題名と作者名だけで言えば、たぶん、知らない人はいないと思う程、著名な短歌集である。

でも、それを手に取って読んだ人となると、ずいぶんとその数は減るのではないだろうか。

新潮文庫の『みだれ髪』は本来の399首に加え、歌人の松平盟子が70首を抄出して訳と解説をつけ、同氏による評伝『「みだれ髪」 燦々』と小説家 田辺聖子のあとがき(他誌から再録)が収録され、与謝野晶子の略年譜までが同時に収められた、盛沢山な一冊である。

既知だとは思うのだが『みだれ髪』は与謝野晶子の処女歌集である。

1901年(明治34年)8月15日、東京新詩社と伊藤文友館の共版として発表された。
表紙装丁デザインは、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家 藤島武二。
明治の時代としては極めて斬新だったのだろう矢に射抜かれたハートの中に描かれた悩まし気な女性の横顔と個性的な書体で記された書名の表紙は、平成の時代からしてもモダンである。

ほぼ一人称の恋愛を率直な感情で詠んだ斬新な作風は当時賛否両論を巻き起こしたのだというが、賛の方は主に文人で、世間一般の反応は否が多数を占めていたのであろうことは想像に難くない。

書名の『みだれ髪』からして、時代的にはかなり刺激的だったのではないかと思う。

すなわち、当時の女性の髪形はその多くがきれいに整えられた日本髪。
鬢付油でかっちりと形を作り、箱枕で髪型が乱れぬように寝て、洗髪するのは月に1、2度。

その髪が乱れるとは、形も振りも構わずに一心不乱に何事かを成しているということ。
それは普段は見せない生の女を感じさせる言葉だったのではないだろうか? と勝手に想像、いや妄想する。

恋しい人を思って振り乱す髪であり、閏事で乱れた髪であり・・・・・・。
事ほど左様に、ついこの間まで江戸時代だった人々に対しては相当に官能的だったのではないだろうか。

『春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ』
『乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き』

この2首などは、まさに今でいうところの童貞殺しのような気がする。

しかしもちろん、与謝野晶子がそれを意図したわけでは一切ない。
彼女は後の夫となる与謝野鉄幹への思慕の念が強く鉄幹に対しての熱烈な恋心を詠んでいるに過ぎない。
すべてに訳が付いているわけではないし、文語体で書かれてはいるのですんなりと入ってこない歌もある。
しかし、とても判りやすく心の芯にグッと響く歌も多い。

『やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君』

これなどは、やはりその代表格だろう。
1998年(明治31年)晶子が20歳の時に初めて与謝野鉄幹の短歌に出会い、この短歌が鉄幹の創刊した月刊文芸誌『明星』に掲載されたのが1900年(明治33年)5月。
この時はまだ短歌の師でしかなかった与謝野鉄幹を見つめ、いつこの手に触れてくれるか、いつ目を見返してくれるか、いつ髪を撫でてくれるか、と思い描き悩みそれを歌にして告白するという大胆なことをしたのだ。
その時の感情を想うと、胸が締め付けられる。

時代が時代なので『情熱の歌人』などという形容詞がついたのだとは思うのだが、詩に気持ちを乗せるというのは、今の時代ではごく当たり前の自然なこと。

言うなれば、与謝野晶子は西野カナだったのだなぁ、と思ふ。

 

https://shimirubon.jp/reviews/1691263

緑の字の部分は2018年9月10日にブックレヴューサイト『シミルボン』に掲載したものです。

 

与謝野晶子の「みだれ髪」はほとんどの人の頭の中には公式として刻み込まれているのではないかと思うのに、実際に読んだことがある人はその内の何パーセントなのだろうか?

手許に興味から買ったものの、パラパラと数ページめくっただけで積まれていたのを思い出し、読んでみようと思ったのは曲がりなりにもブックレヴューを続けていたからだと思う。

 

結論から言って、読んでよかった。

 

難しいから、と避けている人が多いのではないかと思う。

そんな人が手に取るきっかけになればと思う。

 

難しい言い回しで分からない短歌があっても読み飛ばしても十分に気持ちは伝わってくるのだから