おじさんの腹立ち日記 <その2>   平成28年6月12日(日) 
 
デモについて考えた
 

 憲法違反にはならないのか

ヘイトスピーチ解消に向けた取り組みを国や地方自治体に求める法律が成立した最初の日曜日の5日、川崎市で予定されていたデモが中止になった。200人以上のヘイトスピーチに反対する「市民」が20人のデモ隊をとり囲んでしまったのだ。これではそもそもデモなんかできるわけがない。
この日は明らかに、デモを阻止する側が、デモ隊に対して「ヘイトスピーチ」を行っていた。
川崎市は「ヘイトスピーチを許さないかわさき市民ネットワーク」の要望を受けて市が管理する公園の使用を許可しなかった。
日本国憲法には「言論の自由」と「集会の自由」が保証されている。
憲法の遵守にはことのほか熱心な朝日新聞が、この「言論の自由」、「集会の自由」を侵害しようとしている川崎市の方針を放置していることがわからない。ヘイトスピーチなどする悪い奴らには憲法で保障される権利など一切認めない、問答無用、人殺しには人権など無い、ということなのか。それならそれで分からなくもないが、成立した「安保関連法案」に対して、未だに「反対」を社是としているではないか。
あっちの憲法違反にはあれやこれや尽きぬほど、口を極めて絶対反対という姿勢だが、こっちの憲法違反には知らぬ顔、という姿勢は「二重基準」というものではないのか。
川崎市の前例にならって、これからますます地方自治体の管理する公園での集会が開きづらくなっていくように思える。市民同士、お互いが相手側の手足を縛りあうようなこの「法」が成立されて喜んでいるのは、公園や施設を管理している地方自治体だけ、という“笑い話”になるのではないだろうか。
それにしても、20人のデモ隊を200人以上の「市民」が取り囲んだというのだ。20人の日本人を、大多数が韓国人朝鮮人、その彼らに使嗾された少数の日本人「市民」が取り囲んで威圧したのだ。
白昼、テレビや新聞のマスコミ取材の目の前で、日本人が日本国内で大人数の韓国人朝鮮人に取り囲まれ、威圧恫喝される、しかもそのことが新聞やテレビでニュースとして正確に報道されない、このことに何か恐ろしいものを感じないか。
それにしても、「在日」の特権はそのままに、何一つの議論もないままに、われら国民の「言論の自由」「集会の自由」は制限されようとしている。ひどく倒錯しているように思えてならない。
 

 デモで世の中が変わるというのか。

デモなんかしているより、みな自分の住んでいる街に帰り、少しでもまともな政治家を育てることに力を注いだほうが結果として自分の思いが実現するものだ。
デモで世の中は変わらない。それだけは断言する。
一人一人の日本国民には、世の中の制度、仕組み、すわなち「法」を変える確実な手法がある。それが選挙だ。日本は議会制民主主義の国だ。選挙で多数を占めた政党が選挙に掲げた政策を「法」として施行する。
自分の主張する「思い」を実現させたいと思うなら、少しでも真剣にそう思うところがあるのなら、デモなんかしているより、自分の選挙区内で活動すべきだ。自分が議会を目指しても良いし、誰か信用のおける人を推して議会を目指させても良い。そういう活動を取るべきだと思う。
職場で政治や選挙の話をして浮いてしまうのは恐い、具体的な選挙活動は「政治的な人間」と見られたくないからイヤだ、しかし、みんなで国会の前に集まったり都内をデモするのは、「反対を行動で示した」という自分を納得させるものがあり、有意義な行動をしたという満足感のようなものがあるのだろうか。
デモは今はやりの<お祭り>、ではないのだ。
 
◇ 昔、安保反対デモ、というのがあった。
60年の安保条約の時の国会前デモのことを思い出した。
社会党や共産党が「安保反対」をバカのひとつ覚えのように叫び、赤色新聞社に煽り立てられた労働組合員や、左翼活動家に煽られたような学生たちが「アメリカの戦争に巻き込まれる」と反対したデモ隊が国会周辺を取り巻いた。一瞬ではあるが、「革命前夜」はあったのだ。
しかし、歴史はどうだったのか。日本はアメリカの戦争に巻き込まれたのか。そのことを反省した奴はいない。学者、ジャーナリスト、マスコミ、煽り立てた宣伝文句は“嘘”だった、と誰一人として言っていない。
国会はデモ隊で一杯になったが、それでも後楽園球場は満員でみんな野球に夢中ではないか、といった岸信介首相の見解は実に正かったのだ。
だが、「安保条約」で日本は変わったのか、変わったのだ。
まさしくあの時から日本の高度経済成長が始まったのだ。このことは断言して置く。
国会周辺を取り巻いた学生たちは季節が変わると、まるで憑き物が落ちたかのように、昨日までの事はさっぱりと忘れて大学を卒業して大企業に就職し、高度経済成長の中核の戦士になっていったのだ。
 
デモで世の中は変わらない。それを歴史に学ぶべきだ。
しかし、世の中の仕組みは変えることができる。選挙によって「政権」そのものを変えることができるのだ。
迂遠と思うかもしれないが、迂遠であるがゆえに民主主義なのだ、ということを、今改めて大きな声で言いたい。