この日のことを忘れないように。
今日のうちに書きますね。
明るい話ではないので、スルーしてくださっても結構です。
1月25日。
明け方、祖母が亡くなりました。
82歳でした。
昨日の夜に電話で危篤を告げられ、慌てて電車に飛び乗って地元に戻り、そのまま病院へ。
酸素マスクをつけた祖母は、意識もなく、ただ不規則な呼吸を繰り返していました。
考えてみれば、祖母と最後に会話を交わしたのは10月に成人式の前撮りのために戻った時だったように思います。年末に帰ると、祖母は既に会話すらままならない状態でした。
先日、大学進学の理由で、家族のそばにいたかったと書いたと思いますが、この祖母が1番気がかりでした。私が中学生の頃から入退院を繰り返し、自分の足で歩くことも叶わず、寝たきりの生活でした。
本当は、今まで親にすら言ったことがなかったけれど、誰よりも花嫁姿を見せてあげたかった人でした。成人式の時も、振袖を見て欲しかったけど入院中で見てもらうことができなくて悔しかった。
こんなに早く逝ってしまうなんて思わなかった。
たくさんの管に繋がれてやせ細ってしまった体があまりに痛々しくて、兄は「これでも生きていると言えるのか」と言い、息子である父や叔母は「それでも生きていてほしい。なんとしても生きてほしい。」と言っていたようです。
人の生死を前にして、何が正しくて間違っているのか、正解なんてないんだろうと思います。それを痛感しました。延命治療という言葉が一等胸にきました。
人を看取るのは初めてで、なんだか怖くて大好きな祖母の手を握ってやることができなかった。ただ体温が下がって血の巡りが悪くなって変色してしまった耳に手を当てて温めたり、ツヤツヤとしたほっぺたを撫でてあげることしかできなかった。「ばあちゃん、帰ってきたんよ」としか声をかけてあげられなかった。
あの姿を前に、ただそんなことしかできなかった。
母は「何にもしてあげられなかった」と悔しがっていましたし、普段はあまり感情を外に出さない祖父も声を震わせていました。兄もメガネをのけて目のあたりを擦っていた。
ただ1人、息子である父は気丈でした。涙一つ零さず、葬儀の段取りを一睡もせずに行っています。
私は、父の前で祖母のことで泣くことに、本当は抵抗があった。誰よりも辛いのは、すぐそばに住んで見守って、誰よりも沢山お見舞いに行っていた父のように思ったから。
私なんかが、という思いがありました。県内とはいえ距離のあるところに住んでいて、帰ってきてもあんまりお見舞いに言ってあげられなかったのに。おばあちゃん孝行なんて、それらしいこと何もしてあげられなかったのに。
それでもやっぱり辛いことは辛くて、耐えられなかった。悔しさと寂しさが募って今も苦しい。
祖母は私に、大学でやりたかったこと、歴史学への扉を一番最初に開けてくれた人だったように思います。
おばあちゃん子だった私は、保育園から帰ってくる度に一緒に水戸黄門を見ていて、その影響で大河ドラマを見るようになって、段々と歴史というものに興味を持っていきました。
今があるのは祖母のおかげです。
豪快に笑う祖母が大好きでした。
家族で唯一、さーちゃんと呼んでくれる祖母が大好きでした。
82年間、しんどいこと辛いこと沢山あっただろうに、最期の最後まで、本当によく頑張って生きた人でした。
ゆっくり休んでね、そしておじいちゃんや私たち家族を見守ってね。
あんまり早くおじいちゃんを呼ばないでね。
いままで沢山ありがとう。大好きよ。
暫く更新は控えます。また気持ちの整理がついたら戻ってきます。
では、また。
あいゆ