令和4年(皇紀2682)11月4日午前9時、天候晴れ、気持ちは憂鬱、私は長女の運転で妻と一緒に某総合病院に向かった。実はその二日前の11月2日の夕食後、部屋に戻ろうとした時、足がもつれ歩行困難に陥った。そして「ろれつ」が回らないのだ。「どうしたんだろう?」と思いつつ妻の肩を借りて自分の部屋に戻った。
後から聞いた話だけど同居している長男が、「脳梗塞ではないか?早く医者に見てもらったほうがいい」と言っていたのを聞いた。妻も同意見で今から病院へ行こうと言ってくれたのだが、「まあ一晩様子を見よう」と根拠もない返事をしてしまった。内心は救急車を呼ぶのも嫌だったし、お酒も飲んでいるし、という気持ちだったのかもしれない。その夜は痛みもなく、お酒の影響で夜9時頃には就寝したと思う。お酒の量ですが発泡酒500mml一本と焼酎25度180mmlぐらいを三回に分けてカクテルし、つまみ4,5品と一緒にいただく、ご飯は食べません。これが毎夕食のメニューです。つまみは余りくどくならないよう妻が気を使ってくれているのだが、どうしても脂っこいものが好きな私はさからっていた。そして、ここ数ヶ月間はアルコ-ル休憩タイムを取っていませんでした。というのも、連続して飲酒していると「美味しくないな」という時がかならずやってきて、この時点からいつも二日間か三日間の休憩を取っていたからです。「身体が教えてくれる」と考えていました。しかし今回はそれがなく、毎夕食時お酒が美味しかった。
翌3日は憲法記念日、祭日である。病院は休みだ。と私は思い込んでいた。しかし緊急なら見てもらえるのだ。今思えば一日でも早く見てもらっていたほうがよかったのではないかと思う。この脳梗塞という病気は「time」時間が大事で少しでも早く診察したほうがとても有効なのだ。ということを4日の朝、医師から伺った。それは、発症してから限られた時間内しかできない治療があるからだそうだ。私の場合はギリギリセ―フとのお話を伺った。
「へ~え、そうなのか」というなんか他人事のような感じで聞いていたような気がする。又さらに発症から治療を受けるまでの時間が短いほど、後遺症が軽減される可能性が高くなるのだ。とダメ押しされたが「ふ~ん」という感じであった。
私は、決して病気をなめているわけでもなく、医師の言うことも聞かないというのではない。わたしよりも専門的知識の持ち主で、どう治療していけばどうなるということを予測できるプロフェッショナルの言葉は当然尊敬もし重く受け止めている。
ただ、私の病気に対する考え方は、年齢を重ねていけばそれ相応に肉体的にも内臓的にも疲れはたまってくるものだ。そしてそれを教えてくれるものは、飲食であり、徐々に身体の欲するものに変わっていき、その欲しがるまま忠実にすすめていけばよい。年を重ねれば食べ物が変わってくる。それに従っていこう。という考え方で現実くどいもの、たとえば揚げ物とか、焼肉とか、お酒の量とかの飲食が少なくなってきているし、又あっさりしたものが美味しく感じるようになってきたのも、内臓の変化に対応するための食事療法なんだろうと思っていた。
今の自分の年齢は「おやじ」よりもうはや一年半長生きている。父親の年を越えなければ、親不孝になると、どんな根拠からかわからないが、そんな考え方をしていたし思い込んでいた。
74歳と半年、体の内部は悲鳴を上げかけているのかもしれない。今まで色々な病気をし入院しお世話になった。
最初が、尿管結石、医師から『水分をたくさん取れ』といわれ、「水分か?水ばっかりは飲めないし、オ-!ビ-ルならどうだ!」と思い病院近くのスナックへ通い、更にちょっと遠出をして知り合いの店にお邪魔したとき、自宅に電話がかかってきたらしい。夜な夜な外出が発覚してしまい妻も病院もびっくり、翌日即退院となってしまった。次は痛風、最初は御多分に漏れず右足の親指の付け根の痛み、尿管結石は右側の背中下、腰当たりに痛烈な痛みで今まで味わったことのない両者とも激痛であった。
痛風は飲食が原因とはっきりしていた。ビ-ル、刺身、肉、ホルモン私の好物である。のど元過ぎればという言葉があるように薬をやめたり、過剰な飲食を繰り返していた。痛みが長時間にわたるようになると、ようやく薬(ウラリットとアロプリノ-ル)のありがたみがわかり飲み続けるようになり、尿酸値も気にするようになったが、現在も手首・足首・膝の関節の弱いところへ痛みがたまにだがやってくる。当初一週間ぐらいの痛みが続いたが現在は二三日で治まっている。もちろん、飲食にも気を留め、痛み止め(ロキソニン)のお世話にもなっている。
話は戻って、3日憲法記念日の日、国旗を揚げるのも忘れてしまい私は、この一日を「どうしてこうなったのだろう」「直るのかな~」「メニエール病とは違うな~」等と考えていた。
実はこの数ヶ月前、3月の初め頃だったと思うが、私は渦巻くようなめまいに襲われ、嘔吐をした。目が回り気持ちが悪い、どうしたことだ。行き付けの某医院に妻に介添えしてもらい息子の嫁さんの車で運んでもらった。
先生は、この病状をよく知っておられ『頭を下げるな!』と強く言ってきた。
この病名は「メニエ-ル」と言って「耳の三半規管が乱れ水が溢れて身体の均衡が保たれない病気なので、薬を飲んで安静にしていて下さい」直りますからとおっしゃり「又脳のほうに関係なければ良いがな-」とつぶやかれていた。
実は妻と毎朝30分ぐらいウオーキングをしているのだが、道をカ-ブするときなど頭がふわっとすることがあった。妻に頭の中が少し心配なんだと話したことが何度もあった気がする。
肉体的、内臓的などは多少の自覚症状があり、余り心配はしたことはないのだが脳に関しては未知の世界という感じで気になっていた。
4日朝、総合病院に到着し、まず呼吸器内科の受付に向かった。なぜ呼吸器内科というと、7年前からここにお世話になっていたからである。詳細は後ほどお話しするとして、受付担当の看護師から「お話は聞いております。すぐ神経内科〇〇番の前でお待ちください」と案内を受けた。
指示に従い30分ぐらい過ぎただろうか、トイレに行きたくなり妻に伝えてそ
の場を離れた。足が思うように動かなかったが、30mぐらい離れたトイレまで行って用を足すことができた。
その後、私の番が来て妻と二人入室し医師の問診を受けた。この時点で右手、右腕は動き、右足もある程度、脳の指示通り神経が働いた。「医師はすぐ入院してください。そしてMRI(磁気共鳴画像)の検査を受けてください。検査を受けたらこちらに戻って来てください。」と言われた。MRIとは脳の状況を断面像として描写する検査で、病変に関して優れた検出能力を持っているそうだ。
この時点から、わたしは車いすのお世話になることになった。
再度医師から手の指、足の指、膝の運動等の検査を受け、「MRI検査で運動機能を左右する脳の血管の梗塞の反応がでています。この状況では、まず2週間は入院してください。点滴治療が行える許容の範囲です。ぎりぎりですが、よかったです。」と言われた。
「よかったんだ、ありがとう」と誰に言うともなく私はつぶやいていた。
すぐさま、病室へ搬送、〇〇階の個室に案内された。個室か止む負えないな、
妻が選択してくれたのかなと思いつつ血栓を解消し血液をさらさらにする点滴治療を受けることになった。運動機能の梗塞であり他の機能はしっかりしているはずなので、私自身の頭は意識がしっかりとしていた。
一夜明けて5日土曜日朝検診、血圧を測り医師の問診、しかしこの時点で右手、右足が完全にマヒしてしまった。右手が上がらないのだ、上げたと思ったら力なく引力のまま落ちてしまう。右足も同様である。「あれっ!どうしたことだ!力が入らない。」
すかさず医師は「きのうはよっかったが、こりゃ~もう一週間かかるな~」とぼそっとつぶやいていた。医師や看護師が出て行ったあと何度も何度も左手左足をつかって右手右足の機能を試してみた。しかし結果は同じであった。
何か気が滅入ってきそうな気がした。
その数分後、担当医ではない白髪の医師であろうか、2,3人の研修の学生か若手をつれて病室に入ってきた。何だろうなと思っていると、何の説明もなく布団をめくりあげ私の右足を伸ばしたり曲げたりしながら若手に状況を説明をしていた。患者の感情は全く無視である。わたしには一瞥もくれず、ただ若手研修学生に自慢げに状況説明している。わたしにはそうとしか思えない状況であった。
右膝が痛い!柔術のトレーニングじゃないぞ!挨拶ぐらいしろ!患者を第一に考えろ!私を74歳のもうろく爺と思っているのだろう。くそ~!
しばらくして私の足をおもちゃにした白髪の白衣は出ていった。
私はこの膝の関節の痛みは痛風からきているかもしれない。痛み止めをもらわないとリハビリに影響するかもしれない。と思い看護師から医師に連絡をしてもらうようお願いした。入院時このようなこともあろうかと妻が痛風の薬と痛み止めを持ってきてくれたのだ。ありがたいことにその後、毎食後看護師がはこんでくれた。
しかし、先程の白髪白衣のご仁は、何の担当なのか、リハビリの担当医か~。その後、当階を歩行訓練中ナ-スセンタ-で二度ほど見かけたことはあったが私の前にはあれから一度も訪れなかった。
私の体は右半身付随で左手に点滴を刺しベットの上で自由が利かず、食事時など体を起こそうと思い左手でベッドの枠を強くにぎり起き上がろうとするのだが、よしできたと思うとス-ッとベットに引っ張られるように倒れてしまった。「身体の右側に力が入らないということはこういうことなのか」と何とも言えない感覚に襲われつつ、それでも何度も繰り返した。
また、ベッドで上下に身を移動しようとするのだが、どこに力を入れていいのかわからず、「まるで芋虫みたいだな」と自分の身体に閉口し苦笑していた。
話が、前後するかもしれませんが、食事のお話をしましょう。
朝食タイム、パン(ジャム・マ-ガリン付き)、牛乳、ス-プ、サラダ(ドレッシング付き)、卵焼き、右手が不自由なので看護師さんに封を切ってもらい、ふたを開けてもらい、ホ―クを用意してもらいありがたかった。食事は美味しかった。昼食、夕食も美味しかった。魚が中心のメニュ-だったがあぶらが程よくのっていて鮭、サバ、白身魚、時には鶏肉いずれも調理方法に変化をこらしていて、美味しかった。調理師さんにお礼が言いたいと思ったほどだ。二週間ほど入院したがほぼ完食であった。
以前入院し治療を終え退院する時、「ご意見、ご感想をお聞かせください」と一枚の用紙をもらったことがある。私は強く食事の改善をお願いした。
当時毎夕食などは口に合わず、差し入れをお願いしたほどである。ひょっとすると入院患者の多くの人が食事に関して批判的意見があったのかもしれない。
今回、ずいぶん変わったと感じるのである。
食事は治療とともに回復する両輪であり大切なものである。ありがたいことであった。
今回、武漢ウイルスの影響で家族との面会は禁止で、当然病室への入室もできなかった。身の回りの着替えなども持ってきてくれたのだが、身体の不自由だった私は、退院する少し前まで、何がどこにあるかわからなかったくらいである。
次の日、11月6日日曜日、お腹の調子が良くなく看護師さんにトイレへ行きたいといったら、「先生からベットから下りないようと指示が出ていますのでベット上でお願いします」と返事がきた。そして看護師の手には塵取りのようなものに蓋がついている器があった。そういえば、医師が「小は管を入れるか、大は差し込みだな」というようなことを言っていた。わたしは管は先回の入院時おこなったことがあったが、それはあまり意識がない時のことで、その後はベットで排尿するよう努力した。だから今回も小はベットで十分尿瓶で行えると自信はあったが大はベットではだめだ。
差し込みといっていたのはこれか。これはダメだろう。「最低限、人間としての尊厳ではないか」と心の中でつぶやいていた。
「先生にトイレで排便できるよう許可をとってほしい」と看護師にお願いした。
これは、安静を第一にという医師の判断であるということはわかっていた。
看護師の返事は「今日は連絡取れませんので明日までお待ちください」とのことだった。そうか今日は日曜日か。止む負えんなあ~
翌日許可が下りた。車いすでトイレに向かった。トイレに入ったのはいいんだが、足の力が入らず左手で手すりにつかまりながら看護師にパジャマの後を引っ張ってもらいようやく腰掛けることができた。しかし便座に座っても力が入らず満足するにはほど遠かった。それから数日お通じがなくやむなく看護師に下剤をもらった。
前回の入院時も便秘で苦痛を味わったからである。多分、点滴など薬品の影響だろうことは想像できた。
食事は三食ともほぼ食べてはいたのだが何故かお腹が張ることはなかった。
9日(水)明日から病室が変わります。と看護師から連絡がきた。実は今いる個室は、一般の個室とは違い、脳梗塞専用の個室であった。
私が入居している隣の部屋で、大きな声で看護師に罵声を浴せている患者がいる。「おい!」とか「こら!」とかわけのわからぬことを言う。私より年配の人のような気がした。迷惑な話である。
次の日その罵声は遠くで聞こえるようになった。四人の部屋へ変わったのだ。私はトイレに行く途中その声を四人部屋から聞いた。「やばい一緒の部屋になるのではないか」と看護師に聞いてみた。看護師は笑いながら「大丈夫ですよ、二部屋西側ですよ」といった。私はほっとして「ありがとう」と伝えた。
三日前の日曜日朝、橋下徹氏が出演する番組でイヤホンがいる、いらないで看護師に教えられた。ここは個室ではありませんのでイヤホンをお付けください。私はこのテレビ番組は欠かしたことはない。一般的に個室はイヤホンはいらないのである。個室は自分中心でいられるからありがたい。でも今回はコロナ禍で家族と会えないから4人の部屋で十分である。それに今回も保険が利用できる。ありがたいことである。妻に感謝である。前回は個室を利用したから保険でずいぶん助かった。精神的な面と費用的にである。
先回の入院について簡単にお話しすると、病名は肺がんです。右肺の上葉がつぶれていたのでそれを切除して上葉の気管支を中葉につなげるという手術です。8時間以上かかったらしいです。「長くむずかしい手術だったよ」と後で聞かされた。当時、身体が暑くなると、よく咳込んでいたのを覚えています。肺の一部がつぶれていたとは知らなかった。約20日間ぐらいの入院だったと思いますが、ベッドで寝たきりなので足などはやせ細って立つことも難しく、歩くことは当然できませんでした。数日後、リハビリで筋力アップを図り体調を取戻して退院しました。
次の日私は家族とともに東京渋谷に向かった。実は半年以上前から、渋谷にある店舗で甲冑制作のパフォ-マンスをするという契約をある会社と結んでいたのだ。それがこの日なのである。この日に合わせて退院の日を医師と相談していたといってもいいかもしれません。わたしは、手術で身体が直ったと思っていた。家族の反対もあったが先方との約束は昨日今日ではない。信頼関係が第一であり、大切であると思っていたし、ましてや告知もしていただいており甲冑に興味ある人が来てくれるので、啓発活動としても大事なことだと思うし、お客様は私の職業に興味をもっているだろうし、あるいは期待しているかもしれない。私の病気など彼らには関係ないのだ。という考え方から妻と娘家族と一緒に出向いたのである。家族の慰安も兼ねてである。
パフォ-マンス後、色々な話ができた。やはり、甲冑師を目指している若い人や甲冑師ですと名乗った人もいた。要約すれば「これで生活を立てたい」ということだった。好きな仕事をして身を立てたい、当然のことであると私は思った。この人たちのために力になるにはどうしたらよいのだろうか。
帰りの新幹線で真剣に考えていた。
ところが、帰宅したその日の夜、なぜか胸が膨らんでくる感じがした。
大胸筋が膨らんでくる。息子に車で手術した総合病院へ連れて行ってもらうよう頼んだ。到着した病院の夜間受付前で息子に「気が遠くなる、早く、後を頼む」といったような気がして気を失った。それから5日間集中治療室に入ったのだが、目が覚めた時手術を担当した医師にどうして救急車に乗ってこなかったんだと家族が注意されたという。
私はこの5日間、催眠状態の中、夢を見ているような状況の経験をした。これが世にいう臨死体験というものかもしれない。
内容をしっかりと覚えているので、後でその事について妻に話し現実と向き合ってみたのだが、私の覚えている事柄はすべて打ち消されてしまった。色々多くの夢を見たのだ。機会があったらお話ししたいと思う。
その後、肺から空気が漏れていたことがわかり安静にしてくっつくのを待ち、2週間程して退院した。
以上が前回この同じ総合病院に入院した顛末である。
話を戻して部屋の話をしよう。四人部屋といっても広く感じる。ベッドに横たわりながら天井を見つめると、私のいる一角で四畳半はありそうである。窓際には空間があるし寝るだけなら十分である。
自宅のベッドル―ムは四畳である。私の二階の工房を二つに区切ってもらい寝るだけの部屋を息子に作ってもらった。息子は大工なんです。感謝しております。つまり、いつも寝ているところより広いのである。
部屋は、お話しいただいた通り静かな部屋へと車いすで移動をし案内された。二名が入居していた。私で三人目であり窓側のベットだった。外を見ながら退院したら逆方向からこの窓を見てやろう。と考えながらベットに入った。
血液をサラサラにする点滴は14日月曜日で終了した。
その後は毎朝の投薬である。その一日前の13日日曜日私は急激な下痢に襲われた。暑かったので冷蔵庫で冷やしたジュ-スを飲みすぎたらしい。下剤も影響したのかもしれない。
トイレに行くには看護師さんを呼ばねばならない。車いす移動である。
この日私は8回も通ったのだ。お腹の痛みもあり便秘も苦しいがこれも制御ができないからつらい。
翌日月曜日またトイレが呼んでいる。今日は5回だ。なんか体の力が抜けていくような気がする。看護師さん申し訳ありません。
15日(火)一階リハビリセンタ-で言語療法(ST)理学療法(PT)そして作業療法(OT)を40分づつ行った。要は口と足と手のリハビリである。
足の歩行練習時、力を入れたのでトイレに二回籠城した。カギはかけられないので二度ほど「アッごめんなさい!」と扉をあけられてしまった。わたしは答える気力もなかった。
リハビリも終わり病室に帰って靴を脱ぎベットに横たわった。疲れと下痢で脱力感が一気に襲ってきた。しばらくして、「あっ!トイレが呼んでいる」サッと起き上がり我に返ってナ-スボタンを押した。シマッタ!靴を履いてない、右足がきかないので靴を履くのに時間がかかる。そうこうしていると看護師がやってきた。この時ばかりは早かった。「どうしました」と言われ私は「トイレお願いします」とは言ったものの靴が履けない。トイレへは早く行きたいし、靴を履かねばと焦った。その時だ、看護師の憎い一言。「今リハビリへ行ったんでしょ、なぜ靴を脱いだの!」今の私の状況もしらず、くそ~呪ってやる!
今回の入院で感じたことだが看護師の分担作業は非常に効率的でいいと思うのだが、交代時のこちらの状況の連絡が余り緊密に取れてなかったような気がする。一、二回だと思うが、特に夜勤明けの引継ぎ時にあったような気がする。夜間は一人で10名以上の患者を抱えているそうだから大変なんだ、しょうがないか。ほとんどが気の付く素敵なマスク美人の看護師さん達であった。
あッそういえば、一人だけとても気の付く看護師がいた。気が付くというより一言えば十の言葉が返ってくるような面倒見のよい人だ。私より当然若いのだが、ふくよかなまるでお母さんのような方だった。ありがたかったが、一つだけ苦痛なことがあった。
私が車いすに移動するとき私のパジャマの後を強く引っ張り上げるので食い込んで吊り上げられているような気がした。病床中と言えども、まだ70kg近くはあるこの体重であったと思うのだが、それにもうこの頃は、ゆっくりだが自分で車いすに乗れるようになっていたので、子供扱いされ何とも言えぬ気持だった。ま-いずれにしましても大変感謝しております。
ここでリハビリのお話をしよう。
点滴が終了してから毎朝目覚めるたびに手足の動きに良い自覚症状がでてきた。
右手の指、腕の動き足の上げ下げ芋虫を脱した感があった。医師の回診で「うむ、良くなっているね」との言葉を聞いた。
私は、「よし、約束通り二週間で出るぞ」と固く心に誓いベッド上でもリハビリに励んだ。
私の仕事は甲冑師、興味ある人に制作方法を伝えたり、沿革をお話したり、特に室町末期から江戸初期の甲冑の制作・知識はかかせない。講演もあるのだ。
つまり、言語は大切なのである。言語療法、まずこちらから話してみよう。
15日(火)午前9時40分言語のリハビリである。まず世間話から始まった。
「よく眠れてますか?体調はいかがですか?」との質問に、入院中会話らしきことをしていないことや、朝が少し早いせいか、思うように言葉が出てこない。焦った。そんな私を見ながら、どうリハビリを進めていったらよいか様子を見て検討しているみたいだった。
まず最初に口を大きく開けることからはじまった。大きく開き早くすぼめる10回を1セットで3回繰り返す。次に口を大きく開いて舌の出し入れを10回、3セット、舌を左右に唇の端につける10回、同じく3セット、又左から舌を大きく回す運動10回、そしてその反対、ほっぺたを膨らませ逆にへっこます運動10回など、舌と唇と顎の開きの運動である。
鏡を見ての訓練だが「右側の口元が少し下がってますね。」と療法士から指摘を受けた。そして、これを是正するとのことである。
次に発音の訓練、無意味単語を続けて三回発する。たとえば「さ行+さ行」で「さささ」「さしさ」「さすさ」「させさ」「さそさ」と一行を3回ずつ早くいう。口の開き、舌の回転などいままで気にも留めていなかったし、考えたこともなかったが、すごい舌の変化で言葉を発しているんだなと思った。人間はすごい細胞・部位の仕組みを持っているのだな~としみじみ感心し驚いた。
特に「さ行」「ら行」などは私にとって言いにくい部類である。
この発音の訓練をした後、一般に知られている早口言葉の練習を行う。
これで40分になる。退院してきて一週間、この練習のありがたみを今、とても感じている。
次は足のリハビリである。最初に右足膝を固定するサポ-トをつけた。足の歩行を補助するためである。そして平行棒につかまり一歩、一歩と前に進む。
腕に力を入れて右足を出す。次に左足、ゆっくりゆっくり交互に足を出していく。右足の太ももに力が入るよう意識して進む。そして今度は大きく足を出す。立ち止まって向きを変え何度も歩行訓練を行う。
これが一定歩数終わると、サポ-タをはずして横歩き等の又歩行訓練を行う。
力が入らないため他の部位、特に腰に負担がかかり、かなり体力を消耗した。
その他、丸い円盤のようなものに乗り左右均等に力をかけ、前に傾けたり横や後ろに傾けたり体のバランスをとる練習を行う。むずかしい運動である。
その工程が終わると、次の日歩行器を使ってトレニングル―ムをゆっくり歩く。又杖を使っての歩行訓練をおこない、そして階段の上り下りへと進む。次は、いよいよ筋力トイレ-ニングである。マシ-ンに30kgの重量の負荷をかけ両足で強く押し出す。そしてゆっくりと戻す。これを5分間おこなう。次に右足で少し重量を落とし5分間、更に今度は負荷を戻して左足である。これが終わると次のメニュ-は自転車である。
最初、負荷を30のメモリに合わせて5分間、その次の負荷を40にして7分間、更に負荷を50にして8分間。単位はW(ワット)である。負荷50ということは一定速度で50Wの電力を起こすことができる力か?
右足に力を入れ回転させこれを繰り返す。
バランスと筋力を復元するにはとてもいい運動な気がした。右足に対して、程よい負担だったが、消費カロリ-はわずか30 kclを下回っていた。これらの運動を重ね数日後、杖なしで場内をバランスをとるようにゆっくりと歩いた。
そして、外へ出て軽い坂を上り下りして少しずつ自信をつけていった。
本日は退院して10目となるが、朝散歩を2㎞弱ぐらい45分ぐらいで歩いている。まだまだバランスは悪く、腰に負担がかかっている。
右足の太もも後ろの筋肉が衰えているようだ。今後自宅ポ-チの段差を利用して上り下りのトレ―ニンぐを行っていくつもりだ。
最後は上腕、右手右指のリハビリである。
最初、右手の指を親指から順に折っていく運動を指導されたが、中指の番になると何故か薬指がくっついてくる。そして小指もだ。指先の機能と握力がかなり弱っていることが感じられた。握力計を貸してもらい計ってみることにした。まず左から計ったら38㎏、まずまずである。今度は右「あっ!出ない」ゼロである。もう一度握りの間隔をかえて計ってみた。今度はなんと5という数字が出た。5㎏である。握力が完全に衰えている。最初に指導を受けたのは、二重にしたゴムの管を数本ずつ掴んで握力の感覚を取り戻すための5分間のトレ-ニング、次に指先のトレ-ニングである。小さなネジを外したり、締めたり又、細い棒を穴から抜いたり差し込んだりして指先がうまく動かすことができるかの運動である。
又、私は肩甲骨の周りがしびれている旨お話したところ、肩甲骨あたりをマッサージしてくれ、そしてそれに合う機器へ案内してくれた。上に滑車を置き二本のロ―プをかけその先のグリップを左右の手で握り、互いに引っ張る合う運動である。左手で強く引くと右手の肩甲骨あたりが伸びていくような気がした。これも5分間だが少し延長してもらった。
次はパ-ワ-アップ、右手上腕の筋力トレ-ニングだ。
これも5分間、負荷を1,5㎏ぐらいかけて右手だけで斜め上にレ-ルに乗せて押し上げていくのだ。30回ぐらいすると少し疲れて来るので小休止し、そして又続ける。次の日、又機器を使って広背筋のパワ-アップ、筋肉を動かすよう意識してトレーニングをおこなった。
現在自宅においてダンベルを使って各部位の筋力アップを図っております。
すぐには取り戻せるとは思っておりませんが、リハビリの要領がわかってきましたので、「言語、右足、右手」の自宅療養を重ね回復させる所存でおります。
11月19日退院して10日が立ちました。入院16日間。
元の身体に戻るには、どれくらいの時間が必要なのかわからないが、地道に言語や筋力アップのトレ-ニングを行っていこうと考えております。
負荷を与え、疲れたら休み、少し仕事のことを忘れ、今冬は何事も無理せず過ごしていきたいと思っております。
退院後、自分のことばかりで夢中でしたが、今あるのも医師と看護師のすべておかげだと思っております。ここに改めて御礼と感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。