みなさんごきげんよう🌾

 

崇徳院ゆかりの地を逆打ちでめぐる香川県坂出(さかいで)の旅もいよいよ終盤です

 

五色台を下り西へ向かうと、さぬき浜街道(県道161号線)は隣り合う二つの小山の谷間を通ります

 

雌山(めやま)雄山(おやま)です

 

 

この谷間の手前の道路脇に

松山の津があります

 

 

、つまり昔の

 

 

この辺りは平安末期、海であり、雌山雄山は半島だったそうです

 

住宅地にひっそりと、

しかしオブジェなども飾られて、メモライズされています

海路が主要な交通手段であった当時、松山(愛媛ではない)は四国の玄関口として重要な地でした
 

 

 

崇徳院が到着された時、お住まいになる御所がまだ完成しておらず

 

院の監視を命じられた地元豪族、当時の国司 綾高遠(あやのたかとお)は

自身の屋敷を改造して仮御所とします

 

そこに綾高遠は娘、綾の局を世話係として住まわせました

 

お約束通り、崇徳院は綾の局と一男一女をもうけますが

男子誕生を喜び、ご落胤を認められたその子は後の綾氏を率いたとも、

天皇家の跡継ぎ争いの種とならぬよう、出生後すぐ殺されたとも伝わっています

 

 


争いで亡くなった人々の弔いのため写経に励むなど、深く仏教に帰依するようになりますが

 

当時崇徳院は38歳おとこ盛り

讃岐っ娘(さぬきっこ)とのロマンスもあったのですね~??!                 

 

しかし讃岐へは寵妃であった兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)とその女房たちを伴ってやって来ていたそうなので

嫉妬やいじめはなかったのか🤔

はたまた平安貴族はその点おおらかだったのか🤔

 

妄想がふくらみます🤔🤔

 

 

 

綾川の土手から少し下った民家の隣に、仮の御所の跡地があります

手前の建物は観音堂
崇徳院の守り本尊だそうです

 

雲井御所
 

”雲井”のネーミングは院の詠まれた歌から
ここもまた 
あらぬ雲井となりにけり
空行く月の影にまかせて
 
柱に刻まれたそうですが、
建物は綾川の氾濫で流されたそうです

綾氏が植えた立派な大蘇鉄
 

「雲井御所」の近くに、
皇女のお墓「姫塚」があります

皇女は幼くして亡くなったそうです
 
 
さて、この、ゆかりの地をめぐる旅の中で私が最も感動したこと

それは、綾高遠の自宅を改装したという「雲井御所」の跡地の隣、

白壁に蔵が建つ立派な民家の門に


”綾”という表札がかかっていたこと

 


歴史に残る出来事ががちゃんとここで展開され、

平安時代から今までがつながっているということを実感したのでした

 


 

お読みいただきありがとうございました😊