人生旅
70歳を超え黄昏の期に入り大望を抱いた割には大したことも無かった己の人生を描きたくなったのでよろしければお付き合いください。
これが自分で言うのもおこがましいのですが波乱万丈なる私の略歴です。
戦後五年が経った1950年に東京の文京区で生を得る、まだ東京のど真ん中に大根畑がありました。
1961年文房具屋という安泰生活を切り捨て父の異常ともいえる海外志向によりブラジル移民として渡伯、しかし希望の大地との日本政府の喧伝とは裏腹に都会育ちの私には電気ガス水道が無いのは勿論の事途方もないジャングルを開墾すると言う極限の生活には我が人生の将来性は見いだせずヒッチハイクでも日本に帰りつくことを決意
1969年に家族と離れ一人帰国し日本で再就学
1974年学業終了後、建設会社に測量士として就職
1975年に結婚、しかし結婚直後ブラジル支社の前任者が不慮の事故により死亡しポルトガル語ができる事から後任として指名される。
1976年に再度ブラジルに渡ることになり日本での経験値から川崎製鉄工場建設から始まり十数社の日系進出企業の建設工事に携わる。
1981年まで建設業に従事するも外資建設業での継続は難しく清水寺から飛び降りる気持ちで全く畑違いの飲食業に転身、元々移民時代に日本の戦後驚異的な経済復興には日本独自の技術的要素があり、これらをブラジルの経済復興に応用すれば戦後に台頭した新興企業並みなベンチャー企業の設立を夢見ていたので、それを叶えるための資金調達手段として技術者から飲食店への転身は何の抵抗はありませんでした。
飲食店の形態はアメリカで日本式鉄板焼きブームを起こしたロッキー青木に習い昼はブラジル人相手の鉄板焼き店、夜は日本式居酒屋を開業しそれなりの業績を上げることが出来ました。
1984年日本航空がリオに就航しその機内食業務を獲得、更に数社の日本行航空便機内食も担当することになります。
1995年代には日本食ブームの余勢もあり地上店舗も4店舗に拡大しました。
しかし残念ながら拡張もこれまでで私本人の能力不足、それを補う人材不足により起きた店舗火災、集団強奪事件、査察官(税、衛生、労務)の賄賂攻勢でベンチャー企業創業への資金造りの達成は困難なものとなってきました。
更に日本国内のバブル破綻がブラジルの日系進出企業にまで及び全社総引き揚げ状態となり、投資資金の引きはがし返済までに及び地元日系企業の南米銀行がまず破綻しそれに連鎖し世界一と言われたコチア産業組合系企業が全て倒産し地元日系企業はほぼ全て破綻の憂き目に合いました。それに反比例するように台頭してきたのが中国と韓国企業で数年の間に立て看板からテレビコマーシャルに至る迄全べて中韓企業に取り換えられ、日本人街の名称も東洋人街と変わり残った日本人の店も僅か10%程度に減少してしまいました。
従ってバブル崩壊時の損得顧みずの進出企業逃避のためブラジル日系社会は崩壊したと言っても過言ではないと思います。
この様な経過をたどり私の会社も2001年には直属の部下二人が奇遇にも同時病死、更に私自身と妻が同時期に発症し私のコンツエル起業の夢は潰えました。
そして
2015年の65歳定年の年にはJALの就航も日本の経済的要因により中止となったのを機に全ての店舗を事業関係者に無償譲渡し隠居の時代に入らせて頂きました。
これが私の浮き沈みの激しい波乱万丈人生のあらましですが、その時々通常では体験しがたいエピソードもあるので詳細を別の記事に書きますので、よろしければそちらも見てくださいね。冒頭の写真はリタイア後キャンピングカーで日本一周をした時のものです。
