おじさんの腹立ち日記 <その102>   平成30年 5月20日(日)
 
アスリート・ファーストという欺瞞
 
◇ なぜボイコットしなかったのか
GWの間、どこへ出かけることもなくテレビは何も観るものが無かったので、しかたなく卓球の世界選手権団体戦を予選から決勝まで観るはめになった。男子団体はベスト4で敗退したが、女子団体は中国との決勝戦で敗れたが二位という立派な成績で大会を終えた。
この準決勝戦、日本チームの対戦相手はそれぞれ勝ち上がってきた韓国と北朝鮮の勝者になるはずだったが、突然準々決勝戦を戦わず南北統一チームを結成して準決勝に進出し日本チームと対戦するということが決定された、というニュースが準々決勝戦当日の朝に流れた。
先に行われた平昌冬季オリンピックでは、女子のアイスホッケーで南北朝鮮合同チームとして出場することになったのはまだ開幕前の決定だったが、今回の合同チームの決定は準決勝の前日という異常事態だった。
スポーツの原点は「公平性」である。選手が同じ位置から“ヨーイ・ドン”でスタートするから一位と二位が決まるのだ。だから選手たちは一位になることを目指して、競争相手に勝つことだけを目指して日々努力し研鑽する。準決勝戦に進出するために対戦するAというチームとBというチームが試合をすること
なく「談合」で「AB合同チーム」になって当然のように準決勝に臨む、その「AB合同チーム」と対戦する
チームにとってこんな不公平はあり得ない。あり得ないことなのだ。
我々は卓球をしに来たのであって政治をしに来たのではない、と何故言わなかったのだろうか。それより前に、大会のレギュレーションの変更を対戦相手の日本に諮ることなく勝手に決めたことには承服できない、と言ってなぜ大会をボイコットしなかったのだろうか。
しかし、現地にいる日本チームの役員にそれを問うのは酷かもしれない。
だが、日本のスポーツに係るテレビ新聞のマスコミがまったく沈黙したまま、というのはどうしても理解できない。本当にバカばっかり、のようだ。
 
◇ アスリート・ファーストという欺瞞
東京オリンピック・パラリンピックを契機にして、まるで“まくら言葉”のように、覚えたてのしゃれた言い回しの気分で「アスリート・ファースト」ということを言っている。東京オリンピックの開催が決定されたあたりから、つい数か月前の冬季オリンピック・パラリンピックでもさかんに言われ、使われた言葉だ。
卓球の世界選手権団体戦の試合は三ゲームマッチで行われ、準決勝戦は日本が統一コリアに三対〇で勝った。統一コリアは第一試合と第三試合は韓国人選手、第二試合は北朝鮮人選手だったので、韓国チームでは三人、北朝鮮チームでは四人が試合に出られなかった。
代表チームとして大会に参加したにもかかわらず、「政治」を優先させたがために韓国三人北朝鮮四人の選手の試合の機会を奪ってしまったことになる。
冬季オリンピックの女子アイスホッケーでも、そもそも北朝鮮に出場する資格がないにも関わらず合同チームが結成され、資格のない北朝鮮の選手を出場させるために韓国選手の出場の機会を奪ってしまったことがあった。アスリートの権利を奪っておいて、どうしてこれがアスリート・ファーストになるのだ。
 
日本が国際卓球連盟に対して、また国際卓球連盟が「合同チーム」を認めることを支持したIOCに対して「異議申し立て」が出来る立派な論理がある。
①スポーツの公平性が担保されていない。統一コリアは準々決勝戦を戦っていないのだから体力的に余力がある。また、試合に出る選手を日本は五人のなかから三人を選ぶが、統一コリアは10人の中から三人を選ぶことになる。このふたつの点で対戦する日本チームは明らかに不利益を被っている。
②アスリート・ファーストという理念が置き去りにされている。韓国、北朝鮮の選手の出場する機会が奪われている。③スポーツは政治に従属するものなのか。スポーツの場で政治的プロパガンダが許されるのか。
そう問えば、今回の決定は政治的であったと認めざるを得なくなるはずだ。スポーツの場に政治をもちこんではならない、と五輪憲章に明記されてある。
やむを得ない状況であるとして国際卓球連盟の決定に従うとしても、その決定に「瑕疵」のあることを認めさせることは、日本にとって「得点」になる。この無敵の「宝剣」がそこにあるにも関わらず、戦う前に敗けてしまった。いかにも、いかにも「日本的」で、そのことが何とも残念でならなかった。
 
◇ ルールを持つもの
世の中には二種類の人間たちがいる。ルールを作る者と、誰が作ったのかもわからないルールに黙って従うだけの者だ。もっと別な言い方もある。ルールを熟知している者とルールブックなど一度も読んだことのない者。あるいは、ルールはどうでも変えられると思っている者と、ルールは絶対に変えてはならないと信じている者。ほとんとの日本人の「ルール観」は、誰が作ったのかは問題ではなく、厳然としてある
「ルール」を遵守すべきものと信じている。ルールブックなど読む暇があったら練習せよ、試合では審判の判断が全てだ。それに従えばよい。ルールは選手や関係者が守るべき規則であり、むやみやたらに変えてはならないものだ、と信じている。信仰に近い強烈な思い込みだ。
だが、世界は、というか日本国以外のところではまったく別の概念で動いている。
ルールとは、勝つべきものが勝つようにできるもの、なのだ。今のやり方では勝てないのならルールを変えればよい、と思っている。そのことを知るべきだし理解すべきだ。
運動選手の練習というのは、次に何が起こるのか、それを予測することと、その対応を準備するために日々するものだ。野球選手でもサッカー選手でも、バスケットボールの選手でもバドミントンの選手でも、自分が動いた後相手はどう動くのか、その次のことを考えてプレーしている。試合の流れをシミュレーションしその対応策がトレーニングの動機となるものだ。
冬季オリンピックの「南北合同チーム」結成が頭の片隅にでもあれば、「南北準々決勝戦なしで合同チーム結成」は想定の範囲であったはずだ。準備があれば唯々諾々と連盟の決定に従うのではなく、もっと別な対応がとれたはずだ。「そんなこと、聞いてないよ」素朴なその一言こそが必要だったのだ。
日本卓球連盟の役員連中の脳みそはピンポン玉ほどの大きさでおまけに中も中空、と毒づいてやりたい気持ちになったが、実はほとんどの日本人も同じようなもの、と思ってその言葉を飲んでしまった。
アスリート・ファーストなんて、欺瞞だ。その言葉自体に酔っているだけで中身なんか何もない。
スポーツ、スポーツと言ったって、それは政治に「従属」するもの、「政治」の「ツマ」のようなもの、場を盛り上げる「色物」のようなもの、ということが今回のことでよくわかった。
今回の世界卓球の「南北準々決勝戦なし」で、何のコメントも発しなかった連中に「アスリート・ファースト」を言う資格はない。
「王様は裸だ」と、誰も言わないから、このおじさんがいってやる。