周五郎先生は1928年(昭和3~5年)資料によっては(1926年大正15年春~昭和4年春の記載)ぶらり、スケッチに出かけ風景が気に入って、そのまま住み着いた浦安町。
おんぼろ舟、あおべかを買わされて貧窮の中、漁師まちの人々との交流が足かけ3年間続いた。当時はどこの地方でも生きてゆくことに精いっぱいであり漁師まち浦安の人々も同様であったが、
その日暮らしの民衆の計算高さに閉口しながらも日々溶け込んでゆき、老若男女の情の厚さに絆され皆から蒸気河岸(欠真間)の先生と親しまれた。
30年後、当時の生活や心象スケッチしたものを本に小説、青べか物語(短編20数編)昭和35年(58歳)を発表、直後に川島雄三監督で大映映画が現地撮影(地元民エキストラ協力)も完成した。
陽気で明るく逞しく頑なに生き抜いた、小さな漁師まち浦安町(浦粕として登場)の老若男女の人情味厚い日々の暮らしぶりがユーモラスにも人間の本質が感じられて、読むほどに読者を魅了する山本文学は、現代の浦安の人々の心の中にも育まれ人情味厚く受け継がれている。
小生も青べか物語の御縁で現在、浦安郷土博物館サークル(朗読、青べか)の会員皆様と物語全編を市民に聴いて戴く為の勉強会に二年前から携わって、周五郎先生が浦安を愛して親しんでいたか、
堅い絆で結ばれていたかが理解出来、羨ましくもあります。
現代の市民の皆様に地元の宝である青べ物語を一度お目をとして下さるようお勧めいたします。
尚、毎月一度の博物館朗読会、(青べか物語)へも是非お運びください。
又、この物語が浦安市歴史上の遺産として永遠に残る事でしょう。青べか物語万歳。
*周五郎先生は、三年間町に滞在して後、この町に愛想をつかして、逃げ出したが、歳月を重ねる度に恋しさに駆られて三回も浦安を訪ねている。此の事が何を意味しているか、彼は過ぎ去って見て初めて生涯中NO1の町であった事に築いたのだと思う。だから、一度捨てた浦安に未練たらたらだった、自分に気が付き再三、尋ねたのである。捨てられた町、浦安、こそ、先生にとって、心休まる美しい街であったのである。小生も又しかり。浦安市万歳、万歳*
2014年1月23日(水)
私が浦安郷土博物館に関って早3年、住民とのコミニケイションもく取れて住民と青べか物語との関係が判明した。あおべかは市民にとって受け入れ難い存在だった意味は、全く誤解から始まっていたのだ。
映画が出来たS30年頃の住民の多くは映画を見ただけで馬鹿にされたと勘違いしていたのだ。
何故か、当時の漁師まちに共通した町の雰囲気は全国同じものであった、との認識が無く、吾町だけ、馬鹿にされたとの被害妄想に駆られたのだ。周五先生は純粋に浦安市に惚れ込み居を構えたのにすぎず其の成り行きを住民の殆どが知らなかったのである。以上のとうりで、市民は先生に謝罪して欲しい。