◆名著、げすとこらむ。「荘子」 | 芸術家く〜まん843

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ゲスト講師:玄侑宗久
「心はいかにして自由になれるのか」

○玄侑宗久プロフィール

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1956年、福島県生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。さまざまな仕事を経たのち、83年に京都天龍寺専門道場入門。2008年より臨済宗妙心寺派福聚寺(福島県三春町)第35世住職。また、花園大学文学部仏教学科客員教授などを務める。2000年に「水の舳先」でデビューし、翌年「中陰の花」で第125回芥川賞受賞。小説作品に『アブラクサスの祭』『アミターバ 無量光明』『光の山』(いずれも新潮社)、『龍の棲む家』(文藝春秋)、『祝福』(筑摩書房)など、その他の著書に『荘子と遊ぶ禅的思考の源流へ』(筑摩選書)、『現代語訳般若心経』『禅的生活』(ともにちくま新書)、『しあわせる力 禅的幸福論』(角川SSC新書)、『釈迦に説法』(新潮新書)などがある。

◯『荘子』ゲスト講師 玄侑宗久
「心はいかにして自由になれるのか」

『荘子』は今から約二千三百年前、中国の戦国時代中期に成立したとされる思想書です。著者の名前も荘子(荘周)ですが、この書は彼とその弟子たちが書き継いだものが一つにまとまった本です。歴史に名を遺す思想家たちを見てみると、孔子もお釈迦様もソクラテスも、自著というものを遺していません。その思想を弟子たちが書き遺したことで師匠の名前が残ったわけですが、『荘子』の場合は明らかに荘子自身も書いており、師匠と弟子の合作という珍しいスタイルの本になっています。 

ちなみに荘子の読み方ですが、儒家の曾子と区別するため、日本では「そうじ」と濁って読むのが中国文学や中国哲学関係者の習慣となっています。

『荘子』は、一切をあるがままに受け容れるところに真の自由が成立するという思想を、多くの寓話を用いながら説いています。「心はいかにして自由になれるのか」。その思想は、のちの中国仏教、即ち禅の形成に大きな影響を与えました。寓話を使っていることからも分かるように、『荘子』は思想書でありながら非常に小説的です。じつは、「小説」という言葉の起源も『荘子』にあって、外物篇の「小説を飾りて以て県令を干(もと)む」という一節がそれです。「つまらない論説をもっともらしく飾り立てて、それによって県令の職を求める」という意味で、そのような輩は大きな栄達には縁がないと言っています。あまりいい意味ではないのですが、これが小説という言葉の最古の用例です。

実際に、日本でも作家や文筆家など、多くの人々が『荘子』から創作への刺激を受けています。よく知られたところでは、西行法師、鴨長明、松尾芭蕉、仙厓義梵。良寛も常に二冊組の『荘子』を持ち歩いていたと言われています。近代では森鷗外、夏目漱石、そして分野は違いますが、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士も『荘子』を愛読していました。中間子理論を考えていた時に、『荘子』応帝王篇の「渾沌七竅(しちきょう)に死す」の物語を夢に見て、大きなヒントを得たといいます。

『荘子』は反常識の書だ、ただ奇抜なだけだ、という人もありますが、私にとっては常に鞄に入れて持ち歩くほど大切な本です。ふと思いついてパッと開いたところを読むだけで、何かがほどけるような気分になります。とかく管理や罰則など、いわゆる儒家や法家的な考え方が支配的な世の中です。社会秩序とはそういうものかもしれませんが、果たしてそれは個人の幸せにつながるのか……。『荘子』には常にその視点があります。個人の幸せというものをどう考えるかという視点に立つと、荘子の思想は欠かせないものなのです。 

今、人々は、言葉や思想というものが大変恣意的な都合でできあがっている、暫定的なものであるという認識を失くしているように思います。たとえば、いわゆるグローバリズムの名の下に行なわれていることは、汎地球主義ではなく、欧米的価値観の押しつけだったりもするわけです。じつはさまざまな民族や宗教による考え方は非常に相対的なものであり、何かが絶対的に正しいというものではない──と、徹底的に笑いながら話しているのがこの『荘子』です。

また、東日本大震災を経た今、私たちは「自然」というものをもう一度とらえ直すべきではないかとも思います。いつしか人間は、自然というものは、自分たちが全貌を理解して制御することが可能なものだと思い込んでいたのではないでしょうか。自然とは恐ろしいものであり、人間がその全てを把握することなどできないという認識が、なくなっていたのだと思います。荘子は、人知を超えたあらゆるもののありようを「道」ととらえました。言い換えればそれが「自然」でもあります。自然とは何か。それをもう一度考え直す時に、『荘子』は最良のテキストになると思います。

『荘子』の徳充符篇に、「常に自然に因(よ)りて生を益(ま)さざる」べしという言葉があります。「自分の生にとってよかれという私情こそがよくない、それが却って身のうちを傷つけるのだから、私情なく自然に従うべきだ」という意味ですが、今の世の中はその正反対で、自分の生にとってよかれという情報ばかりが欲望されています。また応帝王篇には、「物の自然に順(したが)いて私(し)を容るることなければ、而(すなわ)ち天下治まらん」という言葉もあります。「私情を差し挟まなければ、天下はうまく治まる」ということです。ところが今の世界は、国家と国家がエゴをぶつけあう緊迫状態にあります。このように、個人も国家もエゴを主張しあう現在だからこそ、肩の力を抜いて「和」を目指すことを説く『荘子』が、とても重要な書だと思うのです。

じつは、荘子は「言葉」というものを信用していません。「夫(そ)れ言とは風波(ふうは)なり」(言葉は風や波のように一定せず当てにならないものだ)という人間世篇の言葉が、荘子の基本的な態度で、これは禅の「不立文字」にもつながっていく思想です。しかし荘子がそう言っているからといって、努力なしにいきなり「言葉はダメだ」と言っても仕方がない。言葉がどこまで役立つか、私なりに挑んでみましょう。「妄言」しますから「妄聴」してね──というのが荘子の態度です(「予(わ)れ嘗(こころみ)に女(なんじ)の為めにこれを妄言せん。女以(もっ)てこれを妄聴せよ」斉物論篇)。この番組テキストも、「妄読」していただければ幸いです。