質問。


池田氏が亡くなったあと、創価学会はどうなっていくと思いますか?


本音をお願いします。

前回書いた

河辺メモに書かれているように、「題目と花押部分は日禅授与本尊の模写だ」というのは、本当であろうか?

実際みて、検証すれば早い。

創価学会員に公開質問


左が戒壇の大御本尊(弘安2年10月12日)明治44年大石寺の許可撮影 右が日禅授与本尊(弘安3年5月9日)


これを見て、似てる!そっくりだ!模写だ!というのはあまりにも早計すぎる。

同じ人物が、約半年違いで書いたものである。似ていて当然であり、違っているほうが異常である。

ただし、疑義を持たれたということは、大御本尊に一番似ているのだろうとは予測できる。


本当に、見比べて模写だと思われるだろうか?見れば、見るほど、私は違うと思うのだが・・

たとえば、

まず「南」。一画目「一」が左はすごく左下に止めているのが分かる。また、3・4画目の┌┐の部分が左は若干右より、右は若干左よりである。

あるいは、「妙」の「少」の二画目からの円は左は右斜め上にぐっといってくるっと回るが、右は上にいかず左より丸みをおびて回っている。そして、左下にさ~っと伸びる線は左のほうが柳がしなやかにしだれるようになっている。

あるいは、「華」右下部分は、左は楷書の「夕」のようになっているが、右は丸みをおびて猫の目のようになっている。

あるいは、縦棒が右のほうが明らかに太くずっと長い。

あるいは、「經」の右部分(旁)の1画目から2画目に続く「つ」が明らかに違う。そして2画目から4画目の「ツ」の書き方も違う。

なお、書いた年代測定方法として、本尊の「經」の旁「一ツエ」のツの部分が「ツ」か、3画続けて「つ」になっているかというものがある。それをもって、戒壇御本尊の年代が違うと指摘する人もいるようだが、この年代測定は例外が多く、一つの指針としてしか機能しない。しかし、年代特定方法の一つとしては「ツ」か「つ」かは非常に重要な判別方法では、ある。

小川尊師が言った「経」部分が違うというのも、おそらく、「ツ」の部分が違うということである。


そして、花押部分は、はっきりと違う。ご署名部分は模写した部分に含まれるかはわからないが、ご署名部分もはっきりとの間隔も違う。


花押部分(とご署名部分)を、身近に見ていた人がどうして模写したというだろうか??

超ド素人でも、花押部分は歴然と違うというのは、分かる!!


小川尊師も、言っている「一目でわかる」と。


この二本尊の題目部分も、はじめに言ったように、時間をかけて、見れば、見るほど、違うことがわかる。

見比べても、違いが分からないなんて、ローマ字しか知らない欧米人じゃないのだから・・・そんな人は、題目以前に、日本語の読み書きを小学生と勉強しなおしなさい。






人は冷静になることが大事でもある。釈尊、日蓮大聖人ではないものたちはたとえ誰でも間違えることはある。

間違えたことを素直に認め改めることがまた、仏になる正しき道である。


日顕上人がやった大法謗のひとつとされる「河辺メモ」


以下当メモ

日禅師の模写である。

A(阿部日顕上人、当時教学部長)面談 帝国H(ホテル

戒壇の本尊の件

戒壇の御本尊のは偽物である。

種々方法の筆跡鑑定で解った。字画判定

多分は法道院から奉納した日禅師との本尊の題目と花押を模写し、

その他は時師(日時上人)か有師(日有上人)頃の筆だ。

日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている

日禅授与の本尊は初めは北山にあったが北山の誰かが売りに出し、それを応師(日応上人)が何処で発見して購入したもの

弘安三年の御本尊(昭和53年2月)
つまり、題目と花押は日禅授与本尊の模写で、ほかは室町時代のもので、作られたのは、1365年から1482年ごろである、ということ。


以前から、偽物だと噂を立てられていた。

そもそも戒壇の大御本尊の造り方について、日達上人が述べている。


「大御本尊は楠の板でその時分は鉋(カンナ)がなかった。鎌倉時代には手斧(チョウナ)である。

だからあの御本尊は手斧(チョウナ)削りである。

それを見ればすぐ分かる

それを知らないで「うるしを塗ってあるから、あれは足利時代にできた」とか、

最近は「徳川時代にできた」などととんでもないことを言う。

ところがあれは、後ろを見ると、みんなチョウナで削った跡がちゃんと残っている。

それを見ても明らかに鎌倉時代である」(日達、昭和47年9月12日)


「その御本尊様はもう680年も前にできた板御本尊でございまして、これは、

当時、カンナというものがなかった鎌倉時代でございますから。

あの板御本尊様は、明らかにカンナでは造ってないのであります。

みんな手斧(チョウナ)、チョウナといっても戦国時代あるいは室町時代にできた丁鉋(チョウナ)ではなくて、もっと古い、まさかりみたいな手斧(チョウナ)で削られておるのでございます。

これが歴然としてあの板御本尊に残っておるのでございます。

それを見ても鎌倉時代、大聖人の時代にお造りになった御本尊様であるということがはっきりしておるのでございます」(日達、昭和47年11月20日)


これをそばで聞いている日顕上人は疑う余地もなかったと推測される。

で、学会から自身がニセモノだと主張したと批判を浴びて、日顕上人もこう述べている。

「本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違している、ということである。

よく拝すれば、中尊の七字の寸法と、全体からの御位置においても、明らかに違いが存し、また御署名花押の御文字及びその大きさや御位置、各十界尊形(そんぎょう)の位置等にも歴然たる相違が存する。

そして、もちろん模写の形跡は存在しない。

したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり

この事をはっきり、述べておくものである」(日顕、平成11年9月18日)


似ているなんて思いもしないし、疑ったことはないし、そんなものを比べるなんてナンセンスだ、ということにほかならないと、言っており、少なくとも、ニセモノよばわりはしていないとはっきり言っている。ぶっちゃけ、ここで、もうこの問題は終わりである。ニセモノと思っていないと、平成11年9月に言っているのだから。


大石寺理事・小川只道尊師が述べる。小川尊師は、御鍵取り役を十数年務め、戒壇大御本尊を間近で見て、御霊宝虫払大法会において、御本尊掛け役を十数年務めていたので、日禅師授与の御本尊も間近で見ている。


「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅師授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。

ですが、幾度も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに、

『経』の字の違いはハッキリわかります。

また、ことに違うのは『日蓮』の御署名と御花押の部分ですね

大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに

認(したた)められています。

また、大御本尊は御署名の『日』文字と御花押が離れて認められていますが、

日禅師授与の御本尊は『日』文字の上に御花押の上部が重なっていますし、

花押全体の形態もかなり違っています

これらの違いは、御虫払いの時に気をつけて拝していただければ

一目でわかります

もちろん、日禅師授与の御本尊には模写の形跡など、私が拝してきた限りでは

見当たりませんでしたよ」(小川尊師 談)


花押部分は2つの相違がはっきりしており、一目でわかる。次の記事で写真をごらんになれば分かるだろう。

そんなはっきり一目でわかるというものを、日顕上人が、模写だというはずがない。


そもそも、このメモには、日顕上人が言ったものだというのは、もちろん、誰が言ったものか、書いてない。それを、日顕上人が言ったと言うのは、勘違いが、悪意があるかどちらかだ。
これは、帝国ホテルで、日顕上人(当時教学部長)と河辺尊師が、こういうようなことを言っている人たちがいるが、どうしましょうか、ということを話し合ったときのメモである。日顕上人が言っていないものをまるで言ったかのごとく、言うのは誤りである。もう一度いうが、少なくとも河辺メモには誰がこう言ったとは書いていない。


(注意。日達上人の言葉は、年代を見ればわかるように、河辺メモ以前のときものもであるということ。そして鉋(かんな)が普及するのは15世紀であるから、日時上人時代に造ったと仮にした場合でも、鉋ではなく、ちょうな、そして槍鉋を用いた可能性はある。)



以上、日顕上人はメモ内容を語ったという事実はない。メモ内容のことを日顕上人話した、ということであり、日顕上人話したというのは、誤りだ。

学会はこれに関しては素直に訂正すべきである。それが、正しき道である。



富木常忍が、母の死去に際して、下総から身延山まで遺骨を抱持して参詣し、大聖人のもとで葬儀を営んだことが記されています。すなわち

「御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、(中略)然る後、随分に仏事を為し、事故無く還り給ふ」(御書p957 忘持経事)


日興上人が、「明日、弟子を遣わせて、お葬式をいたしましょう」、とおっしゃっています。すなわち

「なによりハ市王殿の乳母他界御事申はかり候ハす、明日こそ人をもまいらせて御とふらい申候ハめ。又聖霊御具足法花聖人の御寶前ニ申上まいらせ候」
(日興上人御筆の「曽弥殿御返事」より)


日興上人による宗祖御遷化記録

これはご逝去前後の経緯が記されたもの。つまり、なにを葬儀でしたかという細かな内容はないが、僧侶が関与していたことは必定。


日蓮日興時代から、今とはそっくりとは言えないまでも、当然僧侶による葬儀葬送はありました。


質問。

創価学会が僧侶による葬儀をしないのはなぜですか?



日蓮正宗時代には戒名が授けられていた。



戒名とは、仏弟子に師が生前授けるのが本来ですが、生前に授けられなかったときは、
死後にその人を見送る人たちが代わって(こちらのほうが現在多い)、授けてもらうものですよね。

初代牧口会長は、冷然院感得日常大居士
2代戸田会長は、大宣院法護日城大居士

解説しますと、○○院 △△ □□ 大居士
○○院は、院号。△△は、道号。「□□が戒名」。大居士は位号。

すなわち、牧口先生の戒名は、日常
戸田先生の戒名は、日城、であって争いはない。

そして日蓮大聖人の父の戒名は、妙日で、母の戒名は、妙蓮ですよね。


質問

戒名がなくなった創価学会の会員たち。

どうしてないんですか?理由はなんですか?

なくて不安じゃないですか?