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蘇我及び稲毛海岸の埋立地にかかわる歴史

・幸町公民館の公開講座に参加。NPO法人郷土ちばに学び親しむ会の先生が講師。美浜区生まれ育ちなのに、埋め立ての歴史があまり詳しくないのでマズイ!と思っての参加でした。

・川鉄以前の埋め立ての話から、埋め立てに力を入れた、友納武人(元知事、元副知事)の話。戦後埋め立ての、千葉方式や出洲方式と呼ばれた方式は、財政難にあった千葉県が、民間資金で埋め立て事業を行なったものだが、のちに、この方式が国で問題となって禁止された話。(←これ、重要だとおもう。)

・蘇我中蘇我小の校歌には、川鉄の町というのが表れているけど、公害問題等ののち、現在は歌われなくなった。とか、大森小の校章は、「かわう」がモチーフとなっているが、それは、大願寺の森一体に昔はかわうが沢山いたところから。しかも、かわうが海から採ってきたイワシが、一体に散乱してて、住民はそれを採って食べていたとも言われる、とか、そんな話。

・戦中の埋立地に作られた、日立航空機株式会社の千葉特殊工場では、軍事機密で航空機製造していたが、ほとんど資料が残っていなくて詳細がわからないが、ジェット機の開発をやっていた可能性。千葉空襲でターゲットにされなかったことから、機密は守られていただろう、と。

※千葉空襲
6.10に学校工場や千葉駅周辺
7.7に千葉市街地一体。7.7の空襲は七夕空襲として知られる。