おじさんの腹立ち日記 <その94>   平成30年 3月25日(日)
 
荒井由実と松任谷由実
 
◇ 荒井由実のこと
219日の朝刊一面を使った「松任谷由実45周年記念ベストアルバム」~ユーミンからの恋のうた~の広告が掲載されていたのを見て、しばらくの間放心したような気持ちになった。ベストアルバム二部作完結編ということで、45CD三枚組の予約受付の広告と、全国アリーナツアー14会場29公演予定が掲載されていた。
アリーナツアーは、今年九月から盛岡、神戸、大坂、広島、宮城、静岡、北海道、来年三月日本武道館で六回、新潟・福井・福岡・横浜が予定されている、と書かれてあった。
私はベストアルバムを購入することも、ましてやアリーナツアーに出かけるつもりもないが、デビュー45という、その時間の流れを思ったのだ。45年ということにすぐに言葉も出なかった。
 
私は1973年のファーストアルバム「ひこうき雲」からのファンだったが、1976年に編曲家の松任谷正隆と結婚したときから少しだけだが気持ちが離れてしまった。ニュー・ミュージック界でこれからどれほど活躍していくのだろうかと思って見ていた才能豊かなシンガーソングライターが、まだ22歳の若さの彼女がアレンジャーである男と結婚したということにひどく落胆したことをよく覚えている。
シンガーソングライターにとって、アレンジャーは新曲の最初の聴者であり、最初の最大の批評者である。批評者を自分の亭主にしてどうするつもりだ、夫婦間のラブソングなんか聴いていられるか、それよりなによりも、女房が作った歌曲を、他のミュージシャンが作った歌曲と同じクオリティで編曲の仕事ができるのか、女房に対して曲と歌詞にダメ出しができるのか、リズムやメロディを変えたりするのはアレンジャーとして言うのか、夫として言うのか、そんなことを考えるともうだめだった。
どうして結婚なんかしようと思っただろうか、と気持ちはその方に向いた。世間知らずの若い女を騙したのだ、騙した方も悪いが、騙された方も、と自分自身を納得させたものだ。
どうしても結婚というのなら、マネージャーでもよい、テレビタレントでも俳優でも、スポーツ選手だってかまわないが、アレンジャーだけはダメだ、荒井由実の音楽を殺してしまう、それからずっと今に至るまで松任谷由実に熱狂することはなかった。一度離れた気持ちは変わらなかった。軽やかさ、爽やかさ、甘さ、そんなものが鼻に着く曲もあって、これはアレンジャーの責任だ、と思ったこともあった。
そんなことがあったので、私のなかでは「荒井由実」は今でも「荒井由実」のままだ。
なぜなら、彼女は「いちご白書をもう一度」を作詞作曲したからだ。
 
◇ 映画「いちご白書」を観たか
あなたは、映画「いちご白書」を観ましたか?
どこで、誰と観ましたか?
私は、昭和459月頃に、日比谷の映画街の一番奥、帝国ホテルの向かいにあった「みゆき座」で観た。
その頃つきあっていた女性と一緒に観て、それから、有楽町駅前の有楽町ビルディングの地下にあった「東亜」という喫茶店で観終わった映画の事をあれこれ話したことを鮮明に覚えている。
この映画は、1968年にコロンビア大学で実際に起こった学園紛争をもとに制作されたもので、「イージー・ライダー」や「俺たちに明日はない」などの、当時映画の世界のひとつのムーブメントであったアメリカン・ニューシネマに分類されている作品だ。
「いちご白書」は、コロンビア大学の学長が、学生たちが政治に口を挟むのはイチゴバフェとチョコレートバフェのどっちが好きかを議論するようなもので、何の意味もなさない、と言った言葉からきたものだ。
原題「ストロベリー・ステーッメンッ」を「いちご白書」という邦題にした配給会社の担当者のセンスは褒められても良い。原題のままだとしたら今でも記憶に残る、ということはなかったのではないか、と思ったりする。
主人公はごく平凡な大学生、いわゆるノンポリ学生で、当時学内で吹き荒れていたベトナム戦争に反対する学生運動には何も興味を持っていなかった。しかし、ふとしたきっかけで女性リーダーの学生と知り合い、彼女にひかれていき、そして、積極的に活動に参加するようになる。やがて大学側は実力行使を決定、警察官によって講堂に立てこもる学生たちは次々に暴力的に排除されて行く、そんなストーリイだ。
体育館の床に飛ばされたメガネ、学生たちを引っ張っていく警官の靴で踏みつけられて壊れるメガネ、そのシーンだけを今でも覚えている。
 
◇ 「いちご白書をもう一度」を聴いたことがあるか
「いちご白書をもう一度」は、荒井由実の作詞作曲の作品だ。1975年に<バンバン>に提供され、オリコンチャート1位を記録し、ミリオン・ヒットとなり、今でも歌われている。 
当時青山学院の学生と交際していて、青山学院から渋谷駅へ二人で歩いた思い出をイメージして作った、と荒井由実はどこかで語っていた。
                             
「いちご白書をもう一度(作詞・作曲 荒井由実)」
いつか君と行った映画がまた来る / 授業を抜け出して二人ででかけた
哀しい場面では涙ぐんでた / 素直な横顔が今も恋しい
雨に破れかけてた街角のポスターに / 過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
君も見るだろうか「いちご白書」を / 二人だけのメモリー どこかでも一度
 
僕は無精ひげと髪を伸ばして / 学生集会へも時々出かけた
就職が決まって髪を切ってきたとき / もう若くないさと 君に言い訳したね
君も見るだろうか「いちご白書」を / 二人だけのメモリー どこかでも一度
 
学園紛争からベトナム反戦活動に発展した学生運動は、東大安田講堂に立てこもる学生に向かって機動隊の放水というニュース映像がまるでエンディングマークのように、潮が引くように沈静化していった。一部の学生運動は分派しさらに先鋭化したグループは「過激派」となり、連合赤軍による総括のテロとあさま山荘事件を引き起こし、山荘の壁に鉄球が撃ち込まれる映像が「学生運動」を閉じるエンディング映像に
なった。神田で機動隊と正面から対決し、新宿では電車を止め一時は西口広場を占拠するほどに「過激」だった学生たちはまるで憑物が落ちたかのように、翌日から大学に戻り、四年生は就職活動に走り回った。
この曲の歌詞にあるように、ヘルメットを被りタオルで口を塞ぎゲバ棒を持って走り回っていた学生は、長く伸ばした髪をきれいに刈り込み、白いワイシャツにネクタイを締め、リクルートスーツ(当時はそんな言葉はなかったが)をピッと着こみ、昨日まで<全否定>していたはずの社会の中に溶け込んでいった。
この時代の学生運動をけん引した「団塊の世代」が、世界史に類を見ない高度経済成長の中核となり、今日の日本社会の基盤になる「鉄筋コンクリート」の役割を果たしたことだけは、何としても伝えておきたいと思う。
だから、いつでも「いちご白書をもう一度」に聴き入ってしまうのだ。
この曲は「時代の終焉」に対する鎮魂曲なのだ。
実によく出来たメロディであり、時代と言うものを切り取った詞になっている。街角でこのメロディが流れてきたら、足を止めて聞き耳をたててしまうほどに、その歌詞とメロディは自分の中にある記憶を呼び戻すスイッチになっている。聴き入る人は、それぞれがそれぞれの過ぎし日を思い、流れた時間に思いを馳せる。
あなたは今どうしているだろうか。子供や孫に囲まれた幸せな老後を送っているだろうか。
新聞の広告の一面を開いたきり、思い出は次々と浮かび上がっては消えて行った。
 
なんだか、ありきたりの、あまりにもよくある的な、ジジィの思い出話で、今更そんなにきれいに飾ってもしようがないじゃないか、そんなどこからか声が聞こえてくる気がする。
「分かっているよ、分かっているんだ」と言いながら、そんな自分に少しばかり腹が立った。