私が最初に働いたのが工場であったこともあり、安全ということにはことのほか厳しかった。
入社2年目に製造所の労働安全大会という大きな行事が行われて参加した。
その時にゲストできていた方が大変な熱量で、経験された死亡事故を例にとり、「事故は憎まなければいけない。憎んでなくさなければいけない」ということを主張されていた。その時はその言葉が印象に残ったが、その意味を知るのは1年後だった。
その1年後、隣の会社で事故が起こった。隣の会社と言っても、隣の会社と弊社の合同研究開発パイロットプラントで、隣の敷地に建てられていた。隣の敷地といっても働いている人の半分は弊社社員である。
私は窓が見えないところでパソコンを使っていたのだが、衝撃音で「爆風だ!」と思った。
余談だが、私は工場に勤務していた10年間で3度爆風を経験している。簡単に言うと大きな地震の地面の揺れがない感じである。この時は2度目だったのですぐ爆風とわかった。
皆、何があったんだというかんじだったが、窓の外を見ていた人は大きなファイアーボールが見えたと言っていた。爆発事故は間違いないが一体どこで?となった。
コンビナートなので自社敷地か他社敷地がすぐにはわかりにくい。15分くらいして「先ほどの爆発は弊社ではありません」とだけ放送が入った。
しばらくして、事故が起きたのは実験プラントであり、けが人が2名。弊社社員であることがわかった。病院に搬送され、二人とも全身熱傷。
すぐに人事、総務でつきそいのシフトが組まれる。男性中心だったので、私ははいらなかったが、けがをした1名が私が前年に採用、入社研修をした子であったため、心配でならず、仕事が終わってから病院に寄ってみた。
人事の男性が廊下に詰めていた。まだ何ともという感じだった。ちょうどけがをした子の同期の子が見舞いに来ており、病室から出てきたので「どうだった?」と聞いた。「痛い」とか「苦しい」と言っているという言葉が出てくると思ったが、「目をつぶるとあの光景が目に浮かぶ(熱傷を負っているくらいなので当然ファイヤーボールを目の前で見ている)ので、怖くて目がつぶれなくて眠れない」と言っていると言われた。
それを聞いた瞬間に事故というのは体だけでなく心にも消えない傷を残すのだと衝撃を受けた。そして「事故は憎まなければいけない」という言葉がよみがえって私の胸に深く刺さった。こういうことなのだと。
幸い二人とも命に別状なく、それでも熱傷の治療には皮膚移植等を繰り返し、半年以上を費やした。その後は復帰して今でも元気に働いている。
それでも体の傷、心の傷は一生残っているだろう。
この事故が私のその後の会社生活での労働安全の意識に深くかかわっている。
仕事で従業員に絶対けがをさせてはいけない。ましてや命を落とすことなどあってはならない。設備などは壊れても取り返しがつく、しかし人のからだ、命は取り返しがつかない。肝に銘じている。
しかしながら、東京に転勤して思ったのは事務所地区の安全への意識の低さである。机と机の間の通路の真ん中にゴミ箱や段ボールが無造作に置いてある。車での営業中に交通事故が起きるなど、労働災害があっても、けがが大したことがなければあまり重要なことだと考えていない。
大阪事務所で勤務していた時も部下が、健康診断から会社に戻る途中道で転んで足の小指を骨折する労働災害を起こした。書類作成に追われ、職場で再発防止の検討会をやると言ったら、本人は「私もでるんですか?」と。やはり工場とはまるで意識が違うことを強く感じた。私の経験を話し、労災を起こしてはならないことを説いたが届いたかどうか。
安全を少し勉強されている方はハインリッヒの法則をご存じだと思う。
1件の重大事故の背後には、重大事故に至らなかった29件の軽微な事故が隠れており、さらにその背後には事故寸前だった300件の異常、いわゆるヒヤリハット(ヒヤリとしたりハッとしたりする危険な状態)が隠れているというもの。
だからこそ工場ではヒヤリハットをあげていき、重大事故の芽を摘んでいっている。
残念ながら、その会社では全国の工場で今でも労働災害で死亡事故などが時に起きる。労働安全は末端の工場だけでなく、中枢でも取り組むべき問題だろう。
さらに昨今は、労働災害というと、工場でのけが等よりもうつなど精神障害があげられることが多くなってきた。これについてはまた機会があれば語りたい。