午前1時半すぎの扇島は、静かだった。
 パノラマに広がる湾岸の灯りはハロウィン真っ盛りなのに、ここは見渡す限り、赤く錆びた鉄があるばかり。
 私は途中で小規模な交戦を繰り返しながら、手を引かれるまま、23区の端っこから、ここ扇島まで来た。


「さくら殿、あと4分12秒で迎えが来ます、でござる。戦闘は拙者に任せて鉄鋼の裏に隠れていてください、にんにん。」

 投擲武器の残数を確認した魔女っ子忍者の顔に、街灯りを曇らす陰が刺す。

 

 私はとある事情で、過剰武装した捜索隊ではない「本物の特殊部隊」に追われている。

 完全封鎖される直前だった入院施設から、私を連れ出してくれたのは、もう1人の母、魔女っ子忍者のマルセーラちゃんだ。妊娠以来、彼女が行方不明だったこともあり、ずっと会っていなかった。彼女曰く、ずっと施設内に潜伏していた、とのこと。まさに灯台下暗し…。


「これくらいの傷なら、血を飲めばすぐに治ります故、キュアは不要です、にんにん。」

 大きな猫目で透明な私をしっかりと見つめた彼女は、出血の止まない傷口に伸ばそうとした、私の見えない右手を押し返してきた。とある事情から、私の姿は見えない。


 チュンッ…!

 頭上の鉄塊に火花が散った。


「さすがに発砲してきたでござるか…。取り逃がすくらいなら始末するって感じでござるな。すぐ戻るでござる!」

 言葉の余韻だけを残して彼女が鉄塊の向こうに消えた後、聞こえてくるのは、リズミカルな銃声と跳弾の音、それと刹那の悲鳴だけ。それらが途切れることなく幾重にも共鳴しあって、まるでオーケストラが演奏しているようだ。マルセーラちゃんは、さながら指揮者といったところか。
 私は、もう1人の母が指揮する演奏に合わせて、腕の中で眠る娘に子守唄を歌った。娘は不慣れな腕の中でも安心しきった顔で眠っている。

 


 私は、ルイズ・バートリ三世殺害容疑の掛かる、SS級殺人容疑者。

 娘のためなら、全騎士団を敵に回してでも生き抜いてみせる。





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 ルイズ・バートリ三世の音声記録。

「10月12日、16時32分、田中さくら准尉に低位破水を確認。
 母体の意識レベル低下。陣痛異常。このまま観察を続ける。」
「17時06分。分娩室に入ったが、陣痛が連続している。
 また、現在も胎児は成長を続けており、直近12時間で1140グラム増。」
「母体の臍下に裂傷、並びに、表皮からも胎児の形状を視認。
 17時20分、緊急カイザー…、こ、この子…、初めから産道ではなく母体を破って出る気!?」



 水が落ちる不規則な音と鼻をつく不潔な臭気で目が覚めた。ヴァンパイアになってから気絶してばかりで嫌になる。
 照明代わりのフォトンバクテリアが全方位から私を照らしているせいでヤケに眩しい。胸の重みが気になって手を添えると、濡れた髪の毛らしきものが触れた。一通り撫で回してから視線の元に持ち上げた手は赤黄色かった。
 顔を上げて、重みの正体を知る。


「私の…、あか、ちゃん…?」

 胸の上には、体液と血に塗れた赤ちゃんが寝ていた。
 想像していた産後とだいぶ違う。せめて娘だけでも保育器に入れてくれても良さそうなものだけど…。私も娘も、なぜか裸だ。
 私は寝ている娘を落とさないよう、しっかりと抱きかかえて上体を起こした。赤ちゃんなんて抱いた事がないから比較のしようがないけど重たくて、大きい。生身だと両腕にズシッとくる。汚れたままだけど、ヴァンパイアに産湯って文化はないんだろうか。
 ついでに私も相当激しく出血したようだ。お腹から膝にかけて固まりきっていない赤黒い血がべっとりとこびり着いている。


「…!」

 病室を見渡した私は言葉を失う。
 辛うじて布だと分かる切れ端が散乱する病室の床は、一面が肉片と血で埋め尽くされていた。目覚めるキッカケをくれた不規則な音は、分娩台から床に滴る血の音。鼻をつく臭気は、ゴミのように散らばる内臓から発せられる臭い。そんな地獄絵図のド真ん中に私達母子はいる。


「…やっと起きたわね。申し訳ないけど、あまり時間が残ってないの…。」

 その声と共に香るはずのバラは、不潔な臭いに負けていた。
 残った3本の腕で分娩台にしがみ付くルイズさんに、ラミアの象徴というべき下半身はない。彼女の傍に降りると臭気が一層強くなった。その事から、部屋中に散らばる肉片の大半が、彼女の下半身由来なのだと容易に想像できる。


「大丈夫ですか!て、敵襲ですか!?…それと、もちろん皮ですよね?」

「うふふ。残念ながら本体よ。…私は全力で戦った。100%でこのザマ…。言い訳すら出ないわ。」

 傷口から触手のように伸びる彼女のVマイクロムが、周辺の血液を絶え間なく吸血しながら延命を続ける。それでもダメージが大きすぎるのか、彼女に再生の兆しは見られない。このままならルイズさんはいずれ果てる。

 アクティブキュアを施そうと彼女に伸ばした右手は、パチッと軽く放電しただけで何も起こらなかった。それ以前に私の腕は人間のままだ。アクティブキュアは変身後でないと使えない。
 むろん私は変身したつもりだ。


「なんで…?…?」

「あなたのV…、ほとんど残ってないわよ。出産後の自己再生が最後…。お願い…、私の話を聞いて…。」
「ここに居た人は皆…、私も、あなたも、その子に食われた…。その子は新種のミュータント。その子自身のV、ウィッチ、ブリュンヒルド…、これら3つのVが1つに融合している奇跡の子…。」

 残る3本のうち、一番マトモな腕で私の肩を掴み訴える彼女は、見覚えのある表情をしていた。どこで見たのか定かではないけれど、これは、死を意味あるものとして受け入れた者の表情。
 娘は、某宇宙生物よろしく、私のお腹を突き破って出てきたという。出産の際、私のV濃度が暴走限界を下回るほど低下したのは、娘の発育に多くのV細胞を提供していたから、と考えれば理解できるそうだ。そして、生まれた瞬間から変身していたお転婆な娘は、私の出産に備えて世界中から集まってきていた様々な分野の第一人者達を、さも当然だと言わんばかりに次々と食らい、最後に「大物」のルイズさんを狙った。


「ハイブリッドの私がまるで子供扱いよ…。その相手が赤ん坊なんて、笑えるわ。」

 100%のルイズさんを持ってしても、娘に触れる事すらできないまま下半身の巨大ムカデを捕食され、今に至る。娘の捕食を体験した彼女が、一瞬で消された、と捕食行動に合わない表現を用いたのが印象的だった。


「監視カメラは途中で破壊したわ。けれど、中央の幹部達にその子の実力を知られてしまった…。」

 2000年代に入ってからの騎士団は、局地戦において劣勢、または敗退が増えており、人類が神の力を理解できるまでに至った事が最大の理由に違いないものの、劣勢の理由は他にもある。


 それは、ヴァンパイアが集団作戦に向かないこと。
 個々が超人的な力を持っているが故、ヴァンパイア同士が連携する事は稀であり、各部隊に配属されているヴァンパイアは多くても2名。与えられている任も非常にシンプルであり、その力で戦局を打開、または決すること。戦術上のヴァンパイア投入を人類の戦術に例えるなら、核弾頭の投下に等しい。
 連携した作戦行動を実行するのは非ヴァンパイアの騎士団員であるため、テクノロジーが拮抗しつつある昨今、限られた兵だけで、数に勝る人類を抑えるのは容易ではない。その事実を頭で理解していながらも、旧態然とした元老院は、ヴァンパイアによる単騎特攻・殲滅が「至上の戦術」である、との姿勢を崩さないでいる。この無謀な単騎特攻のせい消滅したヴァンパイアは、過去1年間で100体を超える。

 もしこのままルイズさんが消滅してしまったら、最強駒の1つであるハイブリッドヴァンパイアを消失する事になり、元老院と騎士団上層部にとって大きな痛手になるだろう。一方でその最強駒をも子供扱いする実力を持った新種のミュータント誕生は、今回のマイナスを補って余りある朗報だ。しかもその新種の両親は、どちらも騎士団への忠誠心に疑問符が残る、新参者のミュータントと金毛種であり、子を手懐ければ、強力な両親まで手中に収められる。


「…今すぐ逃げなさい。騎士団にも、人にも、捕まってはダメ…。アンドラーシュは…、私の息子は、まだ10歳だったのに…。」

 ルイズさんは最後まで言わなかったけど、彼女の涙が意味するものは痛いほど分かる。

 元から私は、出産を機に退団しようと考えていた。
 妊娠初期に私の元を訪れた南方の2人、衛生兵のベアトリスさんと通信兵のリカルドさんは、フェアリーテイルの欠片を探して東京に来たと言った。
 フェアリーテイルはヴァンパイア界に古くから伝わる、正体不明の「女神」について詠う3篇の詩だ。私も子供用の訳詩を読んだけど、地球人と思われる「命」と、宇宙人と思われる「女神」の関わりを表した詩、という印象だった。各篇は、女神、命、女神、そして歌と描写が切り替わり、訳でも最後の「歌」だけは、原文に倣って別の字体で書かれる。
 彼らは、今のフェアリーテイルは不完全で、もっとたくさんの詩篇が世界中にあるのだと言い、その証拠として、新たに発見した繋ぎ部分と思われる6つの詩片を見せてくれた。その一方で「歌」は1つも見つかっていないとも言っていた。
 話の中で見せられた詩片に、女神が「3人」と解釈できる記述があったのをよく覚えている。リカルドさんは、何かの間違いかもと笑っていたけど、私と娘、それと白い女神、すでに3人の女神を知っている私の心中は、穏やかではなかった。

 退団した後、私は娘を連れて、いつかの白い女神を探す旅に出ようと考えていた。
 騎士団内にヴァンパイア情報が多く集まるのは確かだ。けれども、女神に関する情報や、真に知りたいと思う情報は、いつも灰色の幕に隠されているようで、どうやっても核心にたどり着けない。
 それ以前に、疑念を抱きながら霧島中尉の近くに居続けられるほど、私は大人じゃない。


「…その子が寝ている間に私を食らいなさい。どの道、あなたは手配される…、そんな身体じゃ逃げ切れないわ。いつか…ラミアを受け継ぐ者が現れたら…その時は、私の…話を…して……世界で一番…美人……医者………」

 不規則な音が止み、ルイズさんの心音が急激に弱まった。彼女のVマイクロムが血を求めて這いずり回る。

 

 私に残された選択肢は、2つ。

 残り僅かな床の血を啜り、ルイズさんを再生、後の運命を彼女に託すか、もしくは、微かに息のある彼女の血を貰い、自分で運命を拓くか。前者は血が足りなければ共倒れとなり、後者はより確実ではあれど「人を殺める」ということ。

 

 

 私は、ぼんやりと天井を見つめる彼女の首筋に噛み付き、私自身の歯で、人の姿に戻った彼女の柔らかい皮膚を噛みちぎった。

 

 この時、私は、娘を守るためならば、自分が迷わず法を犯し、人を殺し得る、という事に気づく。ルイズさんの血で生き延びる、その選択に迷いはない。露わになった頚動脈に犬歯を立てると、小さく開いた穴から血が勢いよく噴き出し、私の口は生温かい血の味で満たされた。

 人の血とは、なんと甘美な味なのか。

 この味を人に伝えたいと思っても、例えが思いつかない。ヴァンパイアになって以来、初めて自分自身の舌で味わう血に、私は心の底まで酔いしれた。


「…それで…いい…。かなら…………」

 力を取り戻してもなお、血に酔い狂う私は、彼女から最後の言葉を発する機会さえも奪った。

 もぎ取られ、棄てられた彼女の頭は、公園に忘れられたサッカーボールのように淋しく床を転がり、辿り着いた壁際から虚ろな瞳で天井を見上げている。

 

 病院の緊急閉鎖と包囲を知らせるアラートが鳴り響く中、私は、身も心も母になり、そして、ヴァンパイアになった。





ーーーーーーーーーー
「さくら殿、迎えが来ました!拙者に続いて海に飛び込んでくださいっ!Vは水陸両用!心配無用!」

 それ、ラップのつもり?
 鉄塊ごと私を跳び越えたマルセーラちゃんは、トポン…と、ほぼ無音で海へと消えた。彼女のダイブは跳び越えた勢いそのままだったのに、まるで水と一体化したようだ。
 その直後、頭上でたくさんの火花が咲いたのを合図に、私も娘を両腕にしっかりと抱いて、バッシャーン、と派手にダイブした。

 


 夜の東京湾は不気味なほど薄暗く、プロテクションバブルの中に娘を入れるたった数秒の間に、マルセーラちゃんの足先を見失ってしまった。
 娘は入水直後に眠ったまま変身した。その姿は、鎧に身を包む私とも、あの白い女神とも違う、艶のあるライトブルーのノースリーブドレスを着ていて、戦いと両極の「平和」を想起させる。部分的にメッシュの入った癖っ毛気味の黒髪は短く、中性的で活発な印象だ。それと、哺乳類の物なのか、鳥類の物なのか分からない、不思議な形状の翼は、ありがたい事に白い女神と同じく左右両方を確認できた。この点は左翼しか持たない私と異なる。
 我が子の愛らしい姿から、あのラミアを子供扱いするような「強さ」は微塵も感じられない。

 仄暗い海の先でオレンジ色の閃光が2度、瞬いた。それをマルセーラちゃんからのサインだと確信した私が、バブルごと娘を抱いた矢先、耳障りな音が東京湾全体を揺らし始める。
 この音は、街中でもたまに聴こえる高周波の類い。耳の良い私は、脳を直に刺激してくるこの超音波が苦手だ。
 気が狂う前に離脱したいと先を急いだ私は、すぐに高周波の発生源に遭遇する。

 笑顔で手を振るマルセーラちゃんの背後に迫る巨大な影、それは、紛れもなくクジラ。大きさと形から、ヒゲクジラの仲間だと思う。
 超特大サイズの羽根のない扇風機みたいな大口を開けたクジラが、海水ごと私達を飲み込もうとしている圧力は、スーツの最高出力でも逃れられない。それなのにマルセーラちゃんは、この危機的状況においてのん気に笑っている。

 この圧を感じないほど鈍感な彼女は、ごく自然に飲み込まれて行き、私と娘も、私がギリギリで放ったフェザー・バレットと共に、無情のクジラに飲み込まれ、緞帳よりも大きなヒゲの……。

 

 

 その先の明るさに、目が眩んだ。


『ここは…甲板…?』

 娘を護るように、背中から後ろ向きに着地した私の前で、フェザー・バレットの開けた穴から、海水がジャアジャアと音を立てて白糸のように流れ落ちる。



「オ嬢!遅クなっちマッタ、スマセシタッ!」

 ぬうっと、私を覆った四角いシルエットの影がカタコトの日本語を言ったのに続いて、25秒の遅刻だと、非常に細かい事を指摘する流暢な日本語が聞こえた。流暢に話す声はマルセーラちゃんだ。
 私の視界が慣れるのに比例して、四角いシルエットもディテールを帯びてくる。

 詳細化されたシルエットは、任侠映画に出てくるような風貌をした、角刈りの男だった。膝に手を置いて頭を下げているにも関わらず、男は箒を片手に仁王立ちするマルセーラちゃんよりも大きい。起立したら彼女の倍はありそうだ。


「さくら殿!拙者の潜水艇、シロナガス君1号にようこそ!もう安心でござるよ♪」

 開いた口が塞がらないとは、今の私の為に作られた言葉なのではないだろうか。
 クジラの中はヤクザの家。笑顔で振り返ったマルセーラちゃんには悪いけど、ココまでハチャメチャだと笑うしかない。


「ぷははっ。クジラってなんだよー!」

 久しぶりに笑った気がする。
 本当におかしくて、ヘルメットを外して腹の底から笑った。お腹を抱えて笑う私につられて、マルセーラちゃんも、角刈りさんも、みんな一緒になって笑った。


「お嬢様、お帰りなさいませ。いやはや、いつにも増して賑やかでございますな。」

 笑いすぎて止めどころを失いかけた頃、穏やかで聞きやすい日本語を話す、年季の入った男性の声がした。


「ひー、ひひひ、ひはひは、兵藤ひゃーん!ひゃだいま!」

 笑いが止まらないと、強そうなヒャド系の呪文を唱えてしまう羽目になるのだと、元気に手を挙げて挨拶するマルセーラちゃんを見てよく分かった。


「これはこれは、お客様もご一緒でしたか。お初にお目にかかります。私はマルセーラお嬢様のお世話をしております、兵藤と申します。…失礼ですが、田中さくら様、でらっしゃいますか?」

 兵藤と名乗ったその男性が恭しく礼をしてから言った問いに、私は笑った顔のまま頷いた。兵藤さんは、珍しい片眼鏡を掛け、ほぼ白髪の髪をオールバックに固めている。


「おぉ!池本様に続き、田中様も我々の活動にご賛同いただけるとは!」

「いけもと?かつどう?」

 兵藤さんの口から出た言葉に、バブルから出ても未だ眠る娘を抱く腕に思わず力が籠る。未知に対する母の防衛本能なのかも知れない。


「その辺のことは追い追い話すでござるよ!」

「ま、まさか!お嬢様!田中様も無理やりお連れになったのですか!?」

 両手で白髪を抱えた兵藤さんに、マルセーラちゃんは、ござるなぁ、と分かりづらい言葉を返した後で、コトミ殿も理解してくれたから今回も大丈夫だと、箒をドンと床について自信あり気に言った。


「ことみ?いけ…」

「して…、その御子は?」

 腕の中で女神姿のまま眠る娘を好奇の眼で見つめる兵藤さんに上書きされて、私の声は独り言になった。


「…私の娘です。今日産まれたばかりで…、名前はまだありません。」

 兵藤さんは状況や娘の姿に驚いた様子もなく、ただ一言だけ、なるほど、と呟いただけだったのに、直後に、マルセーラちゃんから、自分の娘でもあると、耳打ちされた時は、片眼鏡より眼をまん丸にして固まった。

 

 甲板の気圧が少し緩み、パタンとドアが閉まる音がした。先ほどの気圧の変化はドアの開閉によるものだろう。



「…さくら?」

 外ハネ気味のショートヘアをした、脚の細い人影が言った。

 聞き慣れた幼馴染みの声は、耳が覚えている。