珈琲豆がパキパキと砕けていくのを手のひらに感じながら、部屋に放出されるアロマの胞子を肺で受け止め、ケトルの蓋がカタカタし始めると、ぼくの朝の儀式はクライマックスを迎える。因みにアロマの胞子なんてものはない。
ビーカーにお湯を注いで待つこと3分半。
プランジャーを押し下げて抽出された液体をカップに注ぎ、それを口に含んでからゆっくりと流し込む。錆付いた機械に油を行き渡らせるように。
なんだろう、特に人が寝静まっているときに飲む珈琲は格別だ。
ぼくは小さい頃、ひょんなことから、イタリア系カナダ人の家で世話になっていた。日本でだけど。
その家にはイタリアならではの習慣がいくつもあって、例えば、皿に残ったソースをちぎったパンやバゲットでキレイにして食べる scarpetta スカルペッタとか。
そしてこれはイタリアというよりナポリなんだけど、休日の前の晩にトマトソースのスパゲッティをわざと多めに作って、翌日、余ったスパゲッティに卵とチーズを入れてオーブン又はフライパンで焼く pasta frittata パスタ・フリッタータ。英語では spaghetti omelette なんて呼ぶけど。表面はカリカリで中はカルボナーラみたいにしっとり。大好物だった。
そしてコーヒー...
その家ではジャムとかの空き瓶に、いつも少量のエスプレッソを入れて置いてあった。
エンジンオイルみたいなその液体が、まさかコーヒーだとは思ってもみなかった。
そしてその家の父親は、それをちびちびと啜るのだけれど、子供たちには絶対に触らせなかった。
なのでぼくにはそれが何か怪しい儀式のように映って、あの得体の知れない液体にはどんな秘密が隠されているのか、知りたくて知りたくてたまらなかった。
そしてついにある日、盗食いならぬ〝盗飲み〟を決行したのだった。
クラクラめまいがする以外は、期待していたようなマジカルなことは一切起きなかった。
その日は一睡もできなかった。
翌朝そのことを白状すると「(子どもでも)ワインは少しくらい飲んでも構わないけど、コーヒーはダメ。働くようになったら自分で稼いだお金で飲みなさい」と言われた。
それ以来、コーヒーはずっとぼくの憧れだった。
40を過ぎたあたりから、一日にコーヒーを2杯以上飲むと寝つけなかったり、眠れても悪夢にうなされることがしばしば。なので今は昼を過ぎたら飲まないようにしている。
さてさて、ようやく朝活も板に付いてきた今日この頃、身も心も少し軽くなったような気がする。
別に不自由があったわけではないけれど、歩けるってすごいなぁ、歩くのって楽しいなぁと、つくづく思う。
乗馬クラブへ向かう途中、ペンキのついた刷毛でこすっちゃったような空に出くわした。
空を眺めているのも楽しい。
そんな風に感じるようになったのはいつ頃からだろうか。
この前髪パッツンは元競走馬の〝ダンスオーレ〟という仔で、調べてみると、公営名古屋で10勝するも、中央では平場、障害ともに未勝利だったようだ。
今日乗らせてもらった〝サニーデイズ〟は、藤田菜七子騎手が福島で初勝利を飾った仔だ。
いつからこんなに馬が好きになったのだろう...
子どもの頃、山梨の祖父母の家に遊びに行ったときに、居間に馬の群れの絵が飾ってあったのを憶えている。その絵にどんないわれがあったのか、そんなものはなく単に誰かから貰ったのを飾っていただけなのか、その辺のことはわからない。
ただ、赤い生肉をたくさん食べたあとに、それが馬の刺身だったと知らされて、その絵の前を通るたびに立ち止まってポカンと眺めた。ショッキングではあったけれど、馬がかわいそうだとか、そういう感情ではなかった。むしろ、何か馬のパワーだとか霊みたいなのを体内に取り込んだような、そんなスピリチュアルな気持ちだったはず。
でも、男の子はみんなトラやライオンが好き。ピューマとか。西遊記の影響で?サルなんかも人気だったかな。そうした中、好きな動物は馬だと言うとみんなにバカにされたもんだ。
親族に馬好きがいるかと言うと、そうでもない。ただ、曽祖父が今でいう運送業のようなことをしていて馬を飼っていたらしい。父は厩の匂いがイヤでイヤで、曽祖父の家に行くときは家の中に入るまで息を止めていたとか。
その曽祖父は同業者なんかと集まって草競馬もしていたそうだ。〝オカ競馬〟(岡?丘?)と呼んだらしい。
ぼくにとってのヒーローは武田信玄だったので、武田の騎馬隊というものを知って、馬好きに拍車が掛かった。
16になるとすぐにバイクの免許を取り、19でモトクロスを始めたけど、気持ち的には〝鉄の馬〟に跨っているつもりだった。こうして見てみるとあまり馬っぽくないけど。
馬に初めて乗ったのは熊本での外乗で、実は30を過ぎてからだった。
それがキッカケでもっと馬に乗りたいと思い、乗馬トレッキングにモンゴルまで出掛けたこともあった。
実現はしなかったけれど、馬でセルビアからブルガリアへ行く計画もあった。
でもいつかそれは実現したいと思っている。
北海道なんかへも馬に乗りに行ったけど、結局飽き足らず、乗馬クラブに入会したというわけ。
馬と空と珈琲と... 他には何も要らないと思う瞬間がある。
今日も幸せなおっさんであった。