8/6(日)ご法話
演題は「白骨の章(蓮如上人)」だった。
白骨の章の書き出しは、「それ人間の浮生なる相をつらつら観ずるに〜」
まずこの「人間の浮生の相」について詳しく教えていただいた。
親鸞聖人も蓮如上人も、「人間」と言われる時、それは「古今東西」の人間のことを指しているのだと教えていただいた。現在の人間のことだけではない。昔も今も、これから先も、また日本人も、中国人も、アメリカ人も、ヨーロッパの人も、共通して「変わらない」人間の姿を、親鸞聖人・蓮如上人は教えられたのだ。科学が進歩したからといっても変わらない人間の姿である。
「私たち」も当然、この中に入っている。
ではそれはどんな姿なのか?
蓮如上人が「浮生の相」と、教えてくださっている。
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「浮」とは浮いたものであるから、「浮生」とは、浮いたものを求め、その浮いたものにすがりついて生きる・生きていることである。これが古今東西変わらない人間の姿であると、蓮如上人は教えられたのだ。
「なぜ生きる〜蓮如上人と吉崎炎上〜」の映画の中で、蓮如上人は、「私たちは生まれると同時に、大海に投げ出される」と仰っている。
投げ出された私たちは、一生懸命泳ぐしかない。ところが、どこへ向かって泳ぐのか。海と空しか見えない大海原で、全く方角が立たないのである。
見えるものといったら、板切れや丸太ん棒だけ。これらは浮遊物だ。泳いでいたらやがて疲れるので、板切れに向かって、板切れを求めて私たちは泳ぐ。
板切れにすがって"やれやれ"とつかまった時は一安心するのだが・・・やがて波が来て、私たちはすがっていた板切れごと波にのまれて、引き剥がされて、潮水飲んで苦しまねばならない。
何かにすがらなければ生きてはいけないので、私たちは丸太や板切れを求めるのだが、やはて波が来て引き剥がされて、苦しむことになる。そして、これは丸太ん棒が小さかったからだ!と、もっと大きな丸太ん棒を求めて、泳いでいる。
泳いでいる、といのは「生きている」ということの例えである。私たちは毎日毎日、生きよう、生きようとしている。
考えてみれば私たちは、必ず死んでいかねばならぬのに、行のすべては、「少しでも長く生き延びよう」という行いなのだ。
古今東西の人間は、このことに一生懸命。1分でも長生きするにはどうすれば良いか、考えて生きている。
何を目的に泳ぐのか、生きるのかというと、「生き延びよう」として生きている。政治も科学もそう。
ところがそれは皆、浮いたものなのである。