共依存の何が悪い?
今更ながら続きです。
100日前に書いたこちら
とこちら
を読んで見てください。
共依存と呼ばれる状態は、相手さえしっかりしていればむしろほめられてもおかしくない状態であると私は述べました。(嫁の鏡)
次に、何が悪いかと言えば、『間違った対処法』を選んでしまったと言えるのではないかと書きました。
それを痛風に例えたのですが、良かれとしてくれたことが、逆に病気を悪化させてしまっていることはないかと。
私たちギャンブル依存症者は、共依存に陥っている家族を利用して時間とお金を得ています。
私たちギャンブル依存症者にとって、共依存に陥っている家族は格好の餌食なのです。
もっと酷く言えば、「うまいことやって、また(金を)ひっぱってやったぜ!!はは~んw」てなもんです。
嘘、涙、土下座、なだめ透かし、逆ギレ、暴力、帰宅拒否…
全ては共依存に陥っている家族をだまくらかして己の快楽と一時しのぎの回避のためだけに、あなたの感情を利用しているのです。
なぜそんなことが起きるのでしょうか?
私たちギャンブル依存症者が共依存症者に対して付け入れる隙がそこにはあるのです。
その隙とはなんなのでしょうか?
『共依存』
これは、人(パートナーなど)に依存するという事です。
依存対象がギャンブルや薬物ではなく、『人』であると言う意味です。
つまり、パートナーを利用して現実逃避をし、快楽を求めるという事です。
・・・現実逃避?快楽?
何いってんだこのバカ!!とお思いでしょうが、しばしお付き合いくださいm(__)m・・・
快楽とは、自分の欲望を満たすという事です。
現実逃避とは、問題から目を背け自分自身の人生を生きていないという事です。
これを踏まえて共依存状態を考えてみると、ひとつの問題がみえてきます。
パートナーの問題を解決すること、または、そこに一緒にどっぷりとはまり込むことにより、自分の存在意義を求めてはいませんか?
パートナーがダメダメだったり、なにか問題を引き起こしたり、あるいは病気になったとき、ワクワクしたりしていませんか?
パートナーのその悲惨な状況を、『なんとかしてあげる自分』に酔ってはいませんか?
もっと言えば、真にパートナーが独り立ちできてしまったら、ご自身の価値がなくなってしまうなんて思っていたりしませんか?
・・・酷い事を書いていると自覚しています。
本当にごめんなさい。・・・
なぜそんな感情が湧くのでしょう?
自分さえ我慢すればとか、自分を犠牲にしさえばすれば…とか、相手に対し何かをしてあげること、そこに満足感・快感を覚えてはいませんでしたか?
それは言ってしまえば、生き方の問題なのです。
自分がやりたいことを我慢せざるおえない状況を、自分の人生を生きられない言い訳にはしていないかということです。
相手に依存すると言うことは、
現実を生きていないということです。
あなたがあなた自身の為に人生を生きていないということです。
自分を認めてあげることができていないということです。
それはあくまでも誰かにに誉められたいが為・認められたいがの行為であり、自分自身の偽りの満足感のための行為であり、相手への真の行為ではないのかもしれません。
つまりそれが現実逃避であり快楽なのです。
それがつけいれられる隙であり、共依存の実体なのではないのかと考えています。
もっと自分自身の本当の気持ちを、もっと自分自身の心からの欲求を満たすために行動すべきなのではないかと思うのです。
実は私、2年前に父をガンで亡くしています。
その時は本当に、それこそ全てを犠牲にするほど献身的に介護し、家族のために奔走しました。
私は父はもう助からないとわかっていましたし、いかにしてそれを本人と母に悟られないようにだけが課題でした。
そして父が他界し、葬式やらなんやら車椅子の母の代わりにすべてを一人でこなしました。
今振り返ると私は、相応の満足感があったと覚えています。
母や親戚連中にほめられて嬉しかったことが、父の他界の悲しみより大きかったのは事実です。
今思えば、他がためにではなく己のために、自尊心を満足させるための奔走ではなかったのかと疑問にさえ感じているのです。
これは、父や家族が私を利用したという類の話ではもちろんないのですが、そこにあった私の心のありようが問題であり、自身の弱さと欺瞞であると考えるのです。
話がそれてしまいました・・・
あくまでも、依存症者ありきの話です。
なによりも、依存者に振り回されてはなりません。
自身の人生は自分のためだけにあるのです。
ご家族の皆さんは、依存者の犠牲になり続けてはいけないのです。
しかしそこに御自身の問題がないかどうか、今一度考えてみてください。
きっとその先には、安寧の日々が訪れると思っています。
自分棚上げ記事ですいません。
充実した毎日を過ごそう。
今日もパチンコは絶対にしない。