端午の節句、鯉のぼり
◇ 鯉のぼりが揚がってなかった
春の日差しに誘われるような気分で散歩に出た。薫風というのはこの季節に吹く風のことを言うのだろう、風邪に色と香りがついているように感じられる。田起こしの終わった水田には水が張られその中に鷺が一羽二羽、もう来週には田植えが始まりそうだ。空の上の方で雲雀の声がする。それで去年の今頃もここを歩いたことを思い出した。土手に上がる手前に農家の大きな家がある。大きな門があって玄関の前がロータリーになっていて、そのロータリーには見事な枝ぶりの松の木と小さな池まであるという大きなお屋敷だ。このお屋敷の前の道は散歩のコースで、いつも立ち止まって池と松の佇まいを見ていたが今年は何とはなしの違和感があった。何だろうかと考えて鯉のぼりが揚がっていないことに気が付いた。毎年同じ頃にこのお屋敷の前を通っている。去年もロータリーに高い木の柱を建てそこに大きな鯉のぼりが風に泳いでいた。高い建物も電線もない広い五月の空に悠然と泳ぐ鯉のぼりが今年は揚がってなかった。ご当主が亡くなったのだろうか、いや、家内にご不幸があったとしても毎年鯉のぼりを揚げて成長を祝った息子さんとその家族がいるはずだ。息子さん家族がこの家を出て行ったということか、出て行ったとしても五月の節句には戻ってきて鯉のぼりを揚げ子供の日を祝うのではないか、想像はあれこれ広がっていった。そう見ればロータリーの奥にあるプレハブ造りの大きな駐車場の隅に軽トラックが一台ポツンとあるだけだった。去年の暮の頃にこのお屋敷の前を通ったときは乗用車や大型のワンボックスカーがあったことを思い出した。鯉のぼりどころかその柱も建っていないし、第一お屋敷に人の気配もなくひっそりとしていた。五月の晴れやかな風景のなかに明らかに何かが欠けていた。溢れるばかりの光の中で陰だけが大きく見えた。間違いなく何かあったのだろう。悲しいことでなければ良いがと思わずにはいられなかった。
◇ 端午の節句
5月5日は徳川幕府が定めた五節句、人日(じんじつ・正月7日)、上巳(じょうし・3月3日)、 端午(たんご・5月5日)、 七夕(しちせき・7月7日)、 重陽(ちょうよう・9月9日)のうちの端午の節句だ。
また、5月5日は「国民の祝日」になっている。1948年(昭和23年)制定の「国民の祝日に関する法律」によりこの日を「こどもの日」と定め国民の祝日になった。この法律は「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける」とし、この法律により「こどもの日」を、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日」である「国民の祝日」としている。子供の成長を祝うことだけではなく母に感謝する日でもある。
「端午の節句」は、もともとは農村の女姓の行事だったものが、平安時代に日本に伝わった支那の「端午」の行事と重なり混じり合ったものとも言われていて、5月の最初の「午の日」(=端午)に行われるものだった。春先の田植えなどの一年で最も重要な仕事を終えて、貴重な労働力でもあった母親や妻にひと時の休息という意味合いがあった。また、この日は菖蒲や蓬を屋根や軒に挿して邪気を払うという風習があったことから、武士の時代になって、「菖蒲」を「尚武」とかけて「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家に生まれた男児の成長と家門の繁栄を祝う節句となり、現代では男児の健やかな成長を願う「こどもの日」というように変遷して現在に至っている。
◇ 鯉のぼり
端午の節句に幟(のぼり)を揚げるのは江戸時代に武家で始まったもので、もともと武家には端午の節句に旗指物を飾る習慣があった。また、厄払いとして菖蒲を飾る風習があったことから、菖蒲は尚武、男児の健やかな成長を願い立身出世、武運長久を祈る年中行事の一つになっていった。
江戸時代中期になると人々の暮らしも豊かになり、商人が武家の風習を真似るようになった。裕福な商人が幟の代わりに支那の登龍門の故事から鯉を描いた布を掲げたところ、それが広まり次第に大型化して鯉のぼりになったとされている。また、武家の屋敷で端午の節句に飾った幟が風になびいているのを見た町人の子が同じものを欲しいと父親にねだるが、身分制度の手前町人が武家の真似する訳にはいかず困っているところ、長屋住まいのお侍が鯉の絵を描いて染物屋に染めさせそれを袋状の吹き流しにして鯉のぼりにしたという説もある。
鯉のぼりは江戸を含む関東の風習で上方(関西)にはなかったそうだ。天保9年(1838年)の「東都歳時記」という書物に「出世の魚といへる諺により鯉を幟に飾り付けるのは東都の風俗なりといへり」とある。鯉のぼりは「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し 口先ばかりで腹わたはなし」という、江戸の庶民の気風にあったものだったのだろう。
初期の鯉のぼりは真鯉(黒い鯉)だけだったが、やがて夫婦で対と緋鯉が現れ、さらに“これはお前だよ”とばかり、初節句の息子の青鯉が加わり、大きさと色の違う鯉が空を泳ぐようになっていった。
どうして真鯉に比べて緋鯉は小さいのか、どうして真鯉が上で緋鯉が下なのか、さらに性的自認の問題があるので青一色ではなくピンク色とかオレンジ色の鯉が欲しいなど、こんな社会の変化に合わせた鯉のぼりも出てくるかもしれない。 「恋(鯉)に上下はない」と言っても、この言葉の説明が必要になる。
一茶の句集で「鯉のぼり」を探したら、「江戸住や 二階の窓の 初のぼり」という句を見つけた。“江戸の町を歩いていたら、ある住まいの二階の窓に幟が掲げられていた。あの家の子供が初節句を迎えたんだなあ”という解釈が付いていた。建てた木柱の上で風になびく大きな鯉のぼりでなくても、二階の窓から出すほどの大きさでも良い、初節句の男児ここに在りと幟を揚げた意気を見た気分が伝わり、同時にどこまでも晴れ渡った皐月の空が目に浮かんでくる。
去年は揚がっていたのに今年はその気配もないお屋敷を見た後だったので、この句は心に沁みた