こんにちは。
より一層気温が低くなり、寒い日が続くようになりました。
ふと夜空を見上げてみると、オリオン座が輝いてます。
東京の空でも星の瞬きがはっきりと目に映るくらい空気が澄んでいますね。
この季節に長野の山奥で天体観測がしてみたいな。天の川もはっきりと見えるに違いない。
前回、「ディーンの森」について少し触れてみました。
写真を載せてみました。
季節は冬だったので、ここまで緑が生い茂っている様子ではなく、
もっと物寂しく、人気のない薄暗い空気感の中を散歩していたように思います。
参照 Forest of Dean Night Walk | OutdoorLads
今日お話ししたかったのは、このディーンの森には「モンスター」のような生き物が住んでいると地元の人の謎めいた話があるのです。
インターネットでこのモンスターについて検索してみても、そんな情報は全くありません。
地元の人だけが知っているお話しなのかもしれません。
ではなぜ、僕がこの話を知っているかというと、紛れもないそのモンスターらしきものを僕が見てしまったからなのです。
友人と一緒にディーンの森の中を散歩していると、遠く、50mくらい先、
大きな黒い影が僕たちの歩く小道を横切っていった。友人にその話をしてみると、
もしかして、あれを見たのかもしれないと、謎めいたことを言っている。
犬よりもずっと大きくて、羊やヤギのような姿でもない。色は真っ黒で、脚は少し長かったような気がする。
友人の両親にもその話をすると同じことを言っていた。ちょっとした目撃談があるだけで、殆どの人が見たことが無いと言う。
いったいなんだったのか、今思い返してみてもわからないが、とても良い思い出になったなあと今は感じています。
さて、今日の感想文は少し短めになりますが、書いていきたいと思います。
前回同様に、作者はフィリパ・ピアスで、作品は『アヒルもぐり』。
このストーリーは他の話と比べてみると、極めて短い話で、10ページもありません。
大人の視点で読んでも、決して真新しいものは何もありません。
しかし、子どもたちの日常生活の中に、彼らにとってとても重要な、
決して派手ではない、小さなドラマがあるということを気がつかせてくれます。
あらすじ 『アヒルもぐり』
イギリスの片田舎、とても大きな池がありました。一方の端では年寄りが釣り糸を垂れ、
片一方では子どもたちが池で魚を網ですくって遊んでいます。
しかし、ある少年は泳いでいました。そのあたりは、幾ばくか深くなっていて、
泳げるものだけしか水に入ることは許されていませんでした。
他の泳げない子どもたちは、その少年が水に入っているのを眺めながら、
からかい半分、その少年のことを太っているという理由で「ソーセージ」というあだ名で呼んでいます。
しかし、その少年は「ソーセージ」と言われることを気にしませんでした。
少年はアヒルもぐりができるようになりたいと思い、練習をしています。
アヒルの子どものように、頭から水にもぐり、少し深いところまでいってから、また水面へ顔を出すのです。
水泳のコーチがレンガのブロックを持って少年のところにやってきます。
このレンガが水底の泥に埋まってしまう前に、つかみだし、また水面へ戻ってくるように少年に指示を出します。
アヒルもぐりをして、レンガを見つけ出そうとする少年は必死です。
やっとの思いで泥の中に沈みかけた塊を手にして、再び水面へ戻ってこようとする少年。
しかし、少年の頭によぎるのです、僕は相当深いところまで潜ってしまったのではないか、
もう二度とあの水面に顔を出し、外の空気を吸うことができないのではないか、と。
うろたえながら、息も絶え絶えに、やっとの思いで水面に顔を出し、外の空気を吸うことしか頭にありません。
あたりを見回してみると、もぐったところから数10センチしか離れていませんでした。
ほっとしたのも束の間、「ソーセージ、いいぞ、ソーセージ」とコーチの呼ぶ声が聞こえてきます。
手にしたものをもってみんなのところへ戻ってみると、手にしていたものは、
レンガではなく泥が詰まっただけのブリキの箱でした。何年も、沈んでいたに違いない。
僕が見つけなければ、ずっと水底に沈んだままだったのかもしれない、そう少年は思いました。
少年は、レンガをとりにもう一度潜らなければなしませんでした。
少年にはそれが簡単にできることがもうわかっていました。今度はぶるったりもせずにちゃんとやってのけられました。
でも、少年の中には、ブリキの箱を持ってきた時ほどの高揚感はまったくありませんでした。
少年はブリキの箱を家の暖炉の上において、その中にコインを集めて思うのです。
生きている限り、あの箱を持っているつもりだ。僕は100歳くらいまで生きられるかもしれない、と。
水の中にもぐり、箱をとってくるというだけのことかもしれないけれど、
この経験が、少年の人生にとってはまったくの天啓なのだと僕は思うのです。
大人にとってみれば、水にもぐって持ってきたものがただのガラクタの箱だった、にすぎないかもしれない。
しかし、少年にとってその経験は、自分が起こした奇跡に近いものであり、
自分に誇りと自信、勇気をもたらしたのだと思います。
だから、そんな自分はきっと100歳まで生きられるかもしれないと思うのですね。
箱はまさに一生の宝物になるわけです。
こういうささいな経験を子ども時代にどれだけ豊富に持つことができるのか、
ということは現代の子どもにとってとても大切なことだと心から思います。
家の中でゲームが悪いとは言わない。論理的であり、頭の良い人間になるかもしれない。
けれど、ゲームの中で生身の身体を用いることはないですよね。
僕は、自然の中で、いかに生身の身体を使って遊ぶかということが重要だと思うのです。
たとえば、僕は少年時代よく外に出ては昆虫採集をしていた。
綺麗な蝶が、いつどんな時にどこから飛んでくるか、実際それは全くわからないんですよね。
だから、ふと見つけた時にとても嬉しかった。
その感覚が今もあって、いったいどこに自分にとって素敵な出会いや経験が待っているかなどわからないんですよね。
だから、いつでもアンテナを張っていなければならないという感覚が残っています。
それから、少年時代に起こしたブレイブストーリーは大人になってもなぜか一生忘れないんですよね。
もちろん、家族でキャンプに行ったとか、そういう楽しい思い出もあります。しかし、それほど鮮明ではない。
僕に関して言えば、転んでしまえば、確実に怪我をすることは分かった上で、
転ぶことなくスケボーで急な坂を滑りおりた経験とか。
その時の風を切って進む感覚、どんなスピード感だったか、
車輪の立てる音、そういう全てを鮮明に思い出すことができます。
何を言いたいかと言いますと、つまり、大人になってから何かに直面した際、
その時自分がどのように感じ、考えるのかということは、
子供時代のあらゆる局面で育まれていて、そういうチャンスが自然とのふれ合いの中には溢れていると思うわけです。
でも決して、あの頃が良かったという感覚に浸るのはよくないですね。笑
たまのノスタルジーであれば良いですが。
ではまた次回に。