「まだ視えないでござるか?」
「未来視は人探しの能力じゃないんだ。マーキングした誰かが2人に近づかなきゃ視えやしないよ。」
水深3000メートルの暗い海を静かに潜行するシロナガス君1号。その船長室に母娘の姿があった。仲睦まじいとは言い難い絶妙な距離感が、2人の心理的な距離を物語る。母娘がエルサレムで再開してから、今日でちょうど1年になる。
たった365日間のはずなのに、10年分に等しい密度を伴う激動の年だった。
1年前の今日、さくらとララは数百人の人々を虐殺した。彼女達にとっては捕食行動に過ぎなかったのだろうが、駆けつけた現場は凄惨を極めた。母が痛ぶり、娘がトドメを刺す光景は、肉食動物の狩り、またはその教育を彷彿させた。
娘は満腹感を得ることなく、ひたすらに食らった。驚くべきはその捕食方法だ。娘はナマモノに限り「口から」捕食しなかった。
ただ触れるだけ。
娘が触れると、対象の触れられた部位は跡形もなく刮ぎ取られた。小さな手で大人1人を丸ごとは困難だったのだろうか、娘は腹だけを執拗に食らった。結果、幼い娘が行き過ぎた後には、食い残しとも言える大半の肉体が散らばり、傷口から滴つ体液や内容物が中東の猛烈な太陽を浴びて、あたり一面に霧散した。血の味を知るマルセーラですら、今でも思い出すだけで吐き気がこみ上げてくる。
さくら母子の凶行は各種SNSで瞬く間に拡散され、10分も置かずに世界中を席巻する。伝説に語られる悪魔、もしくは吸血鬼を、全人類が実在すると認知した瞬間だった。
そしてイスラエル軍が駆けつける。軍はエルサレム市街地に大規模な防衛線を展開し、母子を迎え撃った。その兵数、およそ300。これは1個大隊に相当する。他にも重装甲車5台、軽装甲車10台が物々しく配備された。2匹の化物を殲滅するのに一見過剰なようだが、これは経験に基づいた適切な配置と言える。
イスラエル軍には対ヴァンパイア専門の特殊部隊が存在する。この部隊は国家の形態や情勢に関わらず、古くから連綿と継承されてきた部隊であり、騎士団からは「使徒」と呼ばれ忌み嫌われる。現代において、ヴァンパイア戦を最も多く経験している組織は、彼ら、使徒だ。アメリカ軍が最新鋭の大量破壊兵器を使うのと異なり、彼らはセンシングパルス兵器を軸に、経験と戦術で真っ向から戦う。
南米基地の戦いで英雄的活躍をみせた、田中さくら准尉も、使徒の1個大隊の前ではさすがに無力だった。針1本通る隙間のない立体的なパルスガンの掃射を受けた母子は、共に頭部だけを残して木っ端微塵に吹き飛んだ。母子と使徒の対峙から、殲滅まで15秒と掛かっていない。赤い瞳を見開き、黒に染まるさくらの首は、使徒により『人類共通の敵、ヴァンパイア』と銘打って、その場で全世界へ映像発信された。
その後の母子は消息不明になっているが、さくらのブリュンヒルドは金毛種の中でも特に不死性が強く、HCマインでも消滅しなかった個体であり、生存している可能性が高い。現場近くに潜伏していたレジスタンスの情報によると、彼女の不死性を知ってのことなのか、母子の頭部は使徒が厳重に回収したという。
この翌日、人類種の保護と存続を目的とした「強制行動型国連軍」の発動が、全会一致で国連承認されると、全加盟国が派兵を表明。1週間と掛からずに数百万規模の多国籍軍が編成され、10日後には、イスラエルの前線本陣敷設とG20各国への国連軍配備が完了した。まさに、機を窺っていたかのような迅速さだった。
世界中がネットワークで繋がる時代に、ヴァンパイアという共通の敵を得た人類は、神の名の下に強固な集合体を成し、ヴァンパイアの殲滅を開始する。
当初はヴァンパイアの識別は不可能と高を括っていた騎士団だったが、人類はすでに識別する術を有しており、世界中の拠点に襲撃を受けた騎士団は、多くの拠点とヴァンパイアを失う。残す拠点は中央、東方、北方の中核3拠点のみ。ヴァンパイアの数も1年前の半数に満たない。
騎士団に組せず人間社会に紛れ込んでいたヴァンパイア達は、1500年前と同じく街から離れ、人々から隠れる生活を余儀なくされた。
いまヴァンパイア達に残された安息の地は、地球上にただの1ヶ所もない。
希望の地となるはずだったドラキュラの治めるトランシルバニアは、真の領主であるドラキュラが自ら投降し、無血で人類に明け渡された。さくらと同じく、投降後のドラキュラの行方は知れない。
「琴美殿の様子は?」
大きめの船長服を羽織ったマルセーラが不意に言葉を発した。彼女の羽織る船長服の襟元には通信機が内臓されている。
"どーも、ジェイクっす。容体は安定していますが、意識はまだ…"
「そうか。変化があれば教えてくれ、でござる。」
彼女はジェイクの次の返答を待たずに通信をディコネクトし、深いため息をついた。長身の女性が、その小さな肩にそっと右手を置き、船長服を抱き寄せる。
「レメディオス…。私は、正しいのか…?」
マルセーラは反抗するでもなく、女性の豊かな胸に顔を埋めたまま目を閉じて呟いた。マルセーラの耳には不思議と懐かしい音が聴こえる。
巫女の力を覚醒するため嘆きの壁の地下洞窟に潜入した琴美達は、ルサールカの待ち伏せにより、護衛のジェイク以外のメンバーを失った。メンバーの命と引き換えに脱出した、ジェイクと琴美の2人も間一髪だった。あと数秒、救出部隊の到着が遅れていたら、2人も還らぬ人となっていただろう。
目の前で屈強な男達を得体の知れぬ化物に惨殺され、ショック状態に陥った琴美は、以来、目を覚ましていない。巫女の匣を間近にした影響か、摂食も排泄もなく眠り続ける。彼女の時は止まってしまった。
「正しいかどうかなんて、結果さ。自分を信じること。
自分を信じて、考えて、悩む。いつだって、誰だって、人はそれしかできやしないよ。
今しか生きられないから、必死に考えるのさ。余計な事も含めて…。
未来が視える私だって同じさ。頭ん中はいっつも余計な事で溢れてるよ。」
「…レメディオス…。」
実の娘から名で呼ばれた母は、憂愁の面持ちで娘の背中をそっと撫でた。