どうも、またぞろ、オカシナ論調が出ているようなので批判しておきます。典型的には、こちらの記事:
「遊びの場所みたい…」把瑠都 初黒星で不謹慎発言
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110511-00000035-spn-spo
”初日から2連勝の大関・把瑠都が豪栄道に上手投げで敗れ、支度部屋で「遊びの場所みたい」などと不謹慎な発言をした。放駒理事長(元大関・魁傑)がファンの信頼を土俵で取り戻すと誓った技量審査場所で、大関が発した自覚を欠く言動は波紋を呼びそうだ。琴欧洲が2敗目を喫するなど大関陣は既に全員が黒星を喫している。横綱・白鵬は横綱相撲で3連勝を飾った。
初黒星を喫した把瑠都は苦笑いを浮かべながら支度部屋に戻ってきた。平幕の豪栄道に豪快な上手投げを食らい、土俵下まで転げ落ちただけに「散々な結果に終わった。相手が強かった」とぽつり。ふがいない相撲をしてしまったことへの反省の弁を述べたが、その次の瞬間、信じられない発言が飛び出した。
「お客さん、無料ですからたくさん見に来てくれている。でも、悪いけど遊びの場所みたい…。気合、入ると思う?」
4カ月ぶりの場所に向けて放駒理事長は何度も「失った信頼は土俵で取り戻すしかない」と話した。ファンもその言葉を信じた。この日は午前8時から当日券を配り始めたが、平日にもかかわらず初日より1時間も早い8時55分に用意した1000枚が全てなくなった。無料開放とはいえ連日多くの人が相撲を見るために国技館に足を運び声援を送っている。そうした中での大関として自覚に欠ける発言は不謹慎と言われても仕方がない。
把瑠都は床山に声をかけられ「遊び。稽古総見みたい!」とおどけた。打ち出し後とはいえ、前日までピリピリしていた支度部屋の厳正な雰囲気はなくなっていた。敗戦の照れ隠しもあったとはいえ、その態度は批判の的となる可能性がある。”
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ここで”欠けている”とされる、「大関としての自覚」とは、いったいどういうものでしょうか?
恐らく、批判の根底には「相撲協会、力士一丸となって信頼回復に努めている中で・・・」という、例によって『みんな、一つになろうとしているのに』という、いつもの集団精神のようです。
大震災からの復興においても同様のことが言われますが、率直に言って、こうした集団精神は悪しき全体主義としか言いようがない。何故なら、一切の批判を許さない ・・・ もし、集団的に’誤っていたら?’という真摯な態度に欠ける恐れが生じるからです。
時計の針を戻して、この、八百長問題でのドタバタが発生した当初の様々な批判を振り返れば、もちろん、八百長をした力士(そして、それを黙認したり、あるいは推奨すらしていたかもしれない親方も存在)たちはもちろんのこと、こうした問題を長らく放置してきた相撲協会の体質が最も批判を集めていた筈です。
報道されている限りにおいては、相撲協会は関係した親方や力士たちへの処分は行う一方で、一部処分に異議を唱える力士たちの意見は無視し、なおかつ、協会としての、そして何よりも協会トップたちの責任問題については何ら明確な対応が見られません。
こうした状況下で、『力士たちが一丸となって』といっても素直にそう考えられない人たちが出てきても、それは何らオカシナことではない。
更に言えば、技量審査場所として、これは本場所ではないと明確にしたのは相撲協会自身です。その結果、賜杯が無かったり通常の取り組みと同じとは言えない状況を生み出してしまった。それを本場所と同じように、と思えと言われても、必ずしもそう考えきれないケースもあるでしょう。逆に言えば、把瑠都関などは最も『賜杯』の重要性を感じている一人、ということも出来ます。
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福島原発で、なんとなく原発は危ないから止めよう、とか『場の空気』が支配する世の中、これにも通じる問題が感じられます。これって、あの、『いつか来た道』じゃなかったっけ???と。