俳優・井浦新、若松孝二監督への弔辞全文 | 芸術家く〜まん843

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10月17日、不慮の事故で帰らぬ人となった若松孝二監督。

彼の反骨の魂を次の世代に伝えるために、25日の葬儀で弔辞を読んだ俳優・井浦新が“闘う映画監督”の生きざまを証言。

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若松作品に参加するようになったきっかけは、足立正生監督が35年ぶりにメガホンを取った『幽閉者 テロリスト』の現場です。そこで、「若松孝二も連赤(連合赤軍)の映画を撮る」と知った。いてもたってもいられなくなって、すぐに若松プロに電話して、直談判。オーディションを受け、参加できることになったときは本当にうれしかった。

でも、初めて役者、スタッフが全員集められると、いきなりけんか腰で登場して、ひとりひとりにダメ出し。髪が長かった僕には「おまえ、そんなチャラチャラした頭で、ふざけんな!」と。その衝撃で、すぐに頭を丸めた。後日、「おまえは芝居もヘタクソで、全然ダメだけど、自分なりの反応をすぐに返してきたやつは珍しい。俺は、思ったらパッと行動するやつが好きなんだ」とおっしゃって、その言葉に応えたいと奮起できた。

また、現場でふたりきりになったときに、ふと「君はもっと、いろんなことをやんなさい」と言われたことも忘れられない。「役者とか、俺たちがやってることなんて、底辺の人間のやること。だから、カッコつけちゃダメ。仕事なんて選んじゃいけない。なんでもやりなさい」。その言葉は今も心の支えです。

監督は、いつも心の準備をさせてくれなかった。なれ合いも一切なし。突然オファーがきて、一作一作、新しい気持ちで挑んで、怒鳴られて、怒鳴られて、本当に怒鳴られて。でも、クランクアップすると「あぁ、終わってしまった……」と、茫然自失になるほど夢中にさせられる現場だった。

震災直後、本当に撮れるのか?と思っていた『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』も、「こんなときだからこそ撮らないとダメなんだ」と話してくれた。緊張の連続で、全力疾走した撮影が終わると、「新、ご苦労だった。三島は間違いなくいい作品になったから、次はご褒美だ」と言われ、すぐ『海燕(かいえん)ホテル・ブルー』の撮影に入った。演出は「遊べ」のひと言で、今度は一気に自分を解放して、僕は初めて“演技を楽しむ”という感覚を味わった。それは、誰よりも映画を楽しむ監督がいて、僕らに本当の自由を与えてくれていたからなんだと思う。楽しむこと、自分のやりたいことに対する貪欲な姿勢。映画という何が飛び出すかわからないおもちゃ箱で、遊び倒す監督は最高にカッコよかった。

監督と各地を旅したことも僕にとっての宝。70歳を超えても、いつも身軽な監督から多くのことを学んだ。「見に来てくれる人たちのために、俺たちは必死に努力しなきゃいけないんだ」。そんな監督の声が、今も耳にこだましています。