今から13年前の2011年3月11日 金曜日

 

この日の東京は若干気温が低いながらも天気は良く、いつもと変わらない1日になると思って私は仕事に向かいました。

 

当時お勤めをしていた私は朝出勤して仕事をし、お昼を食べて午後の仕事をし、そして、14時45分…15時に退勤するパートさんから残りの仕事の引き継ぎをうけるために建物の一階に移動。

 

そして14時46分…

 

震度5強の地震が東京を襲いました。

 

地震のイラスト「揺れる街」 | かわいいフリー素材集 いらすとや

 

五階建ての建物は大きく揺れ、一階のカウンターに置いていたものは落ち、建物の前の電柱は大きく揺れて線路の高架も右へ左へと揺れ、このまま折れて崩れるのではという恐怖を抱いたのを覚えています。

 

立て続けに震度5弱~3の余震がおこり、ある程度揺れがおさまったタイミングで5階の事務所へ向かえば、5階は書類が散乱して棚から荷物が落ち、エレベーター前にあったロッカーはエレベーター側に倒れて通路を塞ぎ、大変な状態になっていました。

 

どうにか職員全員で片付け、近隣に住んでいる上司以外は帰宅をしていいと言われたので16時頃に退社。しかし、当然電車はとまり、携帯電話は繋がらず、バスやタクシー乗り場は混雑して乗れるまでにどれぐらいかかるかわからない。そこで、安否確認のためにコンビニ前にあった公衆電話で家に連絡し、職場から約2時間歩いて帰ることに。

 

幸い、当時私は健康のために職場から自宅までの道をよく歩いて帰っていたので、道に迷うことなく進むことが出来ましたが、途中駅の場所等を尋ねられることが多かったです。こういう事態を考え、日頃から職場やよく行く場所から徒歩で帰るルートの確認の必要性を感じました。

 

いつもはそれほど混雑していない道や橋もこの時は同じように歩いて帰る人々が溢れ、橋の狭い歩道を歩くのにも渋滞のようになっている。今まで経験したことのないことに皆恐怖し、離れて暮らす家族をあんじる声、繋がる事を願いながら携帯で電話をかけ続ける人が多くいました。その頃には各地の被害状況がニュースで報道され、東北地方を襲った恐ろしい津波や福島第一原発の情報が入ってきたのです。

 

家のことを心配しながらどうにか帰宅し、離れて暮らしている家族含め全員の無事を知った時、とても安心したのを覚えています。

 

 

地震後の生活

 

地震の後、しばらく竹ノ塚駅は電車が動いておらず、動いてもかなり本数が少なくて駅の外側に100m以上人が並んでいました。大きな被害のなかった東京でこのような状態だったので、被災地の方々の苦労はいかほどのものだったのか……

 

私は翌日も出勤だった為、電車はやめて一時間自転車をこいで出勤しましたが、反対側から沢山の人が歩いてきました。その人たちは地震当日に帰宅することができず、どこかで夜を明かして帰ってきた帰宅難民の人達。あの時は多くの人が今まで経験したことのないことを経験し、大変な思いをしたのです。

 

その後の、計画停電などで電気がとまったり等があり、竹ノ塚駅周辺も対象になり、真っ暗な中を携帯のライトや懐中電灯を照らしながら皆歩いていました。

幸い珠算塾のあるエリアは計画停電の対象にはなりませんでしたが、職場の同僚の自宅があるエリアは何度も計画停電の対象になり、夕食は蝋燭をともしながら家族で食べたと言っていました。この計画停電は幸い2週間ほどで終わりましたが、あの時のことは今でもよく覚えています。それだけ印象深い出来事でした。

 

そしてあれから13年

 

今なお13年前に被災した人のうち、いまだに3万人弱の人達が住んでいた地域を離れ避難している状態です。

更に、今年は元旦に能登半島が地震によって大きな被害をうけ、多くの被災者の方々が住んでいた地域から避難することになりました。

 

あの日の自身が体験したことを振り返るとともに、1日でも早く被災者の皆様が日常を取り戻すことを願います。