VHS保管完了!

監督: 田中登

製作: 奥山和由

原作: 西村望 「丑三つの村」



出演: 古尾谷雅人

田中美佐子

池波志乃

夏八木勲

原泉

五月みどり

大場久美子


【カルト映画ワード】

・古尾谷雅人自殺

・夜這いはニバーイニバーイ

・田中美佐子が残念おっ○い

・昭和の狂気

・ムラムラしすぎ。

・秀才による狂気

・大虐殺だけど、怖くない

・悪いのは結局、古尾谷じゃね?


一部部落差別表現があり、ソフト化が現時点ではVHSのみに留まっている作品。だけどこれ、今村昌平の村人スピリット節に比べたら浅いほうだべさ。


 古尾谷雅人は村一番の秀才。第二次世界大戦最中、若い男は戦地へいくことこそ、憧れと名誉と成っていた。

今日も今日とて、村ではビート清(村の青年役)を戦地へ送る壮行会が開かれていた。


 古尾谷はこれは、いかん!俺もいくべさ!と若い魂を燃やします。んで検査いったら「肺結核だ」といわれます。いままで自分の肺に疑問を持たなかったのか!という突っ込みは村では通じないのです!戦争にいけないことを古尾谷は酷く悲しみます。秀才とはいえ、いかないほうが良かったという先見はないようです。


そんな古尾谷君も年頃だったので田中美佐子をしてました。

デートの最中古尾谷田中は、水子となった子供を見て「ああして、みんなで交わりあって子供ながしてんだね」と秀才らしくクールにいうと、田中「違う!この村の女は寂しがりだ!」といいます。


古尾谷頭良いので、この言葉にピンときてその日のよるから、ヤリまくります。あっちの人妻が寂しければ、夜這い。あっちが寂しければ夜這い。でも古尾谷の心は、田中美佐子一人でした。もちろん美佐子とやってません。



 my夜這いブームの最中、同じく検査にひっかかった村の男たちは古尾谷「てめー、秀才のくせに生意気だぞ」と因縁ふっかけたりしてきます。この男たち、会議を開いては夜な夜なリンチを行い、フテー野郎を自殺に見立てて殺していました。


 古尾谷もそれを知ってか恐ろしくなってきます。


 だけど、やりまくってます。

それとこれは秀才の頭でも別のようです。

 

 我慢の足りない古尾谷は、男たちの「戦争にいかなかった」という差別にイライラします。

 ストレスも溜まってしまい、結核が悪化。そして口から血を掃くようになります。


 古尾谷自分が憎く、そして男たちに立ち向かえない自分に悲しくなり、美佐子の風呂を覗きに行きます!

 しかし覗いてる最中、壁がぼろく、まんまと裸の美佐子とご対面美佐子もマンザラでない様子。ついに、初めてを開始する緊張がたたってか、古尾谷血を風呂に吐いてしまいます。

 そして、そのまま呆然とします。

恋する人の前でこんな哀れな事態になりどうしていいのかわからず、古尾谷血の入った風呂の湯を桶ですくって自分の頭にぶっかけます。どうしてか美佐子も自分でぶっかけます。


切ないあまりにも若い二人の愛情表現です。

 

 しかも田中美佐子は結婚することになってしまったのです。


 さすがの古尾谷、自分は死ぬのだと悟り、今まで自分を馬鹿にしてきた奴らをぶっ殺すことにします別に殺す必要もないのですが、そこは古尾谷です。


 夜中に八つ墓村よろしく、海中電灯を頭に巻き、まずは手始めに自分のことを思ってくれた母親を斧でぶったたきます。この表現は私は嫌いです。母親はどんなことがあろうと、古尾谷の味方だったのに。

  

で、とりあえず、お世話になった女の家行って、だんなとかその家族は散弾銃とかで頭ぶちぬいたり、刀でたたっきったりします。恩を仇で還す映像を私は初めてみたような気がします。


 途中、田中美佐子が「やめてー」といいにきます。だけど瞳孔の開いた覚醒状態の古尾谷に言葉は通用しません。でも、襲った家が間違っていたらスゴスゴと出て行きます。

 

 いじめた男たちのリーダーである夏八木のところへ来るのですが、夏八木の防御スペックが畳でありかつ二階に在住していたため、古尾谷は初めて妥協して別の人を殺しにいきます。

 そしてこの仕事を終えた古尾谷は最後に「みなさんさよならだぜよ」といって、自ら散弾銃を加えて死にます。


どの時代にも切れる子供はいたという事でしょうか。古尾谷は独立心のある青年だったのだから行動が余計、手のつけられない状態へと昇天していきました。

 

 映画みても、虐殺シーンはそれほどでもないですむしろ黄門様が悪い奴きってるほうが人数的に多いです。

村だから、こういうことが起きた?という一点が作られた製作意図は少し感じられる作品でした。

これは古尾谷さんの現実での自殺も含めて今後はソフト化難しそうです。



 


VHS保管しましたw


監督: 大森一樹

脚本: 丸山昇一

企画: 渡辺晋


出演: 吉川晃司

浅野ゆう子

柴俊夫

原田芳雄

松本明子

辺見マリ

宍戸錠

相田寿美緒

佐藤蛾次郎

阿藤海


【カルト映画ワード】

・ダセェ

・女が芋ね

・足なげぇ

・観てるこちらが恥ずかしい

・渡辺プロの企画映画

・吉川さんはこの当時からキテいた


もちろんアイドル映画。期待しなくとも良いのだし、カルト映画になる必要もない。

ではどうして取り上げるかというと、監督のファンだからです


しかしここまで酷いとは恐れ入った。映画全編通して最後には確実に吉川晃司先生が私たちを洗脳してくれます!


吉川先生はまず、自分が苦しんでいるスーパースターだと映画を観てる人たちに思う存分教えてくれます。この時点でゲロ吐いた人は、この映画を見れません!


次に吉川先生は、15分に一回歌を聞かせてくれます!それも悲しいタイプから明るいタイプまで!ロックも勿論!この時点で身震いする人は、退室したほうがいいです!


次に吉川先生は、業界の信頼度が抜群(あくまでも映画の中での話)です!あーといえば、みんな動いてくれます!


次に吉川先生は、トラブルに巻き込まれます。それも佐藤蛾次郎のマフィアにです!蛾次郎さんは北京原人で科学者という東映ならでのはキャスティングで驚かされましたが、まさかここに前科があるとは思いませんでした。


次に吉川先生は、年上の女に色々と目かけられます。そして次々と食っていきます!(辺見マリ含む)今のところでいうとセレブな女たちばかりです。英語も堪能で、最後の語尾だけ上げればどんな発音の英語でも、外国人に通じてしまいます!


そしてラストに吉川先生は、大衆を目の前にして「ユーガッタチャンス」と歌います!最後にこの映画を見終わった後、めまいがしたら、あなたは正常です。









【カルト映画ワード】

・ゲロ

・ゲリラ撮影

・ロボトミー

・実験映画

・自主撮影レベル

・ワケワカメ

・1990年代はブスが多い


ニコニコにもありましたよん。http://www.nicovideo.jp/watch/sm1355406





ぴのちおん この映画はともかくゲロ発狂の嵐でくくられている。モラルが整った人格の人にはトンでもない映画に写るが、それを超越してバカバカしく楽しむとし娯楽定義できる人間にとっては中々筋合いの良い映画とも言える。

画像でみるとエロイけど、凄いブスが演じてます




ピノチオン2 画像は映画の終盤、主役が壊れて渋谷の街中を猛スピードで走ってるところ。凄いなぁというよりは、通報したほうが良いと思った。





ぴのちおん1

一応実験的な作風だった。ただしそれは冒頭のみで中盤から後半にかけては、内容よりインパクトの強い画と街の景観に負けている。これが正直な感想だった。

 映画としてコレほど不快感を催すのがカルト映画ならそれも仕方ないだろう。


馬鹿みたいに有名になったギニー・ピッグシリーズにもいえることだけど、観てる側がすげーつまんないという映像を作り出すと、カルトもどうかと思うのだよ

しかし、まぁゲロの多いこと。ダッチハンド(女性用ダッチワイフのことらしい)をゲットした女がここぞとばかりに、なにすんだろと思ったら何もしない。

 この設定だけで後はゲロと発狂だけ。

 ゲロをはき、それをまた食する女もなにを目的としてるのやら。宇宙人の友好的誘拐がテーマだった未知との遭遇に比べるとやはり内容が薄い。比べちゃダメか。

 

 勢いだけで逝けるのかと思ったらそうでもなく、結局理性すらなくなった遇民の話につき合わせられたという、つまんないじぃさんの怖い話を聞いてる印象だった。


 


【下記・真面目に】

映像として、表現したいということがアナーキーな感じをぬぐえさせたくないというのならば、成功はしている。もともと観客の映像欲求など想定していない映画だ。

 理解に苦しむことをドンドン排出しそれを音楽と映像の細かい処理によって見せる。実験映画とは成功するしないに関わらず、それを行った自体が成功だという曖昧でいかにもアートの定義を濁すかのような作品が多くこの映画もその系統だといえる。


 日本国の映画においては1970年代から頻繁に作られてきたATG系列などのインディペンデント作品は、露骨なほどに人間の内面性の回帰に探ろうとした試みがある。これが一つの流行だとするのなら、この1990年代に作成されたこの映画はそれを省き、ただヒタスラに人間の不快をつむぎだす奇怪な映画となった。

 

 しかし考えてみれば1970年代とこの1990年代それに続く2000年現代のカルト映画に流行的な雰囲気はあっても本質的には変わらない。カルト映画の目指すところは、映画の中にある人間の下心の欲求の実現であるのだ。


 暗くじめっとした日本映画というインパクトはこの映画でも1970年代の映画でもそう変わらない。たとえば同年代の外国の作家が撮影したカルト映画を観ればわかるように人種的意味合いの大きい映像が入っていたりする。

 日本はただ、きっかいであけばよいのか?と思うぐらいそれらに近づけない。

 この映画はそれを確認する映画だと思ってしまった。