【 渋谷居酒屋物語 】 -2ページ目

【 渋谷居酒屋物語 】

渋谷の居酒屋の 物語


店に戻ると、きりちゃんが妙なことをいった。
えーすけ、たった今知らない人が来たわよ。なんでも女の人探してるんだって。こないだ夜遅くこの店で別れたきりなんだって。なんかキョロキョロ店の中見回してたけど、ついさっき帰っていった。背の高い従業員のかたいますか?って聞かれたから、いやちょっとわかりません、って答えといた。
なんかヤバくない?

少しヤバかった。彼はおそらく彼氏だろう。あんまり音信がないものだから、不安になったんだろう。自分から別れといて、後で気になる、最低のパターン。
いや他人のことはいえないな。ある意味オレも最低かな。

その日の営業も活況であった。とんぺい焼きがいくつも出た。一体いくつの卵を割ったことだろう。
それらの卵が卵子になり、細い管を通り抜けて卵巣に戻っていくような錯覚に、英介はとらわれた。

その日の英介は早番であった。えつこのことがずっと気になっていた。アパートのドアを開け、えつこの寝姿を見つけたとき、田舎の姉を思い出した。
着飾らない姿、熊本のなまり、素朴な情愛、一旦口に出したことを曲げない一徹。
ちゃぶ台の上にはまだあの同意書があった。英介はそこに、いつものような頼りない文字で名前を書いた。封筒に入った20万円を添えて。

翌日、英介が起きたとき、えつこはいなかった。

えーすけ君、ばかね。
えつこの走り書きがちゃぶ台の上にあった。

お店売れなくなるかな。
英介はつぶやいた。



翌日、英介が火だるま荘に向かおうと、アパートの前に停めた自転車にまたがったとき、えつこは帰ってきた。

帰ってきちゃった。
大丈夫っすか。寒くなかったですか?とにかく中にはいって暖まって下さい。んで、これ鍵、いつでもこの部屋、使ってください。オレ、仕事なんで、行っちゃいますけど。

えーすけ君、ありがと。

英介はひたむきに自転車をこいだ。
火だるま荘に着いて、タバコを一本吸った。それから英介は社長に電話した。

社長、おねがいがあるんですけど。なんだ?あのー、ちょっと言いにくいんですけど、おれー、彼女子供出来ちゃって、んでー、堕ろす金貸してもらえないでしょうか。はー?なにやってんだ?相手は?社内か?いや、社長の知らない人っす。そうか、そりゃすこしホッとした。ただでさえ人が足りないのに、そんなことになったら、大変だからな。んで、いくらいるんだ?10万ほど。いつまでに?今日あれば嬉しいっす。おまえなあ、ホントに計画性ないなあ。んでもわかった、振り込んどく、ちやんとしてやれよ、その子。
はい、ホントにすいません。ありがとございます。

社長、ごめんなさい、ホントにごめんなさい。

その日の仕込みは簡単に終わった。英介はバケットを、ひたすらに切った。肉を切り、サランラップで巻いた。キャベツを切り、ボールに浸した。流れるような作業を終え、英介は、駅前にある三井住友銀行に向かった。銀行のATMコーナーには15人程の人がならんでいた。ほどなく英介の番になった。まずは残高確認をする。

口座にはすでにお金が振り込まれていた。
20万円。
社長、けちじゃなかったんだ。



渋谷の鉄板焼居酒屋火だるま荘で店長を勤める英介は、桜舞い散る夜遅く、誕生日に男にふられた、えつこに出会う。帰る場所のなくなったえつこは、半ば無理やり英介のアパートにころがりこむ。えつこは、妊娠していた。英介は、堕ろす決心をしているえつこを、彼と話して産むよう説得するが、ままならない。そこで英介はせめて一晩だけでも身代わりの父親となり、胎児がいた証をえつこに刻もうとする。えつこは耐えきれずアパートをとびだした。



えつこの嗚咽と、えーすけの、えつこさん、と何度も叫ぶ声が、闇の中でこだました。行為は終わった。

英介は混乱した。
えつこさん、お腹のなかの子供、もしかしたら僕の子じゃないですか。そうですよ。オレの子ですよ。

そうね、そうだったらステキね。今日一日だけでも、この子の父親がえーすけ君だったらこの子は幸せね。今日一日、ほら、お父さんにバスケット教えてもらいなさい。お父さん、昔バスケット、すんごくうまかったのよ。今日一日だけよ。明日になったら貴方は、、、。

何いってんですか。明日もあさっても、これからもずっとオレの子ですよ。えつこさん。オレ頑張りますよ。もっと一生懸命働いて、社長に給料あげてもらって、子供が生まれたらもっと大きな家に引っ越して、そのうちいっぱしの社長になって、どんなことがあってもえつこさんとこの子、幸せにします。

何いってるの?自分のいってることわかってるの、えーすけ君、君の気持ちは、君の気持ちは、すんごく嬉しいけど、そんなことできるわけないじやない。この子は、子のお腹のなかの子は、貴方の子じゃないんだよ、やっぱり。

でも今日一日はオレの子でいいんですよね。今日一日はオレ、この子の父親なんすよね。
オレ、だったら、今日一日を一生にしてみせますよ。
英介は立ち上がった。部屋の片隅に飾ってあったバスケットボールを取り出した。いいかい、ボールはこうやって持つんだ。そうだ。いいぞ。なかなかやるじゃないか。次は、、、

やめて。

えつこは家を飛び出していった。




火だるま荘
第二章『永遠の今日一日』
終わります


出来ちゃったみたいなの。えつこはくりかえした。
彼の子。

えーすけ君、お願いがあるんだけど、この紙の、ここにサインしてくれない?
明日病院いって堕ろしてくるから。

えつこさん、それで泣いてたんですか。
僕、わかんないけど、やっぱ、彼氏に話したほうがいいんじゃないすか。
ありがとう。でもいいの。彼、いまそんなどころじゃないの。立ち上げた仕事がなかなかうまくいかなくって、ずっともがいてるの。コンピュータの仕事。一生懸命努力してるんだけど、お客さんも応援してくれるんだけど、従業員がいつかないの。彼、完璧主義者なのよね。回りの人が疲れちゃうの。北海道から8年前に出てきて、秋葉原のコンピュータの部品屋で勉強して、一から勉強して、やっと自分で会社起こして、さあ、ってりきんでたら、従業員にやめられちゃって。納期に間に合わせようと、突貫で仕上げたら、欠陥商品作っちゃって、お客さんに怒られて、お金もらえなくて、いまどん詰まり。かわいそうな奴なの。

へえ、そうなんすか。んでも、彼氏、幸せなひとだなあ。えつこさんみたいな優しいひとに思われているんだもん。いいじゃないですか、少しぐらい仕事がうまくいかなくったって。また頑張ればいいじゃないですか。僕なんて、もっとダメな奴ですよ。

その紙なんすか?子供堕ろす紙ですか?僕にその紙にサインする資格ありませんよ。僕、いまから送って行きますよ。えつこさん、はやいほうがいい。彼氏と話して下さい。んで、出来れば、おなかのなかの子、産んでやってください。えつこさんの子だもの、絶対優しくてかわいい子、うまれます。

ごめん、やっぱ、それはできない。もう少しここにいさせて。えーすけ君の近くで泣かせて。

泣き声は震え、やがて嗚咽に変わった。えつこはにじりよった。えーすけはありったけの力で彼女を抱き締めた。



どうしたんですか?また何かあったんすか?
なんにもないよ。なんにもない。ただ一人でビール飲むの、淋しいなって。んで、君、じゃなかった、えーすけ君だよね、えーすけ君早く帰ってこないかなって思ってたら、ホントに帰ってきたからびっくり。なんか泣けちゃった。ははは。いや、嬉しいのはこっちっす。おねえさんがうちに泊まり初めてから、お店の売上がうなぎ登りなんすよ。これはきっとおねえさんのお恵みだと、僕、感謝してるんです。おねえさん、いや、えつこさん、ありがとございます。部屋の中もこんなに綺麗に片付いて。僕のようなダメな男のパンツまで洗ってくれて。
僕ができることあったら、何でも言ってください。僕、頑張ります。

じゃあ、一緒に飲んで。それでいっぱいしゃべって。田舎のことや、彼女のこと、お店のこと、なんでもいい。
英介は、冷蔵庫からビールを取り出した。かんぱーい。二人だけの深夜の酒宴がはじまった。
僕、バスケットボール部だったんです。高校時代。キャプテンで、インターハイ出たんですよ。
でもそれだけ、あとはなんにもないっす。あの店で店長やってます。いいスタッフとお客さんばっかり。いつか自分の店が出せたらいいなって。それよかえつこさんの話聞きたいな。オレの話はつまんないから。

えつこは、ビールをぐっと飲み干した。
もう一本取ってくれる?
英介は立ち上がった。
その背中越しから、えつこの言葉がとんできた。

私、妊娠しているの。



えーすけ、ここんところなんか楽しそうね。いいことあったの? お店はここ一週間、すんごく繁盛してる。今日本部から連絡有ったわよ。凄い売上になってるけど、何かあったのか、近くでお祭りでも急に始まったのか、だって。社長も喜んでるみたい。
そうっすか、ようし、じゃあ給料アップ、おねがいしてみっかなあ。でもあの社長けちだからなあ。
ははは、んなことより、えーすけ、あのときのおねえさんとつきあってるんじゃない? 拓也がいってた。あの日からえーすけは、店に残って飲まなくなったって。店長、一杯どうですか?お疲れです、っとすすめても、にたっと笑って、何にも言わずに、帰っちゃうんだって。ちょっと気持ち悪いって。だからきっとあのおねえさんとどうにかなっちゃったんですよ、だって。どうなの?えーすけ。やっちゃったの?
きりちゃんが茶化す。

はい、やっちゃいました、と言いたいところなんですが、んで、いままでのオレならナキニシッシモアラズなんですが、、、それがどうもおかしいんですよ。
彼女、リアルにうちにいついちゃって、毎日家に帰ったら彼女が寝てるんですよ。どうやらオレんちから仕事行ってるみたいで。家のなか綺麗に掃除してくれて、洗濯なんかもしてくれて、夜食も作りおきしてくれてます。昨日なんか、花が飾ってあったんすよ。オレの人生で部屋に花が飾ってあったの、初めて観ました。感動しました。彼女、彼氏にふられたんすよ、それも彼女の誕生日の日に。なのに、こんなオレのためにいろんなことしてくれて、これで彼女を食べちゃったら、オレ、野獣ですよ、罰当たりですよ。
あれ、おっかしいな、野獣じゃなかったの、えーすけは。昔はそうでした、今は違います。

その日の営業を終え、清々しい気分で英介は自分のアパートドアを開けた。
えつこがちゃぶ台の前に一人座り、ビールを飲んでいた。お帰りなさい。
ただいま。英介は少し照れ臭かった。えつこは微笑んだ。その時、えつこの瞳から、涙が頬を流れ落ちるのを、英介は、見逃さなかった。



事態をのみ込むには、目の前にあるベッドの脹らみを注視するしかなかった。脹らみのなかから、昨日聞いた微かな寝息を感じ取ったとき、英介は、いま起こっている現実を、なんとか受け入れていた。
英介は、昨日と同じように、畳の上に横になった。オレはどうしたらいい?
掃除してくれてありがとうげざいました。凄く嬉しいです。目が覚めたら、僕を起こさないで、そのまま帰ってください。ありがとう。えーすけ。
手紙の上に手紙を重ねて、英介はもう一度横になった。

翌日、英介が起きたとき、彼女はいなかった。少しばかりの安堵と、かなり大きな喪失感が彼を襲った。
んだよな、でもありがとう。いっぱいいいことあったもの。えっちゃんの幸せ、ホントに祈ってる。
さてしかし、その日の営業も、奇跡的に忙しかった。その日は更にワインが出た。36本なくなった。英介は今日もえっちゃんに感謝し、えっちゃんの幸せを祈った。

昨日と同じように、英介は家路を急いだ。まさかはないとおもうけど。鍵はかけなかったんだけど、一応。
昨日と同じようにドアを開け、昨日と同じ掃除の行き届いた部屋を眺める。
と、ちゃぶ台の上の手紙だけが昨日と逆さまになっていた。

洗濯しといたから。パンツ3枚捨てちゃった。臭かったから。おやすみ。えつこ。
まさかはあるもんだ。



火だるま荘のその日の営業は多忙を極めた。普段の日なら1日一枚でるか出ないかのリブロースステーキが、その日は18枚もでた。エビスの生樽が3本、ワインが33本、なくなった。店長、今日はおかしいっすねえ。金曜日でもあるまいし、どうなってんですかね。オレもわかんね。きりちゃん、売上点検してみて。はいよ。うぇー、40万越えてるよう。
英介は昨日のお姉さんに感謝した。えっちゃんて言ってたな。あの人。ありがとうございます。おねえさん。おねえさんのお陰でこんなにいっぱいお客さん来てくれました。おれなんもしなかったっすよ。ちょっと親切でしたよ、おれ。おねえさん。さっそく恩返ししていただいて。今日1日だけでもこんなに売れて。感謝です。おねえさんにもいいことがありますように。オレ、祈ってます。

客がすべて引いたのは、深夜2時すぎだった。えーすけ、今日は後やっとくから、先あがって。昨日大変だったんでしょ。 サンキュ。お言葉に甘えて、昨日ねてないんだ。そうだよ、はやくかえんなよ。
きりちゃん、いっつもやさしい。ありがと。飲んだら怖いけど。
英介は着替えを済ませ外にでた。昨日置き去りにした自転車に乗って、東北沢を目指す。
おねえさん、どうしたかな、ちゃんと帰れたかな。

ドアを開けた。部屋のなかにはゴミ一つなかった。
ちゃぶ台の上に、手紙が、あった。
おさき寝てます、えつこ



ちょっと待っててください。直ぐに片付けますから。んと、おねえさんはそっちのベッドでねてください。僕はこっちでよこになりますから。明日、と言うか今日も昼から仕込みあるんで仮眠とったら出掛けるんで。お姉さんはゆっくり休んでください。
大丈夫です、ぼく、何にもしませんから。ぼく、結構真面目なんで。へへ。
こっちで一緒に寝ようよ。そんな畳の上じゃ寒いよ。一緒にくっついて寝ようよ。遠慮しなくっていいのよ。
いいっすよ。僕、汗臭いし、まだ風呂入ってないし、このままここでよこになりますから。おねえさんも今日はなにも考えず寝ちゃってください。
嫌だ、一緒に寝よう、私、嫌だ。
だめです、さあ早く横になって。英介は彼女の体を抱き抱えるようにしてベッドに横たわらせた。微かに残る香水の香りが、英介を刺激した。ヤバい。
英介の肩を彼女の腕がしっかりと包んでいる。英介は流されそうになる意識を振り絞った。
ダメダメ、だめですよ。しっかりして。早く寝ちゃってください。今日のことはもう忘れて、何も考えないで。何時まで寝てても構いませんから。起きたら適当に風呂使ってください。タオルあったっけ? んで、適当に帰ってください。カギ閉めなくっていいっすから。どうせとられる物なんかないし。こんな部屋まであがってくれて、おねえさん、ありがとうございました。
お姉さんから、微かな寝息の音が聞こえ始めた。