「想像してみてほしい。ある日突然、自社の売り上げの大部分を占める商品を販売できない状況に追い込まれたら、あなたの会社はその危機を乗り越えられるだろうか。社員は混乱して慌てふためくか、急いで転職を考えるかもしれない。現場に不安が広がり、社員の士気が落ちるのは確実だ。 」

という書き出しから始まる吉野家の過去の危機(牛海綿状脳症被害の時期)に関する日経ビジネスの記事を読んだ。


いまや、社会的に、主力商品も、そのほかの商品も売れなくなってきている。
これは、景気が悪いとか、会社が悪いとか、個人消費が落ち込んだとか、そういう問題ではない。

実は、今売れていないものは、本当に必要でなかったものなのかも知れないのだ。あせる

では、必要なものから逆に考えてみると、国内でライフラインと呼ばれている、水、電気、ガス等がまず思い付く。そこから、順に紐といて完全に必要でない物にならないものを商品として扱う工夫が必要なんだろう。

今後、どれくらいのレベルまで国内外経済の発展が毀損されるかはわからないけども、上記の事を考えて基本に立ち返った生活必需品の拡充を図るのが先決なのだろう。



ちなみに、水、電気、ガスの次に続くものは、
食料品、医薬品、被服費、交通費、通信費・・・・と続く。
んーー、なんか抜けていそうだな。この抜けていそうな部分が、今の時代に向く主力商品になるのだろう。
その部分を発掘して立ち直り耐え切った吉野屋はすごいのかも知れないのである。あせる




吉野家を自宅で(笑)



http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090318/189337/
を以下にケータイの方向けに転載

2006年2月期、吉野家ディー・アンド・シーは牛丼なしで黒字転換を成し遂げた。
当初は新メニューのオペレーションをこなし切れずに店舗が大混乱に陥る。
それでも営業を続けられたのは経営への信頼と現場の実行力があったからだ。
牛丼の吉野家から、牛丼も売るメニューミックスの吉野家への進化を追った。
(文中敬称略)<日経情報ストラテジー 2007年3月号掲載>

プロジェクトの概要
 2003年末、米国でBSE(牛海綿状脳症)感染牛が見つかり、日本政府は米国産牛肉の輸入を停止した。全国の約1000店で牛丼を販売する吉野家ディー・アンド・シーは使用する牛肉の99%を米国からの輸入に頼っており、米国産牛肉の在庫が尽きる2004年2月に牛丼の販売を休止せざるを得なくなった。米国産以外の牛肉では吉野家の牛丼の味と品質を再現できず、かつ1000店規模で必要になる牛肉を新たに調達できないと判断したためだ。
 それからの約3年間、吉野家は牛丼なしで営業を続けてきた。店舗には豚丼などの新メニューが並び、店員は調理作業の習得や接客方法の変更を強いられた。2005年末には輸入が再開されたものの、米国のミスですぐに再停止になり、結局再開は想定をはるかに超える2006年夏までずれ込む。吉野家は2006年秋から段階的に牛丼の販売を再開し始めた。
吉野家の店内。壁やカウンターには「豚丼」「牛焼肉丼」「豚生姜焼定食」「牛すき鍋定食」といった牛丼以外のメニューが並ぶ。この日、顧客が食べていたのは、すべて牛丼以外のメニューだ(写真:北山 宏一 以下同)
 想像してみてほしい。ある日突然、自社の売り上げの大部分を占める商品を販売できない状況に追い込まれたら、あなたの会社はその危機を乗り越えられるだろうか。社員は混乱して慌てふためくか、急いで転職を考えるかもしれない。現場に不安が広がり、社員の士気が落ちるのは確実だ。

 吉野家ディー・アンド・シーは2003年まで、牛丼一本で勝負する「単品経営」企業だった。その吉野家が2003年末の米国産牛肉の輸入停止に伴い、2004年2月には牛丼の販売休止を余儀なくされた。しかし、あれから3年が経過し、吉野家は牛丼なしでも利益を出せる企業に生まれ変わった。2006年9月には待望の牛丼も戻ってきた。世間の注目は復活した牛丼に集まるが、ここに至る3年を牛丼なしで乗り切った吉野家の「営業継続力」にこそ同社の強さがある。
 吉野家から足が遠のいていた「休眠客」が久しぶりに吉野家の暖簾(のれん)をくぐると、あまりの変わりように驚くに違いない。牛丼以外にもメニューを「選べる」のだ。例えば豚丼を注文すると、店員は「オーダー票」に印を付け、厨房に知らせる。注文内容を紙に書き取るのは街の飲食店では当たり前のことだが、吉野家にとっては前代未聞である。牛丼だけの時は、オーダー票がなくても注文の順番通りに顧客に配膳できた。
 しかし、2004年から複数の料理を扱う「メニューミックス体制」になると、オーダー票なしのオペレーションが難しくなる。2004年5月にオーダー票を導入し、定着するまでの半年間、現場では注文順の配膳ができずに顧客からクレームを付けられる場面が散見された。人の記憶には限界があるし、メニューごとに調理時間が異なる中で順番通りに配膳するにはオーダー票が欠かせなかった。
 たかがオーダー票の導入と思うかもしれないが、それだけでも現場は抵抗する。長年の習慣を短期間で変えるのは容易ではなく、「オーダー票など必要ない」というのが現場の総意だった。

「だったら記憶だけでオペレーションしてみてくれ」。店長に試してもらうと、確かに無理だと納得する。こうして1つずつ現場の理解を得ていく。

社長は方向軸を示し、手段は現場に任す
 オーダー票を発案したのは、吉野家東日本事業部営業管理室長の村上鋼時である。村上の役割は社長の安部修仁が打ち出す経営方針を営業戦略に落とし込み、現場に周知徹底させることだ。安部が発する言葉を営業現場向けに「翻訳」し、コストを考えながら具体策に置き換える。
吉野家東日本事業部営業管理室長の村上鋼時は、社長の言葉を営業現場向けに「翻訳」しながら営業戦略を立案する 安部が「吉野家の現場力は咀嚼(そしゃく)力と実行力」と表現するように、「決まったことを理解して実践する浸透の速さ」が、牛丼なしの吉野家を支えた営業継続力の源だ。安部は経営の方向軸を示すが、実行プロセスは現場に任せる。東日本の現場では、村上が営業戦略の立案責任者だ。1980年入社の村上は、吉野家の会社更生法の適用申請(1980年)を実体験で知る最後の世代である。当時、拙速な大量出店と味の低下から客離れを起こして事実上の倒産に追い込まれた吉野家に最後まで残り、営業部長として再建に尽力したのが現社長の安部だ。
 吉野家の社員には安部の人柄に惚(ほ)れている人が多い。その1人である村上が「鳥肌が立つほど感動した」と振り返る安部の言葉が「似て非なる物は売らない」というものだ。米国産の牛肉で作った牛丼しか売らないという安部の信念を端的に表すこの言葉を、安部が店舗の30%を占めるFC(フランチャイズチェーン)オーナーに対し発した時のことを村上は鮮烈に覚えている。安部の信念に共鳴できるから、村上は牛丼がない危機的状況でも社長に付いてきた。ほかの社員も同じだろう。
 FCオーナーに対し「吉野家品質以外の牛丼は売らない」と宣言して理解を得られたのはFCビジネスとしては異例のことだ。FC店を22店展開するメガエフシーシステムズ(神奈川県相模原市)社長の中島康博も「本音を言えば、米国産以外の牛肉で作った牛丼で売り上げを取りたかった。だが、品質や食材供給の説明を社長の安部から直接聞けば聞くほど、本部の考えに納得できた。だから苦しくても今日までやってこられた」と明かす。
 村上は、自分が立案した営業戦略の実行責任者である現場の営業部長たちと週に1度集まり、自分たちが改革の導火線になるという意味から名付けた「ダイナマイト」と呼ぶ会議を続けてきた。ここで村上は「社長は近い将来、牛丼だけの吉野家を脱皮し、メニューミックスの吉野家を『新創業』しようとしている」と伝え、それにはオーダー票の導入が避けられず、「今回は輸入停止という外的要因で導入が早まっただけだ」と説明した。
 村上の仕事の出発点は常に安部が発する言葉であり、「この3年、社長のメッセージを食い入るように聞き取り続けた」。安部の言葉に営業現場としての解釈や意味づけを加え、ダイナマイト会議やメールを通して営業部長に伝える。こうして経営と営業現場の「温度差」を無くす。
 村上は役職柄、安部が参加する月3回の朝会やFCオーナー会議にすべて同席する。その時の安部の言葉から「吉野家が向かう将来像」を理解し、そこを起点に営業戦略を立案する。現実には、社長の「思い」や現場の「勢い」だけでは日々のオペレーションは回らない。
 現場にとってオーダー票の導入は序の口だった。何より現場を戸惑わせたのは、新メニューの「味の再現」である。毎月のように新規投入・改廃される新メニューに対し、「どれが吉野家の味なのか分からない」というのが現場の偽らざる気持ちだ。そこで村上はアイデアをひねり出す。店員が全メニューを「まかない食」として食べられるように人事や調達部門にかけ合った。それまではまかないとして豚丼とカレー丼しか食べられなかった。そのため、新メニューの味を顧客に聞かれても、うまく答えられない店員がいた。

吉野家品質が分からず、「味の再現」苦労
 メガエフシーの吉野家事業部長である三井直樹は「新メニューが投入されるたびに、オペレーションや接客、食材の在庫管理や保管方法、利用する調理器具、食器、備品が変わり、現場は混乱の連続だった」と漏らす。本部は実験店で3~8週間の検証をしてから味のポイントを外さないための加熱温度やタレの加減、食材の重さなどを現場に通達するが、それでも今回は不完全な状態で全国の店舗に商品を展開せざるを得なかった。
そのしわ寄せは現場に来る。牛丼がなくなって客足が減り、不安が募るなかで、メニューによっては販売開始の直前になって調理マニュアルが現場に届き、ぶっつけ本番で顧客に商品を出さなければならない。調理作業に習熟していないだけでなく、作っている本人も吉野家の味を理解できておらず、商品に自信が持てない。牛丼の経験が長い店員ほど、新メニューへの切り替えに苦労した。中には吉野家を辞めていく店員も出始めた。
 まさに負のスパイラルだ。牛丼に特化した仕組みを作り上げた吉野家だけに、新メニューへの体と気持ちの切り替えには時間がかかる。耐え切れずに辞めていく店員が出れば、残された店員の負担はさらに重くなる。売り上げが伸びないなかでは新しいアルバイトを雇えないし、そもそも牛丼を失った吉野家で働こうとする人は少ない。最後まで残された店長には重圧がのしかかった。
 最初の半年は現場の混乱が続いたが、2004年8月に新定番4品が決まったあたりから現場が少しずつ落ち着きを取り戻す。三井は同時期に電磁調理器が入って腹をくくったという。「牛丼はないものと考え始めた」。それまでは関係者全員が、「牛丼がないのは一時的なこと。メニューミックスは緊急措置だ」と、心のどこかで楽観視していた。

 2004年9月に吉野家は早くも単月で経常黒字に転換する。だが、ここまでノンストップで走ってきたため、現場の疲労はピークに達していた。「黒字が見えたころに現場の疲労を強く感じた」という安部は、村上に対し「(平均12店を巡回指導する)エリアマネジャーのオフィスに立ち寄って話がしたい」と持ち掛ける。だが村上は「その場にいる人とだけではなく、マネジャー全員と話してほしい」と自分の考えを伝えた。自然体で現場と話したいという安部の意図を十分理解しつつも、村上はマネジャーに対し、「自分だけは社長の話を直接聞いていないという状況を作り出したくはなかった」。安部は村上の提案を受け入れ、合計10時間以上かけてマネジャー全員と座を囲んだ。そこで安部は「モチベーションのネタが尽きた一番辛い時にこそ、個人の能力やリーダーシップが醸成される」と語った。倒産を乗り越えて社長にまで上り詰めた安部の言葉には、現場に響く重みがある。

店員が「牛丼を食べない」と告白
 2005年2月期に経常赤字に転落した吉野家だが、2006年2月期には経常黒字に戻っている。同下期には安部が牛丼の販売休止時に掲げた「営業利益率5%」の確保を単月で実現する月も出た。
 だが、喜んではいられない。2006年は次なる波乱の幕開けで始まった。米国の単純なミスで、2005年末に再開された輸入が2006年1月に再び停止された。牛丼復活を目前にしながら現場に水をかけられた衝撃は大きかったが、そこに新たな課題の火種が生まれていたことに、この時安部も村上もまだ気づいていなかった。2006年春、今度こそ輸入再開の観測が広がり出した矢先に、村上に信じ難い連絡が届く。ある店員が「牛丼が復活してもBSEが怖いから牛丼を食べない」と言っているというのだ。「米国産牛肉は安全」という啓もう活動を続けてきたにもかかわらず、何と足元の店員の不安を払しょくできていなかった。これには安部も言葉を失うと同時に、大いに反省した。
 店員は米国産牛肉に、どのような印象を持っているのか。本音を聞き出し、不安を取り除いてあげなければ、牛丼の販売を再開できない。村上は2006年6~7月に数千人の店員にアンケートを実施。すると驚くことに、48%もの店員が米国産牛肉に不安を感じていると分かった。そこで吉野家は9月の販売再開まで社員総出で現場の啓もう活動に取り組んだ。こうして吉野家は、2006年9月18日の「牛丼復活祭」にようやく漕ぎ着けた。
 その2週間前、決起集会が開かれた。店長を代表して「決意表明」を読んだ東京・有楽町店長の加藤忠央は「くじけそうな時もあったが『誇り』を持って走り続けた」と振り返った。その時、安部は現場への感謝と激励を込めて何か言おうとしたが、言葉を詰まらせ、目頭を押さえた。
以上、転載おわり