72 グリーンティーの香り

 

リビングのローテーブルの上の、バラ柄のスポードのカップには、冷めた紅茶が残っていた。

しかし、開け放った続き間の仕事部屋では、アールグレイではなく、大おば様特注のフランス

香水の匂いだけが、なおも漂っている。

 

僕は、手にしていた受話器を置き、再度窓を開けるために立ち上がった。目つきのよろしく

ない大きなカラスは、どこかへ姿を消していた。ジョルジュからの電話の終いに啼いたのが、

お約束通りnever moreのつもりなのかどうか、確かめようにも相手はいない。

 

窓の下に、両手を差し込んで持ち上げる。ガラスの窓が、さっきよりもずっと重たい。

ふいに下から強い風が吹き込み、僕は木枠を持ったまま顔をそむけた。部屋の中を

カサカサと音を立てて紙が飛ぶ。

 

   『お探しになっている家は、ご本人が特別に慕わしく思っていらっしゃるお相手のもの

    と思います。ですが、一度も向き合うことなく、そのように突き放されるならば、二度と

    お近くに戻られないでしょう。』

 

1,000マイル彼方からジョルジュが放った遠投の球が、痛かった。先夜アーチーに

至近距離で真っ直ぐをぶつけられたのと同じ辺りに、見事に命中した。喉の奥か、

胸の途中か、腹の上のほうか。ズキズキとする。

 

“二度とはない”って、ジョルジュ。

カラスと一緒になって、君までもが、never、never、と言わないでくれ。

 

なあ、ジョルジュ?そうだとしても結局、どうしようもないだろう?

なのに、アーチーとは違って事情を知る君が、どうしてそんなことを言う?

 

窓ガラスを固定する留め金をはめた後、僕はゆっくり腰を伸ばした。シカゴのビル街の

はるか向こう、東の空へ目をやる。

 

ウィリアム・A.・アードレー。

一族の大総長としても、ビジネスのトップとしても、その役目を果たすにあたって、

ミドルネームのAは無くともよい。近いうちに嫌でも表社会に立つ。そうすれば、

僕が単なるA、アルバートでいられる時間など、ほとんど無くなるということだ。

 

Aの抜けた僕。それは彼女にとって、男でもなく、友人ですらなく、何だと思う?

 

そうだ、養親。

 

やがてアードレー家の当主として世間に、そして彼女に名乗り出た後には、僕は

二度とただのアルバートに後戻りすることはできず、あの子の父親でいるしかない。

 

父親だって!

 

ゾッとする。僕が僕だという記憶が戻った後も、本当は今もまだ、信じられない。

いや、信じたくない、納得できないとあがいている僕がいる。いったいどうしてー

 

ジョルジュには、ここで、アンソニーたちの手紙のことを話した。

だが、少年たちのせいではない。他にも彼女を助ける手はあったのだから。

いくつも違わない、まだ23、4の自分が、親になってやろうだなんて・・・

それを善行だと思ったなんて。

僕は救いようもなく傲慢で、思い上がっていたのかもしれない。

 

この痛みは報いか。痛くて、ひどく息が苦しい。

 

シャツのボタンをひとつはずして襟元を緩めた時、突然、東の空に激しい稲妻が

光った。続いて頭の中で、鞭打たれたようなバチンという衝撃が弾けた。

それから、ひどい眩暈が襲ってきた。思わず手を付いたガラスが激しく揺れる。

吐き気とともに、ミルクに混ぜた紅茶が喉に戻りかけ、頭全体がザーッという轟音に

包まれた。

 

息を、息を、しなくてはー

 

ギザギザになった光の線が、目の裏側にいくつもいくつも繰り返して映った。

まぶたを開いていても、灰色の空もシカゴの街も窓ガラスさえも、見えなかった。

 

   『落ち着いてください。大丈夫ですよ、アルバートさん。ゆっくり、息を吐いて、

    吸って、そう、もう一度。大丈夫ですよ。大丈夫。ね、ここにいますからね。』

 

そうだ、吐いて、吸って、吐いて・・・

 

      『ウィリアム様のことを気にされて、早く帰りたいとおっしゃっていました。』

 

ゆっくり息を・・・大丈夫、大丈夫だ・・・。キャンディ。僕は大丈夫だから・・・

 

轟音の中に、やけに調子の狂ったバグパイプの音が鳴って聞こえた。

それとは別に、あの子とジョルジュの声がしたような気がする。そしてさらに、

他の誰かの声が、部分部分、途切れ途切れに聞こえてきた。

 

『福祉局の意見では』

『孤児を支援する教会組織の集会で』

『州法改正の動きがあり、養女とされるのは』

 

誰の声だ・・・?

ああこれは・・・懐かしい感じだ。昔・・・そうだ、チャーリー・・・。

チャーリーはうちの弁護士で・・・弁護士・・・?

彼は何を・・・言っているんだ・・・?

 

僕は窓枠にぶら下がるような体勢で膝を付き、必死に呼吸を繰り返して

苦痛をやり過ごそうとした。全身の毛孔から汗がふき出してくる。

 

やがて、陰になっているカーペットの柄に、ぼんやりながら目の焦点が合うようになった。

身体を反転させ、背を壁に預けて座り込む。夏用の麻地のカーテンの束が、腕に触れた。

 

雲が途切れたのだろうか。差し込んだ一筋の光が、デスクの前の棚の上に置かれた

時計に反射して、僕の目に入った。文字盤が浮かび上がって見える、水晶でつくられた時計。

人から贈られた精巧なものだ。ニューヨークの宝石商の・・・

 

「カルティエ」と喘ぎながらつぶやいた時、目の前でチカチカと光っていたギザギザが、

見えなくなっていることに気付いた。視界で光るものといえば、ミステリークロックと

呼ばれている置き時計が、キラキラしているだけだった。

 

僕は胸を上下させて、なおもゆっくりと大きく息をした。

 

今、いったい何が悪かったんだ・・・。

記憶を取り戻そうとして、発作を起こすほど頭を使ったか?息を詰めていたか?

 

・・・聞こえた声は・・・チャーリーの声?

あれは、失っていた記憶・・・なのだろうか。

実際に聞いたような気がする。

・・・“孤児”、“養女”は・・・あの子のこと・・・だろうか。

・・・あの時の弁護士はチャーリー・・・?

 

    『必要な手続きは、弁護士にお任せになったのではありませんか。ですから、

     詳細がご記憶に無いのかもしれません。』

 

チャーリーがいつ辞め、今の葉巻好きの弁護士がいつ雇われたのか。

僕はそんなことも忘れている。いや、確かめればすぐわかることだ、考えるな、考えるな。

 

僕は、風でクシャクシャになっていた髪をかき上げた。毛先から汗が飛んだ。

着ている服もビショビショだった。

 

今日、大おば様が珍しくこの場所に僕を訪ねて来られた本来の理由は、僕に、

入院中の長老に会いに行けと伝えることだった。ネズミやニールや、ジョルジュの話に

気を取られ、肝心なことをすっかり忘れていた。気は進まないが、出かけなければいけない。

 

着替えたい。僕は、這うように動きだした。まだ気持ちが悪くて、立てなかった。

 

こう頻繁に、何度も何度も発作を起こす、この後遺症はいつ治る。治るのか。

毎度こんなに消耗しては、死にかけの長老よりも早く、俺のほうが先にくたばっちまう。

 

デスク周りに、いろんな書類が散らばっていた。僕は、バスルームへ移動する途中で、

大おば様が置いていった茶封筒を拾ってデスクに上げ、割れた積層岩の片割れを

その上に載せた。

 

茶封筒の中身は、今まさに死にかけの大長老、倒れて入院中の、祖父の末弟からの文書である。

それが相互署名前の融資契約書なのは、さっき見てわかったが、

個人ではあり得ない莫大な金額が記されているにもかかわらず、相手がさっぱりわからなかった。

担保も不明だ。詳しいことは御老体が直接説明される、ということらしかった。