開戦前の旧ソ連のスパイは日米中の政治中枢で暗躍していました。
ソ連の敵と敵を争わせ弱ったところを叩く戦法を取った。
ソ連は中国共産党を後押しして、米国は蒋介石を見捨てたため、中国は共産党の国に変わった。
米国は後になって間違った政策だったことに気づき、台湾を支援しているが後の祭りである。
ソ連は攻め込んできたナチス・ドイツを撃退するために連合国軍を大いに利用した。
1941年6月、第二次世界大戦においても中立を維持していたソ連は、イギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加し、アメリカの連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。
ナチス・ドイツは日本を利用してソ連を挟み撃ちにしようとしたが、ソ連は米国を利用して日本と開戦する工作を日米の政治や軍部中枢で行った。
朝日新聞は開戦へと煽り立てた。
朝日新聞は戦前に反戦派を糾弾して開戦へと扇動していました。
煽られて山本五十六などの反戦派を攻撃した右翼も居ます。
朝日新聞はソ連のスパイと繋がっていました。
戦後には手のひらを返し、軍部批判、政府批判をする新聞に変身してみせました。
そして韓国のために尽力し、有りもしない従軍慰安婦問題を捏造、韓国は強制徴用工問題も捏造しました。
日本は天皇を含めて終戦直前までソ連を信用しきっていたが、裏切られていた事に気づいた時には遅かった。
戦後かなりの年月が経ってから、ソ連の工作で日米が開戦に至った事実が判明する。
ゾルゲ事件は、コミンテルン本部の指令で 来日したリヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけてその構成員が逮捕された事件。この組織の中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実もいた。
近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった。海軍大将・井上成美
近衞 文麿(このえ ふみまろ)
太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループとして昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。
1945年(昭和20年)6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。これを受けて、外相・東郷茂徳は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衞は天皇から特使に任命された。この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。
近衞のモスクワ派遣は、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を決めていたスターリンに事実上拒否された。
1945年(昭和20年)8月15日に日本軍は無条件降伏
終戦時にソ連軍(ソ連労農赤軍)は千島列島と北方領土に攻め込んできた。
占守島の戦い
日本降伏後の8月18日未明、ソ連軍は占守島も奇襲攻撃し、ポツダム宣言受諾に伴い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となったが、日本軍は強かった。
戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立した。
GHQの占領
イギリスやアメリカを中心とした連合国による日本占領が開始された後の10月4日、近衞は連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪問し、持論の軍部右翼赤化論と共に開戦時において天皇を中心とした封建勢力や財閥がブレーキの役割を果たしていたと主張し、ドイツのような社会民主主義者や自由党が育たない間に、皇室と財閥を除けば日本はたちまち共産化すると説いた。これに対しマッカーサーは「有益かつ参考になった」と頷いた。さらに近衞が「政府組織および議会の構成につき、御意見なり、御指示があれば承りたい」と尋ねると、マッカーサーは自由主義的な憲法改正の必要性と自由主義的分子の糾合を指示し、近衞を世界に通暁するコスモポリタンと称賛して「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励した。
映画「終戦のエンペラー」では近衛は良いセリフを与えられて立派に日本の正当性(日本に対する人種差別論)を主張している事になっています。
朝日新聞を中心に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近衞の戦争責任問題が追及され始める。10月26日の『ニューヨーク・タイムズ』(朝日新聞とニューヨーク・タイムズはマッチポンプの関係となる)では、「近衞が憲法改正に携わることは不適当である」として「近衞が戦争犯罪人として取り扱われても誰も驚かない」と論じた。
大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。
近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。没年54歳