こんにちは

またしてもお久しぶりの投稿です



前回自己設定について書きました
目の前に見えるもの気になるものは
自分の自己設定を教えてくれている


例えば、この人
自己評価低いなー
勿体ないなあ、、
と感じる時

実は、自分の自己評価がまだまだ低かったことに気づけます!
気づいたら手放せる



そして、自分が手放すと
その度に世界は変わってる




そんな事を感じていました





昨日、又
深い深い気付きがありました
それを、どう、どこに表現して良いのか分からずにいました



で、ひっそりここに!爆笑



わたしにとって死は身近なもので
とても簡単なものでした


身近に生きる希望を無くし亡くなった方が何人か居たので
普通の人以上に死を隣に感じながら生きています


そして、死そのものを恐れると言うのではなく、生きる希望を無くすことがとても怖かったのです


生きる希望を無くして亡くなるとき
人は「生きたかった」と悲痛な叫びの中で亡くなります
それはどうしようもない程苦しい叫びでした

それを何度も感知してしまったわたしには
その叫びが恐れになっていました





そして、その自分の中の恐れに向き合うタイミングが来たようでした




それは、最初
思春期で受験生の息子の
勉強しない態度にどうして良いか分からない苛立ちやもどかしさ怒りとなって現れました



でも、それは紛れもなく私自身の問題なんだと気付きました



息子が受験生なのに勉強しない
高校に行けない
やるべきときに頑張れない
生きていけない
生きる希望を無くす



と、なった訳です



それは、わたしの中の頑張らなくては死ぬ
と言う自己設定を見せてくれていました



これは、結構根深い信念で
気づいてもなかなか手放せず
苦しかったです




で、昨日の朝
わたしの尊敬するコツ塾の野澤卓央さんのお話会に参加して

その中で


生も死も自分では選べない
自殺ですら、生きたいと思いながら死んでいる

その不自由と不自由の間で自由を求めるのが人間
そうすると、物理的な次元に自由は無い



精神性の中にこそ自由はある



との、お話を聞きました
それが私の中に衝撃を走らせました



わたしは今まで見る場所を間違えていた



その不自由を非言語下で猛烈に感じて足掻いていた

だけど、そこには、探していたものは無かったんだ




そう気付きました



まだまだ落とし込めてなくて
文章に上手くまとめられないけれど
糸口を見つけた様な気持ちです







読んで下さってありがとうハート