1560年5月12日
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出発進行~!ー 久野元宗さん今川義元さん駿府にいます。
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織田信長は買ったばかりのMacBook Proを立ち上げて今川家重臣達のFacebookを眺めていた。隣には妻の濃姫。「殿、いいのですか?今川は攻めてきますよ?」。信長はふっと笑って濃姫に答えた。『ほっておけ。いいね!を押しておけば良い。』。『でも!殿!相手は大軍なのですよ!そんな呑気にいいね!なんて押して・・・もっと自分の事を大事に思って下さいよ!殿!』

信長は濃姫の声を背中に聞きながら部屋を出て行った。

1560年5月18日
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出陣なう。尾張の織田を攻めるらしい。とりあえず丸根砦、鷲津砦を落とすつもり。ー 松平元康さん丸根砦に向かっています。
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信長は松平元康(徳川家康)の出陣情報を見て呟いた。『家康め・・・わざとらしいのう。ワシに貸しを作るつもりか。皆のもの!出陣じゃ!』信長は松平元康の投稿を見て熱田神宮に向かった。『殿!松平元康殿の投稿にいいね!は押さないのですか!?』真面目な濃姫の問いかけに『捨てておけ!それはワシへのラブコールよ。自分が今川義元のそばにいない事をワシに伝えたのよ!そこにいいね!を押せば今川の誰かがワシが今川の兵力が分断されていると気づいたと構えてしまうであろう!それに元康の投稿はいつもつまらぬ!いいね!をする気も起きぬわ!米1俵を節約したとか、見ていて心に毒を盛られたような気持ちになる!』と馬にまたがりながら答えて清洲城の外へと駆け出した。

『伝わったようじゃのう・・・』

自分のFacebookにいいね!が1つも押されないのを見て、松平元康はそう呟いた。『は?殿?いかがいたしました?』家臣の本多正信が元康に尋ねた。

『ほれ見てみい。信長殿は今川家臣の投稿に毎回いいね!を押しておられる。これは今川軍が迫っている事に気がつかずに能天気っぷりを発揮しているように見せるためぞ。さすが尾張のうつけと言われるだけあると思わせるはったりぞ。その証拠にほれ、ワシの投稿にはいいね!が無い。ワシは信長公にわざと自分の行き先を伝えた。かしこい信長公はワシの意図に気づき、あえていいね!を押さずにまだ見ていないふりをした。これによって信長公は今川軍が2つにわかれていると知り、好機!と思って動き始めている事であろう。』

本多正信は返事をしようとして言葉を飲み込んだ。
(それって単に殿の投稿がつまらないからでは・・・その証拠に友達ゼロだし・・・)

1560年5月18日13時
今川義元のいる桶狭間は豪雨に見舞われた。義元は仕方なく桶狭間で休息を取っていた。一方の信長は熱田神宮で今川義元の居場所を探していた。

『最近の神社には無線LANがついておるのか。便利じゃのう。』

その頃、別の部屋では家老の柴田勝家が大声で部下を怒鳴りつけていた。『まだ今川の本陣の場所はつかめぬのか!なーにをやってるのじゃ!まったく!』ひたすら謝り続ける伝令。織田陣中では今川本陣の場所がつかめずに攻める場所を見失って苛立っていたのであった。

『殿はどうしたのじゃ!こんな大事な会議をすっぽかして!!またインターネットとやらか!フェイスパックがついたー!とかいつも言っておられるが、本当に信長公で織田家は大丈夫なのか!!』

丹羽長秀が勝家をなだめた。『勝家。FacebookとTwitterぞ。フェイスパックがついたー!ではないぞ。』

『黙れ長秀!このインテリやろう!男は書状じゃ!書状!』

柴田勝家が怒鳴る頃、信長は隣の部屋でFacebookひたすら凝視していた。

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勝家殿、激おこり中。丹羽殿おいさめ中。ー 森蘭丸さんは丹羽長秀さんと清洲城にいます。』
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『やるのう。長秀に蘭丸。これでは敵は我々主力が清洲にまだおると思っておる事であろう。これは情報戦ぞ。気が緩んだ今川の武将の誰かが必ずこの豪雨をFacebookのネタにしたがる。皆の衆、その時がチャンスぞ!気を引き締めよ!』

そして1560年5月19日13時30分、時は動いた。

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豪雨すごっ!視界が悪くて全く見えない。ー 久野元宗さん今川義元さん桶狭間にいます。
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投稿された瞬間、信長はMacBook Proをとじた。

『みなのものついて参れ!』『殿!どちらへ!?』『ついてくればわかるわ!』

信長は馬にまたがり走りはじめた。

桶狭間では今川義元の本陣が豪雨で動けない状態に陥っていた。

『雨じゃのう。。。こんな時に織田が攻めて来たら嫌じゃのう』

『殿!ご案じ召されるな!織田はまだ清洲におりますぞ!拙者、丹羽殿とはFacebook友達の仲、10分前の投稿によりますと、丹羽殿は今、清洲で柴田勝家をおいさめしている様子!』

『それなら安心じゃのう。それに余がここにいるのは信長もわからぬしのう。では今暫くのんびりするか。』今川義元は森蘭丸らのFacebookの罠にはまっていた上、久野元宗のFacebookで信長が義元の居場所を把握している事を気がついていなかった。


1560年5月19日15時00分

今川本陣に悲鳴に近い叫び声が響き渡った。
『敵襲!!織田信長の敵襲!』

織田信長は今川義元の本陣を的確に見極めて攻め込んだ。

『何故じゃ!何故余の場所がわかるのじゃ!』義元はうろたえた。『うぬぬ・・・裏切りものがいたか!なんてことだ!』場所をもらした張本人である久野元宗はまだ気がついていない。

今川義元は日本中に知られし名将。刀を持って織田の兵隊相手に奮戦する。織田軍の服部一忠が手柄をあげるべく今川義元に切り掛かるが返り討ちにあう。

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殿、服部一忠討ち取ったり!ー 久野元宗さん今川義元さん服部一忠さん桶狭間にいます。
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スマートフォンでその様子を知った毛利良勝はすぐさま位置情報サービスで場所を確認して義元の元にたどり着いた。

『元宗!何故じゃ!何故こんなに早く敵が余を探し出すのじゃ!』今川義元が囲まれつつある中で叫ぶ。

『わかりませぬ!しかし織田の策敵能力がこれほどまでとは!!ぐあああ!無念!!』久野元宗は今川義元をかばいながら奮戦をしていたが遂に討ち取られた。

今川義元も刀折れ矢尽き、毛利良勝に組伏されてしまう。『何故じゃあー!何故わかったのじゃー』叫ぶ義元。それを見た毛利良勝は言葉を1つ1つ選んで答えた。

『今川殿、拙者のようなものがお答えするのもいかがなものかとは存じますが、御首を頂戴する前に全ての事を教えましょう。我らは久野元宗殿のタイムラインを常に見ておりました。久野殿が貴殿と桶狭間にチェックインしたのを我々は見ていたのですよ。』


『なんてことじゃ・・・家臣のタイムラインを管理するのを忘れておったわ・・・まさかやつが全体に開示で投稿しておったとは・・・。もはやこれまで。毛利とやら、貴様に余の首をくれてやる。余の最後のチェックイン、しかと見届けよ』

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余は討ち取られけり!氏真よ、余の仇討ちを頼むぞ!ー 今川義元さん毛利良勝さん桶狭間にいます。
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今川義元討ち取った w ー 毛利良勝さん今川義元さん桶狭間にいます。
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後方にいてiPhoneでFacebookを眺めていた織田信長は満足げな表情で双方の投稿に『いいね!』を押し、松平元康に今川義元の投稿をシェアしてコメントをつけた。

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元康、同盟しない?ー 織田信長さん今川義元さんの投稿をシェアしました。

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おおおお!信長公おめでとうでござる!拙者も独立致す!ー 松平元康さん岡崎城に向かっています。
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こうして天下布武がはじまった。
光和年間(178年頃)、倭(当時の日本)を統治し始めた卑弥呼。
当時は狗奴国の戦いに明け暮れており、心落ち着かない日々を過ごしていた。
ある時、卑弥呼は参謀の難升米(なしめ)を呼んだ。

『難升米、そなたの名前は難しいのう。』
『そうでしょうか、私にはそうは思えませんが・・・』怪訝そうに応える難升米。

『そなたは自分の名前をタイピングする事はないだろう。しかし私はそなたとチャットするときは名前を毎回入力せねばならぬのじゃ。めんどくさくてのう・・・』と卑弥呼は続けた。

すると難升米は呆れながら『それならばチャットしなければいいでしょう。別にいつも会うのですからチャットせずとも会えば良いんです』と答える。

しかしそこは百戦錬磨、魏志倭人伝にも名前を連ねる卑弥呼だ。『会わずに交流できるから良いのではないか!会わずとも感情を表現できるのがチャットなのだぞ!うまくいけば魏王にあわずとも交流できるかもしれないし、金印もらえるかもしれないじゃないか。あー、なんか魏に行かずともいい印象を持たれる良い方法はないかのう。。。狗奴国も虎視眈々と我らの領地を狙っているし、あまり国をあけたくないのだ・・・』

嘆きまくる卑弥呼に見かねた難升米。1年の歳月をかけ徹夜の作業を繰り返して、インターネット上で交流できるツールを開発した。ボロボロになりながら卑弥呼の館に訪れる難升米。

『卑弥呼様、これはFacebookと言いまして、これで友達繋がりになれば相手の趣味、行動、感情を知る事ができ、そしてそれに好感を持てばいいね!を押す事で相手にこちらの好意を伝える事ができますぞ。』

卑弥呼は食いついた。

『これで魏王と友達になればいいのね!そしていいね!を押しまくれば金印!金印もらえるのね!よし、私はこれで友達を沢山増やすわ!!』


卑弥呼は早速Facebookページに登録をした。しかし当然ながら開発されたばかりのFacebook、使っている人がいるわけもなく友達ができるわけもない。しかし卑弥呼は諦めない。

『難升米、あなたが魏に行って魏王のアカウントを作って来なさい!』

こうして難升米は中国に渡り魏王に謁見する事になる。そして難升米は『三国志』魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(魏志倭人伝)中に卑弥呼の使いとして登場することになる。

魏王は難升米の来訪に大変喜び、金銀財宝を多く渡して卑弥呼に金印を授けて難升米を倭に戻した。アカウント作成についても魏王は快諾し、無事卑弥呼と友達繫がりとなった。

魏王『難升米来訪。金印を授けた。倭は朕のものである。-難升米さんと洛陽にいます。』

難升米『魏王謁見なう。金印ゲット!魏王超いい人!-魏王さんと洛陽にいます。』


その頃日本では・・・

『いいな!いいな!魏の宮廷すごくね??めっちゃ大きい!羨ましいな難升米!』

金印を授かった事などさておき、ただただ魏王と難升米のツーショット写真と宮廷の大きさに感激している卑弥呼がいた。卑弥呼はただひたすらいいね!を押しまくってコメントまで書いた。

『魏王さんこんにちは!卑弥呼です!友達登録ありがとうございました!金印楽しみです!!-にいます。

こうして卑弥呼は金印を無事受け取り歴史に名を残す事になった。
その後、倭に戻った難升米は道中の速報性がFacebookには足りないと感じ、Twitterを作って卑弥呼に納めた。こうして卑弥呼は電脳外交を用いて狗奴国との戦いを勝ち抜いていく事になる。

晩年の卑弥呼は1人の男以外とは会う事はなかったと伝わっているが、それはまさにFacebookに夢中になって引きこもっていたのではないかという説もあるが、卑弥呼が(本当は難升米)FacebookやTwitterを開発した事によりこの後の日本は大きく変わっていく事になる。

しかし歴史家にとってはそれ以上に、卑弥呼がチェックインした『都』の場所が気になっており、これを分析する事で邪馬台国の場所が解明できるのではないかと期待している。
はじめまして。この小説をナビゲートするイヨです。え?卑弥呼様の後継者の名前と同じですって?気のせいですよ!偶然です。偶然!

この小説は日本が昔からTwitterやFacebookを使っていたらどんな歴史になっただろう・・・というとんでもなく意味の無い小説です。多分本当につまらないと思います。でももしよければにやっとして見てあげてくれたら嬉しいです!

それではお楽しみ下さい!

イヨ