る自分の姿は、歴とした「おっさん」だ。学生の頃と体重は変わらなくても、体型は重力に負けて、年々だらしなさを増している。腹を叩けば、ポンッ!と良い音がなるだろう。10年前までバッキバキに割れていた腹筋はどこに消えたのやら。
 まろやかな音を奏で、背後のエレベーターがオレンジ色のお知らせランプを下行きに灯した。1歩、2歩と身体を反転させてから左斜め前に大きく踏み込み、立ち位置を今度は姿の見えないスイッチボックス前に変える。ただ振り返る、そんな動作までおっさん臭い。

「あ!英右くん!今から英右くんのデスクに行こうと思っていたのよ。」

 入れ違いにエレベーターから降りてきた女性が、乗り込み際の俺を捕まえた。

「お?おお、裕美ちゃん!やなくて、久保ディレクター。どないしたんすか?」
「なによ、私にも川尻マネージャーって呼べって言いたいわけ?名前で良いじゃん。同期なんだし。」

 降りてきたのは同期の出世頭、ここ数年で関東弁に染まりきった「久保裕美」だった。女性ながら30代にしてディレクター職を務め、細身で長身の知的美人。加えて、竹を割ったような性格で面倒見もいい、いわゆる姉御肌。女性社員の星だ。
 マネージャー昇格まで、久保と俺は同じにステップアップしていて、お互いをライバル視していたのは事実。けれど4年前のマネージャー昇格以降、俺は出世街道から外れ、久保はそのまま街道を突き進んだ。さぞかし貯め込んでやがるんだろうと、仕立ての良いスーツを見る度に思う。
 見た目も性格も悪くないのに、久保はなぜか独身を貫いている。定期的に異性との噂は上がってはいるものの、長続きしてないようだから、「ゴールイン」はまだ先か。親しくなれば可愛い一面を見せる女性だけに勿体ない…。
 まだフレッシュだった頃、俺達は交際していた。お互いの転属を機に自然消滅してしまった訳だが、もし転属がなかったら俺達の人生は今も交わっていたのだろうか。

「で?どないした…?」

 若い頃を思い出したせいか、高飛車な腕組みをする久保にあの頃の彼女が重なった。

「どないした?って、お願いしてた件、ドラフトの締め切り、覚えてるよね?」

 そういって俺の胸に人差し指を立てた彼女は、年相応の、いつもの久保だった。

「え、あー、あれね!今日やな!ある、ちゃんとある!あんねんけど、夜でええか?」
「ダメに決まってるじゃない!」
「ちゃうねん!健人が熱出してもうてな、今から保育園行かなあかんねん!」

 自分から先に同期の仲をアピールしておきながら、急に上司然として詰め寄ってきた久保だったが、息子の名前を聞いた途端、口惜しそうにその威勢を失った。

「あぁー、もう!仕方ない!英右くんの分は夜でいいよ。」
「すまん!恩にきる!今度奢るさかいに!」

 久保の威勢が落ちたのをこれ幸いに、そそくさとエレベーターへ乗り込んだ俺は、神速の動作で閉じるボタンを押しながら左手だけでゴメンを添えて言った。閉まりかけの扉の向こうから、先斗町!と聞こえたのは空耳って事にしておこう。まさか上司が部下の奢り発言を真に受けるなんてこと…。

「久保ならありえる…。しかも先斗町って、ピンキリやんけ!」

 ガニ股気味のポーズで叫んだ、やんけ!と同時に1つ下の階で開いたエレベーター。待っていた庶務風の若い娘さん3人組に、やんけ!を聞かれ、ガニ股も見られた自信がある。
 恥ずかしさよりも、若い娘さんの香りにソワソワしてしまうのは、歳のせいではなく家庭環境のせいなんだろう。

 家族3人暮らしの俺。家族は、小2の娘、3歳の息子、…以上。
 妻は生まれたばかりの息子を残し、3年前に死んだ。

 

 

ーつづくー