お花見という行事など社会人には必要ない、と悠哉は思う。
あたりは喧騒に包まれていて、酒に酔い後輩に熱弁をふるうお偉いさんや、飲みすぎて大の字で寝ているものもいた。
今日は新春お花見大会という、列記とした会社の行事の日。『第十九回』だとか、『毎年恒例』だとかがつくんだから、去年も行われていたのだと思う。
――と、入社五年目の悠哉がいうのも、この行事に参加するのがはじめてだからで、以前五年間はというと、一年目はこの時期季節はずれに流行ったインフルエンザのせいで、中止。二年目からは、この時期、ちょうど海外に赴任していて、オーストラリアで晩秋を楽しんでいたのだった。
そして今年やっと参加できる、と思ってうすうすは期待していた。が、その結果がコレである。
「気持ち悪ぃ……」
桃色の密集地から少し離れたところのベンチに腰かけ、悠哉は額に自販機で買ったスポーツドリンクの缶を押しあてる。
さっきまで若手社員たちによる、酒の飲みあい、つまりアルコール耐性バトルが行われていて、それに悠哉も初めてということで参加させられていたのだった。普段あまりアルコール類を口にしない悠哉。その結果はもちろん緒戦敗退だ。
ったく、課長。あなたが背もたれにしてる電信柱のポスター呼んでくださいよ。『No! IKKI』! 一気飲みって危ないんですよ!?
酒のせいか少し悪態付きながらも、悠哉はカシュ、とプルタブをあけ、中の半透明な液体で喉を潤す。
そのほどよい酸味とさっぱりした甘さが口の中にひろがり、いくらか気分がマシになった。
……まあこうやって眺めてるんだったら、お花見も良いかもしれない。よく見ていなかったが、こうやって見ると貧相な散りかけ桜もまた違った感じで……
「……また一興、ってやつかな」
「なにがですか?」
自分の真後ろ。不意に、喧騒に混じって声が聞こえてきた。
悠哉が振り返ると、さっきの声から想像したとおりの顔がそこにあり、なにやら安堵したような表情。
「あ、水木先輩ですよね? よかったぁ……、今日みんな背広着てるから髪型でしか区別つかないから……」
「ん? ……ああ、なんだ、夕魅か……」
セミロングくらいの髪を、ツインテールに縛り、足元は春らしいハイヒール。えくぼを作りながら、「なんだとは失礼なっ」と笑っている彼女は、枝村夕魅。二つ下の後輩だった。
「ああ、悪い悪い。……で、どうしたんだ? こんなところで」
すると夕魅は笑って、
「いやいやいや、先輩に言われたくないですよ。……先輩こそ、こんなところでどうしたんですか? 楽しそうですよ? 一気飲み大会」
見てる方はな。やってるこっちは地獄である。
「さっきリタイヤしてきたんだよ。……俺が酒に弱いの知ってるだろ?」
「ははは、そうでした」
夕魅はゆっくりとした動作で、ベンチを回り込み、悠哉の横に座る。近くで見た彼女を頬は、今日は少し濃い目に化粧をしたらしく、ほんのり赤く染まっていた。
彼女とは去年、悠哉がこっちへ戻ってきて初めての仕事で一緒になり、それ以来幾度となくともに仕事をこなし、今ではたまに飲みに行ったりもするような仲になった。
「だいぶ顔が青いですけど、大丈夫ですか?」
「なんとかな……」
というように彼女は思いやりがあり、よくできた娘だ。そんな後輩が慕ってくれるとは、自分って幸せ者だな、と思う。
「それにしても、うちの会社、社員こんなにいるんだな……」
「あ、それ私も初め思いました。なんだかんだで、結構儲かってるんですよね、この会社。不景気、不景気とかいいつつ、ボーナスだって定額ちゃんと出ますし」
「ああ。よかったよ、いい会社に入れて」
「私もです」
それにせんぱ……えたし……、とその後に小さく聞こえたが、悠哉は干渉しないことにした。独り言に突っ込まれたくはないだろうし、自分が嫌な事は人にしない、ということが、人間関係を円滑にする第一歩だと思う。
なんて悠哉がしみじみ思っていると、不意にどこかから歓声が上がった。見るとなにやら社員らしき男女が、みんなに見守られながら、赤いような顔でケータイ電話をつき合わせていた。
「なんだありゃ……」
酔ってんのか?
「多分……」夕魅もそちらを向いて、口を開く。「ケータイの番号交換ですよ。ほら、赤外線で」
「ああ、なるほど。でもそれだけでそんなに盛り上がるか?」
「合コンでもやってたんじゃないですか? それでカップルが成立した、とか」
「ほう……」
悠哉は納得。なるほど、社員もこんだけ多ければ職場恋愛だったあるだろう。それで今日はお酒もはいっていて、さらに大勢集まるのだから、まさに新たな出会いに遭遇するのに絶好のチャンスだろう。
「で、夕魅は参加しなくていいのか?」
「……ふぇ?」
「いや……、ふぇ、じゃなくてだな」
頓狂な声を出す夕魅に、悠哉は言う。こいつだって女だ。そういうことに興味がないわけじゃなかろうに。
「こんなとこで俺といていいのか、ってことだよ」
「え? ……あ、そのッ。あの……いいんですっ!」
夕魅の口から、しどろもどろに言葉が漏れる。やはり酒が入ってるのか、顔が真っ赤である。
「えーと……、そのっ。だ、だって私はせんぱ――」夕魅がぎゅっと目を瞑って、振り絞るように言葉を紡ぐ。
そのとき。
「おーい! 水木ぃ、ちょっといいか?」背後から野太い声がした。
振り返ると、そこには毎日のように顔を突き合わせている、
「あ、部長。お疲れ様です」
彼は小山内郡司といって、悠哉の所属する部署の上司だった。もう五十を過ぎているというのに、堀の深い目や、適度に伸ばした髭により、外国のヒットマンのような風貌。しかしそんな外見とは打って変わって、優しくて、いい上司である。
ぺこりと頭を下げた夕魅に片手を挙げつつ、小山内は用件を告げる。
「おう、水木。ひとつ頼まれてくれねえか」
彼はポケットからタバコの箱を取り出し、一本手に取り火をつける。
「実はな、さっき得意先から電話があってよ。送るはずだったメールが届いてないんだ」
小山内は紫煙をふかしながら、すまなそうに柳眉を寄せ、
「悪いが、俺のデスクいって送ってきてくれねえか? 俺、今酔っててさ。車出せねえんだよ」
彼は片手で頼むようなしぐさをする。
日ごろお世話になってる上司だ。悠哉としても頷きたいところだが、生憎現在自分もアルコールに浸ってる状態である。
「あ……えーと。実は俺も酔ってまして……」
すると彼は一瞬驚いた様な顔をした後、
「……そうか。困ったな……」
渋い顔で、部長は口の端から煙を吐き出す。
と。
「あ、あの……」
ふと、さっきから黙っていた夕魅が、おずおずと声を上げた。
「あの、私飲んでないんで、出しましょうか? 車」
「え……夕魅、飲んでなかったのか?」
「は、はい。私、お酌ばっかしてて……。って! なんですか二人とも! そんな意外そうな顔して!」
どうやら部長も、悠哉と同じ顔をしていたらしい。……まあ、彼女と酒の席を共にしたことがある人なら、誰だってそうなるだろうけど。
「ははは、悪い悪い。……じゃあ、枝村。車、頼んでいいか?」
「あ、はい。わかりました」
「おう、悪いな」
話がまとまった。そこで悠哉も、タバコの灰を落としている部長に言う。
「あ、じゃあ」最初に頼まれた自分がなにもしないわけにはいかない、
「俺もいきますよ。ここにいても、暇ですし」
それに、もう酒は勘弁だ。
「ん、そうか? じゃあ、水木も頼まれてくれるか?」
悠哉は頷き、手に持っていた缶の中身を全部喉にながした。
「すまんな、二人とも。……じゃあ頼んだ」
部長は悠哉にメールのあて先や、中身を簡潔に話し、そういった。
ここから会社のビルまでは、片道二十分くらいだった。行き返りで四十分。夕魅には悪いが、それまでにお開きになってほしいものである。
「はい。……じゃあ行きましょうか、先輩」
「あ、ちょっと待って、これ捨ててくる」
Notポイ捨て。悠哉は小走りで、空になったアルミ缶を、自販機の列の一番はしにあるリサイクルボックスに。
と、その間、
「……枝村、今、あいつ酔ってるからチャンスだぞ」「な、なにがですか!」「なにっておめえ……そりゃもちろん……」「しませんッ、そんなこと!」「ははは、まあ、アレだ。……自由解散だから、ここ戻ってこなくても……」「部長っ!」
というやりとりがあり、何もしらない悠哉に、顔赤いぞやっぱ飲んだんじゃないのか夕魅、とか聞かれたのは別の話だ。