中国では中央集権度が強く、個人の権限保護の観点が薄いことから生体認証を規制する法整備が遅れているという実態もあるが、本人認証技術の社会活用および監視社会としての成熟度が高い。当然プライバシー、個人の尊厳の問題もあり法規制やテロ対策の観点とトレードオフの関係性が高いことは事実だが、先行し社会に浸透していることは事実であり、技術・運用面で見習う点も少なくない。

顔全体、目、声、手のひら、歩く姿まで――。中国で今、人間の身体の様々な部分を使って人物を特定する「生体認証」が急速に広がっている。店舗や地下鉄などでは「顔パス」で支払いができる場所が増え、新型コロナウイルスの感染拡大対策にも使われるなど普及が進む。中国の監視社会を助長するともいわれる生体認証。最前線を追った。
 「そこのタブレット画面に、あなたのおでこを近づけてください」。2月下旬、中国南部の中核都市、広東省広州市。バスに乗ろうとすると、運転手からいきなりそう告げられた。見ると、運転席横にはいつもは見慣れぬタブレット端末。運転手に言われるがまま、おでこを近づけると、内蔵温度センサーが感知し、1秒ほどで「36・6度」と自分の体温が表示された。運転手が平熱であることを確認し、私の乗車が許可された。
バス乗る前に検温
 中国の多くの地域では現在、新型コロナの感染拡大を防ぐため、バスの運転手がこうして乗車前に乗客の検温をしている。ただ検温のスピード化に役立つタブレット端末を使う例は「中国でも初」(バス運営の広州市公共交通集団)で、まだ珍しいという。
 実はタブレット端末を利用する理由はほかにもある。このバス会社では、検温と同時にタブレットで乗客一人ひとりの顔写真も撮影し、データベースとして保存している。もし、乗客の中に新型コロナの感染者がいたと後から判明した場合、同じバスに乗っていた人を割り出すために、一人ひとりの顔写真のデータを活用するのだという。あくまで他に流用しないとの立場だが、乗客は顔の撮影を嫌がればバスには乗れない。
 顔認証は、買い物の会計用レジカウンターでも大きく広がってきた。カウンターに設置されたタブレット端末に自分の顔を映すだけで決済が完了する。実際、コンビニエンスストア「セブンイレブン」では中国南部の約1000店舗で、顔認証で支払いができるようになった。スマートフォン決済が普及した中国だが、その一歩先を行き、財布はもちろんスマホも必要がないとあって、利用者に好評だ。
 「財布を持たずに飲み物を買えるからとても便利だわ」。広州市在住のある30代の女性会社員は、オフィスにある自動販売機を利用する際は、いつも顔認証で支払いを済ませるという。地下鉄の改札、電気代の支払い、さらにはコンサートの入場チケットの代わりなど、中国では今、さまざまな場面で顔認証を採用する例が続々と登場している。顔だけでなく、手のひらや目による認証も広がる。人工知能(AI)技術のスタートアップ、深蘭科技(ディープブルーテクノロジー)が開発した無人販売の新システムもその一つ。例えば、同システムを導入した無人コンビニでは、商品棚に設置されたモニターに自分の手のひらをかざすと、棚が開き、商品を取り出せるようになっている。
 客は、事前にスマホなどで利用登録をしておけばいいだけ。棚から取り出した商品は、別のカメラが撮影しており、商品の合計金額を計算し、スマホから自動で代金が引き落とされる仕組みだ。もちろんこうした店には会計レジのカウンターはない。中国大手銀行の中国建設銀行では、住宅ローンの契約時に専用ゴーグルを使って目の虹彩で本人確認する仕組みをとるなど、新技術の台頭が著しい。
 今や、歩く姿すらも認証の対象になってしまう。「50メートル離れても、個人の識別は可能です」――。スタートアップの銀河水滴科技(ワトリックス)は、監視カメラを使い、歩き方から人物を特定する新システムを開発した。鉱山や工場などで働く従業員の安全を遠隔から監視するためだ。
 ただ、生体認証の普及に伴い、中国当局による住民監視が強まる懸念もある。米商務省は昨年、生体認証などに絡む中国の28企業・団体を対象に米国との取引で制限を加えた。「(生体認証を)少数民族に対する人権侵害や監視に使っている」というのが理由だ。こうした海外の反応もあり今後、生体認証が中国でどこまで普及するのか世界も注目する。(広州=川上尚志)
 中国での生体認証の広がりは政府による後押しも大きい。中国政府は国家プロジェクトとして人工知能(AI)関連技術の開発と活用を掲げ、AIの応用先の一つが生体認証だからだ。補助金などの支援を受け、多くのスタートアップ企業が育ち、今後は東南アジアなどの新興国で、中国の生体認証関連技術の利用が広がる可能性もある。
 一方、欧米では個人情報保護の観点から顔認証などの生体認証に対する規制を強めている。欧州連合(EU)は2018年に施行した一般データ保護規則(GDPR)で、顔や指紋、静脈認証などのデータを特別な保護が必要な「生体データ」として取り扱いを厳しく制限した。米国でも19年にサンフランシスコ市などが公的機関による顔認証システムの利用を制限すると決めた。中国では個人情報を守る意識が欧米に比べると非常に弱く、生体認証を規制する法整備は遅れている。