2014年12月100分de名著「シェイクスピア ハムレット」 | 芸術家く〜まん843

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「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」

この名台詞で知られ、悩める人たちのシンボルともいえる「ハムレット」。
12月の「100分de名著」は、
「人はなぜ悩むのか」
「愛する人とどう向き合うのか」
「迷いを超えてどう決断するのか」
等、悩み多き現代人にも通じるテーマが描かれたシェイクスピア作「ハムレット」を取り上げます。

伯父クローディアスに王位と母親を奪われたハムレットは、やがてそれがクローディアスの謀略だったことに気づき、復讐を決意します。
しかし、ハムレットはなかなか決断できず行動に踏み切れません。
熱情に身をまかせ死をも厭わず復讐を成し遂げるべきか、理性によって感情を抑え耐え忍ぶべきか?……悩み続けたハムレットは様々な試練を乗り越え、やがて「弱き人間としての己の限界」を自覚し、真に気高い人間がなすべきことに思い至ります。

シェイクスピア研究の第一人者、河合祥一郎教授(東京大学)は、「ハムレット」の物語が巷間いわれているような単なる「復讐劇」ではなく、「正義を行うにふさわしい真に気高い人間の生き方とは何か」を追求するドラマであるといいます。
今年はシェイクスピア生誕450年。河合教授にシェイクスピアの傑作「ハムレット」を新しい視点から読み解いてもらい、「自らの悩みとどう向き合い、どう乗り越えていくか」という現代人にも通じる普遍的な問題を考えていきます。

◆第1回 「理性」と「熱情」のはざまで

【ゲスト講師】
河合祥一郎(東京大学大学院教授)

「ぐずぐずして決断を先送りする優柔不断な青年」と見られがちなハムレット。
しかし、行動をためらうのには、大きな原因があった。
そこには、中世から近代へ向かうに際し、近代人としてのアイデンティティを確立しようとする人たちが不可避的にぶつかる問題があった。
ハムレットの躊躇は、優柔不断な性格からではなく、「理性」と「感情」の相克という近代人の宿命に根ざしていると河合教授は指摘する。
第一回は、ハムレットが行動を躊躇する場面を詳細に振り返りながら、「ハムレットの悩み」の真実に迫る。

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◆第2回 「生きるべきか、死ぬべきか」

【ゲスト講師】
河合祥一郎(東京大学大学院教授)

「ハムレット」の登場人物には、それぞれ人間の特質が象徴されている。
物事を冷静に見つめることができず激情に流されてしまうレアーティーズ、逆に思慮深く冷静だが行動に出るのには慎重すぎるホレイシオ、そして、理性と熱情を見事に調和させ崇高な使命に邁進するフォーティンブラス。
主人公ハムレットは、それぞれの行動を見つめ、自分の身に当てながら、自分がどう生きるべきかを考えていく。
真に正しい生き方をするためには、自分の短所とどう向き合い、どう克服していけばよいのか。
「生きるべきか、死ぬべきか」という台詞には、人間としてあるべき生き方を問う普遍的な問題が含まれているのだ。
第二回は、それぞれの登場人物から見えてくるシェイクスピアの人間観や「生きるべきか、死ぬべきか」に込められた深い意味に迫る。

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名著、げすとこらむ。
ゲスト講師:河合祥一郎

「謎めいた最高峰」

『ハムレット』は、一六〇〇年頃にイギリスで書かれてから、四百年以上経ったいまもなお頻繁に読まれ、世界中で上演され続けている、シェイクスピア悲劇の最高峰です。
これは四大悲劇の最初の作品でもあります。
四大悲劇とは、シェイクスピア後期の戯曲のうち、悲劇時代と呼ばれる一六〇〇~〇六年に書かれた『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』の四つの悲劇を指します。
有名な『ロミオとジュリエット』がこのなかに含まれないのは、初期の作品だからです。
悲劇の他にも、シェイクスピアは喜劇や歴史劇、問題劇(喜劇だが観終わってすっきりしない劇)、ロマンス劇(荒唐無稽な物語劇)と分類される戯曲を、共作も含めておよそ四十作書いたとされています。
なかでも『ハムレット』は大変よく知られた戯曲ですが、これはおそらく一般に考えられているよりもさらに奥の深い作品です。
そしてこの作品は多くの謎に満ちています。
なぜハムレットはぐずぐずと復讐を遅らせ、あっさりと仇をとってしまうことができないのか?
なぜハムレットはオフィーリアに「尼寺へ行け」などと言うのか?
オフィーリアを愛していないのか、愛しているなら、なぜあんなにひどい、冷たい仕打ちができるのか──。
『ハムレット』の謎は、他にも挙げればきりがないほどたくさんあって、今日にいたるまで多くの人々を悩ませてきました。
『ハムレット』が「文学のモナ・リザ」とか、「演劇のスフィンクス」とか呼ばれてきた所以です。
またその謎によって、『ハムレット』は数々の誤解も生んできました。
ハムレットは優柔不断な青年だから、なかなか行動への決断ができないのだ──そんな誤解をしている人も多いのではないでしょうか。
誤解を解くためにはまず、この作品が復讐劇として始まりながら、後半はもはや復讐劇ではなくなるという複雑な構造をおさえておく必要があります。
劇の焦点は、人が生きるとはどういうことかという問題に移ります。
これはきわめて哲学的な劇なのです。
そもそもシェイクスピアはとっつきにくい、と思われる方もいらっしゃるでしょう。
確かに、ほんの一言でさらりと言えそうなことを厖大な言葉で延々と語ったり、普通なら使わないような言い回しを使ったりするので、慣れないと驚かれるかもしれません。
それはなぜかといえば、シェイクスピアの台詞は詩であり、ときおり日常の言葉である散文を混ぜ合わせながらも、ほとんどが韻文のリズム(韻律)で朗唱されるものだからです。
また、「シェイクスピア・マジック」ともいわれるように、いきなり時間や空間がワープしたりすることもあって、私たちが考えるリアリズムでは理解できない、つじつまが合わない現象も起こります。
これを理解するためには四百年前のルネサンスの時代、シェイクスピアが活躍したエリザベス朝演劇の舞台についても知る必要があります。
シェイクスピア劇は西洋の翻訳劇なので、日本では新劇(近代演劇)の仲間だと勘違いされることも多いのですが、実はそうではなく、日本でいえば徳川家康の時代のものですから(シェイクスピアと家康の没年は同じ一六一六年です)、むしろ狂言の舞台に近いものでしょう。
そんなあれこれも含めて、これからこのミステリアスな最高峰の謎解きに挑んでみたいと思います。
それは、なぜこの作品がこれほどまでに人々の心を摑むのか、という大きな謎を解こうとする試みともなるはずです。

◆河合祥一郎(かわい・しょういちろう)東京大学大学院教授プロフィール
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1960年生まれ。東京大学文学部英文科卒。東京大学大学院より博士号、ケンブリッジ大学よりPh.D取得。主著に『謎解き「ハムレット」――名作のあかし』(三陸書房)、『ハムレットは太っていた!』(白水社、サントリー学芸賞受賞)、『シェイクスピアは誘う』(小学館)、『シェイクスピア・ハンドブック』(共著、三省堂)ほか、翻訳にシェイクスピア新訳(角川文庫)ほか多数。戯曲に『国盗人』(白水社)、『家康と按針』(共同脚本)、文楽脚本『不破留寿之太夫』などがある。翻訳をつとめた舞台「ハムレット」(蜷川幸雄演出、藤原竜也主演)が、2015年1月~ 2月に上演される。

◆第3回 「弱き者、汝の名は女」

【ゲスト講師】
河合祥一郎(東京大学大学院教授)

「ハムレット」には、母ガートルードや恋人オフィーリアなどを通して、「愛する人との向き合い方」についてのさまざまな問いが描かれている。
たとえば、「尼寺へ行け!」という有名な台詞は、愛する人に対してあまりにも冷酷な言葉であり、なぜここまでハムレットが冷酷に豹変したのかは、大きな議論を呼んできた。
従来は、オフィーリアの裏切りに気づいたハムレットが、女性に対する憎悪を燃やして吐いた言葉だとされてきた。
だがテキストを仔細に検討すると、むしろこの言葉は、自分も含めた醜い世界と縁を切らせ、オフィーリアを守ろうとした「愛の言葉」ではないかという解釈が浮かび上がる。
第三回は、ハムレットが女性たちとかかわるシーンを振り返りながら、「愛する人との向き合い方」を考える。

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○もっと「ハムレット」
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クローディアス
「言葉は宙に舞い、心は重く沈む。心の伴わぬ言葉は、天には届かぬ」
(「ハムレット」第三幕第三場)

ハムレット
「君たち、青白い顔をして、この出来事に震えているのは、まるでこの芝居のだんまり役か観客だな」
(「ハムレット」第五幕第二場)

「削るべきか、残すべきか、それが問題だ」

ちょっとハムレット調に悩んでみましたが、これは、番組編集作業の中で私たちがいつもぶつかる問いです。
スタジオでの収録時間は、放送時間のおよそ2倍~3倍。
通常なら余計な部分をそぎ落としていけばおおよそ放送時間内におさまるものなのですが、一番困るのは収録が想像以上に白熱した場合。
どの部分を使っても面白いので、どこを削ったらいいのか本当に悩みます。
まさに「うれしい悲鳴」です。
で、冒頭の問いが頭の中を駆け巡る。
今回は、司会の伊集院光さんと講師の河合祥一郎さんのお二人のトークが化学反応を起こし、「ハムレット」の読解が想像をはるかに超えて深まりました。
作品内容をコンパクトにわかりやすくお伝えするという番組主旨から、この「深読み」はどうしても時間内におさめることができませんでした。
だけど、本当にもったいない。そこでこちらでご披露したいと考えたわけです。
最初のセリフは、先王を殺した罪をクローディアスが懺悔するシーンのラストのセリフ。
散々懺悔した後で「なーんちゃって」と、クローディアスは舌を出すわけです。
懺悔の途中で殺してしまっては、クローディアスを天国に送ってしまうことになる…ということで、ハムレットはクローディアスを殺すことを思いとどまる。
だけど、実はクローディアスは懺悔なんてしていなかった。哀れ、ハムレット!ここで殺してしまえばよかったのに、なんて観客がはがゆい思いをするシーン。
ところが!ここで伊集院さんは新たな解釈を打ち出します。

「ぼくは、真剣に何かを話すことが怖いから、本当のことをいった後に、つい照れ隠しで『なんつったりしてね』っていうことがよくあるんです。つまり、クローディアスはここで、舌を出して『なーんちゃって』といっているわけではなくて、『こんな俺が天国にいっていいわけないじゃん。懺悔で許されていいわけないじゃん』って真摯な気持ちでいっているともとれるのではないか」

このとき河合先生の顔がちょっと青ざめたような感じでした。
そして一言。 

「すごい!ちょっと目が覚めてしまいました…今まで、ハムレットをわかったつもりになっていて本を書こうと思っていたんですけど、まだまだ未熟でしたね」 

ハムレット研究の第一人者の河合先生が、新たな読解の可能性を、伊集院さんの指摘で発見した瞬間でした。
みていた私たちも大興奮。
もしかしたら、このことを河合先生が論文に書かれるかもしれません。
二つ目のセリフは、復讐を成し遂げ死にゆくハムレットが、呆然と見守る観衆たちに投げかける言葉。
普通に考えればそうなのですが…。
河合先生はこういいました。

「これはメタシアターといって、芝居の枠組み自体を見せてしまおうというシェイクスピアのテクニックの一つなんです」

つまり、

「君たち、青白い顔をして、この出来事に震えているのは、まるでこの芝居のだんまり役か観客だな」

というセリフは、芝居の中の観衆に投げかけているセリフであると同時に、リアルに「ハムレット」というお芝居を観ている私達観客自身に投げかけられたセリフでもあるんです。
このセリフは、芝居に没頭していた私たちをいきなり現実に引き戻す効果をもっています。

「観客の君たち、『ハムレット』というお芝居を、自分達とは関係ないものと思って傍観者みたいに見てるんじゃないよ!」

といった感じで。
伊集院さんは、いみじくもこの手法を「ぶちかまし」と表現して、その感動を次のように語っていました。

「役者ごとこっちの現世にタイムスリップしてきた感じも受けるし、逆に俺ら観客ごと向こうのシェイクスピアの世界にタイムスリップした感じも受ける。人によって感じ方がまるで違ってくると思う。お芝居自体の奥行きが一気に広がる。これは映画じゃできない。生の舞台って本当にすごいなって思います」

収録後、河合先生も伊集院さんもいつになく興奮されていました。
収録の合間の雑談で、こんな話が出たそうです。
シェイクスピアの時代には、「道化」「愚者」という存在が常に王様の近くに侍っており、自由な振る舞いが許されていました。
機知に飛んだ言葉や面白い悪戯をすることによって周囲を笑わせ楽しませるのが本来の役割なのですが、王様の言動や行為すら痛烈に揶揄したり批判したりすることも許されていたそうです。
いわば、「笑い」を通じて、世の中の真実を暴き出す役割を担っていたわけです。
伊集院さんは、自分が本業とする「お笑い」という仕事と重ね合わせ、この事実に深く感じ入ったようでした。
「道化」「愚者」はシェイクスピア作品にもよく出てくるのですが、笑いに混ぜながら、最も鋭く真実をとらえた洞察を披瀝していきます。
今回、まさに天才的な「道化」役を伊集院さんが果たすことで、思わぬ引き出しが次々に開かれていったような気がします。
シェイクスピアのお芝居と、スタジオ収録の雰囲気が、400年という時間を超えてリンクした……そんな感慨を持ちました。

◆第4回 悩みをつきぬけて「悟り」へ

【ゲスト講師】
河合祥一郎(東京大学大学院教授)
【ゲスト】
野村萬斎(狂言師)

「生きるべきか、死ぬべきか」。

近代人としての悩みを真正面から引き受けて悩み続けたハムレットは、第五幕でついに最後の決断を行う。
その決断の裏には、自力のみを頼ってあれかこれかと悩むのではなく、

「もう一つ高い次元で、神の導きのまま自力の全てを出し切って最善の生き方をしようという悟り」

があると河合教授は指摘する。
ハムレットは、最終的には、なすべきことを全てやりきった後は、全て運命にまかせようという悟りの境地に至ったのだ。
第四回は、狂言師・野村萬斎氏と一緒に、「ハムレット最後の決断」の意味や、狂言等日本の古典とシェイクスピア劇との共通性を読み解き、「ハムレット」に秘められた普遍的なメッセージを明らかにする。

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NHKテレビテキスト100分 de 名著「ハムレット」2014年12月
2014年11月25日発売

○こぼれ話。

『ハムレット』は哲学である。

今回の講師、河合祥一郎さんが掲げたテーゼ。
これまで「ハムレット」という作品は、優柔不断な青年が悩み続ける悲劇…というイメージしかなかった私にとって衝撃的なテーゼでした。
ハムレットは実は「人はいかに生きるのがもっとも高貴で正しいのか」という問いを最後まで問い続けたのであり、その結果として「悟りの境地」に至る。
その筋がみえたとき、「ハムレット」の見方が180度変わりました。
この作品は、まさに普遍的な生き方を問う哲学だと思いました。
今回の番組で、同じ感触を感じていただけたらうれしいです。
さらに、今回、河合さんと伊集院光さんのトークが化学変化を起こし、さらに新しい扉が開きました。
「もっとハムレット」にもそのあたりは触れさせていただきましたが、番組では全て語りつくせなかったので、ここでご紹介させていただきましょう。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」というセリフ。
これを伊集院さんは、「サラリーマン人生」に見事にたとえくれました。

「勤めている会社が嫌でもう耐えられない。いっそここで辞めてしまって、自分が本当にやりたい夢にかけてみる…そんな手もあるぞ。だが、待てよ、ここで耐え忍ぶことで、自分の家族を養うことができるんだ。我慢して堅実に働き続けサラリーマン人生を続けるのか、夢にかけてサラリーマン人生を終わらせるのか、それが問題だ」

と。こんな風にたとえてくれると、ハムレットの悩みが、遠い世界のものではなく、一気に身近なものになりますね。
「売れないお笑い芸人生活をやめて堅実な仕事につくか、それともあくまで夢を追いかけ続けるか」といった問いもあるだろうし、もう本当に誰にだってあてはまります。
河合先生はこのたとえを「おっしゃった解釈はこのセリフをとても丁寧に読み取っていると思います」と、とても評価されていました。
「生きるべきか、死ぬべきか」と大仰な言葉でいわれるとぴんときませんが、エリザベス朝時代のキリスト教的世界観に生きている人にとっては、全くもって伊集院さんのたとえに近い感覚で、この問題を問うていたのだと思います。

もう一つ、第四回の野村萬斎さんのお話には、本当に感銘を受けました。
シェイクスピアがお芝居をやっていたグローブ座と能舞台が、洋の東西を超えて構造や仕立てが酷似しているというお話は番組にも出てきましたが、番組ではご紹介できなかったお話がもう一つありました。
シェイクスピア劇と能狂言は、その内容自体にも非常に通底するものがあったのです。
シェイクスピアの時代と、能が戦国武将に保護され盛んになった時代はほぼ重なります。
この時代は、中世と呼ばれる時代の後半。
洋の東西を超えたこの時代の共通性を野村萬斎さんは次のようにいいます。

「同じ中世の演劇として、シェイクスピアと能狂言に共通するキーポイントは、人知を超えた存在が出てくるところだと思うんです。マクベスなら魔女、ハムレットなら亡霊。そして、あの世や亡霊を出すのは実はお能の専売特許みたいなところがあるんです」 「グローブ座の天井には、天球のような宇宙観を示すものがあって、能舞台の背景には『松羽目』と呼ばれる神の憑代(よりしろ)がある。いわば、人間を超えた大いなる存在っていうものがちゃんと組み込まれているんです」

近代化の中で私達が失ってしまった、人間を超えた大いなる存在に対する畏敬の念や、人知を超えた存在をなんとか表現しようとする意思が、洋の東西を超えて中世の演劇にはありました。
むしろ、そういうものを感じさせるのが演劇だったのかもしれません。
そして、萬斎さんは、自分がシェイクスピア劇を演出するとしたら、ぜひ「能面」を効果的に使ってみたいといいます。

「現代劇で、生身の人間がそのままで亡霊を演じると、たいてい観客はがっかりしてしまう。亡霊とはどうしても思えないんですよ。亡霊とはなんぞやっていうことがはっきりしないシーンになってしまって。でも、いきなりそこに能役者のような能面がふっと出てきたときの違和感ってすごいんです。具体的でないというころが、かえって余白を生んで、いろんなことを観客が考え始める」

野村萬斎さんは、ハムレット役を演じるだけでなく、いつか演出も手がけてみたいと夢を語っていらっしゃいました。
能面をつけた亡霊が幽玄にたち現れてくる「ハムレット」。
想像しただけでぞくぞくしてきます。
日本の古典と西洋の古典がクロスオーバーする萬斎さんの演出、ぜひみてみたいですね。